三 星の歌(吟遊詩人視点)



 極めて強力な魅了だったが、どうやら対象が賢者に限られていたようなので吟遊詩人はなんとか無事だった。しかし案の定勇者はそうもいかないらしく、よろめきながら立ち上がるとふらふらと引き寄せられるように魔法使いの方へ歩いて行こうとするので、慌てて腕を掴んで引き留めた。


「勇者!」

 耳元で呼びかけるが、聞こえていないようだ。美しい森の景色が見えるいつもの魅了とは違って相手を恋に落とすような類の魔法らしく、勇者はまるで着飾ったハイロを見てしまった時のようにうっとりした目で魔法使いを見つめ、そしてそのまま頭をぐらぐらさせたかと思うと、たらりと一筋鼻血を出して昏倒した。


「うわ……」

 いくら勇者がこの手の魔法に弱いとはいえ、あまりの威力に身震いした。真正面から浴びせかけられた賢者はどうなってしまったのだろうとおそるおそる見ると、とりあえず、まだ倒れてはいないようだった。だが明るい灰色になった瞳がぼんやりと虚ろに曇っていて、時折意識をはっきりさせるように頭を緩く振るが、少しも覚醒していない様子だ。


 しかし、どうやらそんな様子のおかしい賢者を見た魔法使いの方が、先に正気を取り戻したようだった。彼女は溢れ出る魔力をさっと引っ込めると不安げな顔で賢者の頭を撫で、そしてひっくり返っている勇者を見て耳をへたりとさせた。


「大丈夫ですよ、勇者の面倒は私が見ます。賢者の方は放っておけば元に戻りますから、あなたはこれ以上魅了が強くならないように気をつけていらっしゃい」

 魔力が引いたことでようやく動けるようになったらしい神官が優しく言うと、魔法使いが小さく頷いた。神官が額に手を当てて魔力の流れを調整してやると、勇者はよろよろと起き上がって手のひらで顔をごしごし擦り、鼻血が頬の方へ塗り広げられる。


「……あれ」

 手のひらにべったり付いた血を見た勇者がぼそっと呟き、ズボンにその手をなすりつけた。行儀の悪いその仕草に苦笑した神官が水筒を取り出すと、湿らせたハンカチで顔と手を拭ってやる。珍しく浄化の術を使わないのは大した汚れではないからだろうか、それとも神官もこの魔法で少し調子が狂っているのだろうか。


 それから夜になるまで魔法使いは一言も口をきかず、ただひたすら賢者のことを見つめながら、長い髪を小さな木の櫛で不器用にいていた。灰色になってしまった賢者の目はそれなりに元に戻ったが、まだぼうっとしているのか単に気が削がれたのか、彼が妖精の恋心について何か尋ねる様子はない。ただじっと見つめてくる青いエルフの瞳を凪いだ目で見つめ返し、キラキラと光っている髪の毛に目を映すと、またそれをぼんやりと眺めている。妖精に与えるために夕食のスープは賢者に作らせたかったのだが、どうやら今は難しそうだ。


 賢者が果たして正気なのか、それとも未だ妖精の魔法で幻惑されているのか、吟遊詩人には判断がつかなかった。否、食事もせずにずっと見つめ合っているあたり明らかにおかしいのだが、しかし今の魔法使いを見ていると、それも仕方ないように思えてくるのだ。


 彼女の瞳にもう魔法は込められていなかったが、冷たい氷色のそれにはたっぷりと色気のようなものが含まれていて、愛する人を誘惑するための美しい色に輝いている。それを見ているとなんだか解けるはずの魔法がいつまでも解けないような、心がどこか別世界へ連れ去られてしまうような、そんな不思議な気持ちになってくる。


 いや、そんな表現じゃ全然足りない──


 目の前で繰り広げられている不思議な光景に、ルシナルは吟遊詩人としての創作意欲が刺激されて考え込んだ。


 さて、あれを何と言えば良いのだろう──それは決して、人間が意図的に見せるようなふしだらな色気ではなかった。例えるとすれば、ただキラキラと美しいガラス細工だと思っていたものが月夜に全く違う輝きを見せたような、そういう……花弁の美しさを花の色気と歌うなら、彼女はいま間違いなくこの森で最も艶やかな花であると、そういう感じなのだ。


 それは全く人間の恋のあり方とは違っていて、故に吟遊詩人がそういう意味で魔法使いに惹かれることはなかったが、しかし仲間達の中で花の妖精を除けば最も花というものを愛しているであろう賢者は──なにせ趣味で薔薇の品種改良をしているくらいだ──まあ恋ではないにしろ、その美しさにすっかり心奪われているようだった。愛する人に見惚れられたエルフが、髪をくしけずる手を止めてうっとりと幸せそうに微笑みかける。


 吟遊詩人がそれを微笑ましく見守っていた、その時のことだ。彼は思わず驚愕に目を見張って、賢者の横顔をじっと見つめた。妖精の透き通った視線──魅了というよりは魅惑と称した方が良いだろうか? ふらふらと惑わせ酩酊させるような妖精の瞳を見つめる濃い灰色の目に、ジリっと焦げるような熱が生まれるのが見えた気がしたのだ。


 その瞬間になぜか笑みを消してふいと視線を逸らしたエルフは、背を向けて木立の奥へ走り去ってしまう。それに思わずといった様子で手を伸ばし立ち上がった賢者を見て、なるほど妖精はこうやって高嶺に咲いた憧れの人を自分のところまで揺り落とすのかと、吟遊詩人は感心した。


