番外編 月下の竜(リース視点)
満月が輝く夜半。地上の月はその日によって金色に輝いたり赤みがかったりすると聞くが、この大洞窟の天井に投影された作りものの月は、いつだって真っ白な冷たい光を放つ。
そんな夜に、九歳の誕生日を明日に控えたリースは寝台を抜け出してこっそりと屋敷を出た。
「イフラ=アーヴァ」
ルシルを駈歩から
「……どうした? リース。こんな時間に……」
重い正面玄関の扉を片側だけ開け、開口一番にアレイはそう言った。きょとんとしているばかりで、夜中に抜け出してきたリースを叱りつける様子は今のところない。彼は父と違ってリースを小さな子供扱いしないのだ。ひとりの人間として、彼の知性や考えをきちんと認めてくれている。
「……なんだか、眠れなくて」
アレイの顔を見ると、途端に涙腺が緩んで声が揺れた。叔父はリースの言葉を聞いて仕方がなさそうに笑うと、さっと腕を伸ばして彼を抱き上げた。火の魔力を持っているわけではないのに、暖炉の炎のような、なんともいえないあたたかな匂いがする。
「アラスには伝えてきたのか?」
アラスはリースの父親の愛称だ。首を横に振ると、彼は「そうか」と頷いてリースと同じ色のミミズクを呼び出した。小さな声で「リースは私が預かっているから。明日の朝食後に送っていく」と伝言を吹き込み、さっと腕を振って飛ばす。ミミズクは壁をすり抜けて外へ飛び出していった。
「少し……そうだな、湖を見に行こうか」
振り返ってアレイが言った。それに頷くと、腕の中から飛び降りて開けっ放しだった扉から外へ出る。叔父は手を繋ごうとしたが、首を振って断った。夜の庭を歩いて屋敷の裏側へ回り込むと、途中から庭が半分森につながって、そして大きな湖が姿を現す。
凪いだ夜の湖に、鏡のように白い月が映る。そんな水辺の切り株に並んで腰掛けて、ぽつりぽつりと語った。神殿に入ることは自分でも納得している。気の神殿でよく勉強して、将来は賢者になりたいと思っている。それでも、秋を過ぎて風が冷たくなってきたのを感じると、あとたった一年しかないのだと思って胸が苦しい。
「リースは寂しがり屋だもんな」
アレイが微笑んで、リースの頭をわしわしとかき回した。いつもならば髪が乱れると文句を言うところだが、今は夜中なので特に整えてきておらず、まあいいかと彼の好きにさせる。
「寂しいわけでは、ないよ……ううん、叔父上に会えなくなるのは少し寂しいかな」
「はは、そうか。まあ職業柄、気の神殿は比較的他よりも訪ねやすいからな。宮廷の護身術に顕現術を取り入れたいとか、何かしら理由をつけて会いに行くよ。年に一度かそこらになるかもしれないが」
叔父は父と同じ王室付きの魔術師だ。父は王の近衛だが、叔父はあまり腕が立たないので王子達の教育係を請け負っている。明かりをつけたり伝令を出したりといった日常的な魔術や、ちょっとした護身術を教えるのだ。実技だけでなく、確か魔術理論や歴史の教師もしていたと思う。
「……うん」
小さく頷く。『うん』なんてくだけた言葉を使うのもこれで最後なのだろう。これは叔父に合わせているだけで、リース本来の話し方はもう少し堅く、そして神殿では当然丁寧な言葉遣いを徹底させられる。
「まあ、あまり重く考えるな。どうしても無理だったら還俗して他に勤め先を探せばいいんだ。そうしたら恋愛も結婚も自由だし、気の神殿出身なら研究職は引く手数多だぞ。確かにアラスは厳しいし頑固だが、成人すれば別に親のいいなりにならなくったっていい。五年の辛抱だ。法がそれを保証してる」
叔父はそう言って微笑んだ。
「……いいよ。恋愛とか、そういうのは」
「わかんないぞ? お前の父さんだってあんな顔してるが、ルースラとは一族の反対を押し切った大恋愛で結婚したんだから」
「……えっ」
なんだか聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして、気まずくなったリースはアレイから目を背けて空に視線を逃がした。と、明るい月を背にした不思議な影が見えて、眉をひそめる。
「叔父上、あれは何だろう──」
突然背後から大きな手が口を塞いだ。
「静かに、ワイバーンだ。屋敷へ戻るぞ──ルシナ=ミラ=シラヴァール」
さっと立ち上がったアレイが手を振って魔法陣を描き、二人の姿を擬態の術で覆い隠した。聞いたことのない厳しい警戒の声音に息を呑みながら、手を引く叔父について湖畔を後にする。走りながら後ろを振り返って──
「こちらへ来る!」
「声を出すな。木の下へ」
できるだけ丈夫そうな木の陰へ駆け込むと、アレイが擬態の術の上から半球状になった顕現術の盾を被せた。黒い魔術がぼうっと赤く染まり、そしてそこにまた擬態が重ねがけされて光が消える。
頭上を見上げた。リース達が隠れている木の真上を翼を広げた大きな影が旋回している。このまま食べられてしまうのだろうかとゾッとした時、突然巨大なワイバーンから小さな人影が飛び降りてくるのが見えた。
人が乗って──?
髪の長い人影がばさりと目の前の地面に降ってきた。風の術も使わず、屋根の上よりずっと高い場所から飛び降りて傷ひとつ負っていないようだ。そしてどうやら女性だ。煌々と輝く満月を背にして暗く影になった彼女の瞳だけが、きらりと鮮やかな空色に光った。叔父の腕がリースをぎゅっと