 賢者は少しの間それを見送り、少し困ったように周囲を見回した後、驚いたことにマントの裾を翻して少しだけ早足に妖精の後を追い始めた。


 吟遊詩人は思わずにんまりと笑い、勇者の手を引っ張ってこっそりその後をつける。覗き見るのは野暮だとわかっていたが、彼が妖精を追った先で──魔法で作られたものかもしれないとはいえ、愛に近しい感情を知ってしまったらしいこの賢い人がどう動くのか、どうしても気になったのだ。


 気配を殺して追いかけた先に見つけた魔法使いは、木の上にいた。


 彼女が好みそうな花咲くさくらんぼの木ではなく、まだ新芽が芽吹き始めたばかりで枝ばかり目立つ細い木だ。魔法使いはその枝の一本に、まるで自分こそが花だと言わんばかりに優雅に腰掛け、新芽のいくつかから美しい糸を紡ぎ下ろして、賢者を待っていた。


 うーん、鳥だなあ……。


 その糸がハープの弦なのはわかっているのだが、そろそろ巣作りでも始めそうに見える。せっせと果物を貢ぎ、髪の手入れをしてキラキラと輝かせ、そして次は木の枝に留まって音楽を聴かせるつもりらしい。エルフの恋というのは……花の妖精だというのに、なぜかどこからどう見ても鳥なのだった。


 美しいエルフはさらりと髪をかき上げて月明かりに輝かせ、そして新芽の弦に手を掛けた。以前聞いた時よりもずっと小さな音で爪弾き始めたのは意外だったが、すぐに理由が判明する。妖精らしい風変わりなハープの音色に合わせて、小さな小さな声で囁くように、魔法使いが歌い始めたのだ。



  影の中より

  朝日とともに星は立ちのぼり

  雲に隠れつ 雨となる

  雨音が訪れ 一層暗くなる

  闇のなか 星を育てる

  星はやがて大きな光となり

  影は一層暗くなる

  暗くなる



 月の塔で、オルゴールと呼ばれる歌の箱の音を初めて聞かせてもらった時の感情に似ている。つつけば壊れてしまいそうなほどに繊細で、星が降るようにきららかで、風が吹けば消えてしまうほど小さな歌声だ。


 静かなエルフ語の詩はあまり恋歌には聞こえなかったが、賢者のことを歌っているのだろうか。彼の瞳の色や何かについて表現しているようにも思えるが、文学に親しむどころか文字すら最近読めるようになったばかりの吟遊詩人には少し難しかった。


 しかしその音色には、はっきりと優しい愛が込められていた。この妖精が賢者を好きになってから大切に大切にあたためてきた気持ちが、手に取るようにわかる。きっと魔法使いにとって賢者の語る星の話は、吟遊詩人達が考えているよりもずっと重要な意味を持つのだろう。雲間に見つけたひとつの光をずっとずっと大切に見つめているような、そんな音がした。


 賢者は三日月の光に目を細めるような、光量ではなくその美しさが眩しい時の顔をして、そしてなんだか火のともったような綺麗な目をして、じっと魔法使いを見つめていた。


 その横顔が驚くほど勇者に似て見える。黒髪に鋭い切れ長の瞳、首の角度に眉の寄せ方──この人を守りたいのに遠ざかってしまう、そんな葛藤に苦しんでいる時の勇者と本当によく似ている。


 手が届かないと、思ってるんだろうな──


 五百年の寿命を余すところなく生きて、無愛想な自分と違って優しく笑う伴侶を得て、可愛い子供達に囲まれて欲しいと、きっとそう思っているのだろう。幸せとはそういうことではないのに、賢者はそれを知っているはずなのに、きっとそれでも自分の事となるとそう考えて身を引いてしまうのだろう。彼はそういう風にちょっとズレた、少し自己犠牲的な優しい人だ。


 がんばれ、マーリアル。


 たぶん、もうちょっとだ。吟遊詩人はそう考えて、無意識に拳を握った。頑張れ、どうしようもない勘違いをしている間抜けな賢者を、君が幸せにしてやるんだ。


 隣の勇者がちょっと恥じらっているような顔で賢者をじっと見つめ、そして少しだけ眉を下げて苦笑した。そうっと足音を立てないようにその場を離れて、そして顔を見合わせる。


「……あいつも相当馬鹿だな」

「ふふ、勇者ほどじゃないでしょ」

「は?」

「『天使が降ってきたのかと思った……』」

「おい、やめろよ!」


 お決まりのくだらないやり取りをした後に、吟遊詩人はニッと笑うと声を潜めて勇者に囁きかけた。

「ねえ勇者……魔法使いが僕らを呼ぶときの呼び名さ、それぞれエルフ語の意味があるって知ってた?」

「何だ、それ?」

 案の定勇者は驚いた顔をしたので、少し得意になって教えてやった。

「彼女は僕のことを『ルーシュナール』って呼ぶけどさ、あれ、リファール語だと『流星雨』って意味なんだって。彼に星の名前をもらったことがさ、ちょっと誇らしくて」

「……へえ」


 目を丸くした勇者に聞かせてやる。賢者ルーフルーは「糸のように細い月」、神官ローサリューは「眠たい銀狐」、ハイロファーロは「霧の中の光」、フラノフルーンは「金色の満月」、そして──


「で、俺は?」

勇者シダールはね、『細い葉っぱの樹』なんだって。正確に言うと濁音なしの『シタール』なんだけど……」

「おい、針葉樹じゃねえか!」


 予想通りの反応をしてくれた友を思いきり笑うと、少し切なくなっていた気持ちがすっと晴れやかになった。何の根拠もないのだが、互いに繊細すぎて上手に身を寄せられない花の妖精と天文学者も、この希望の塊のような空色の狼がそばにいれば幸せになれる気がした。





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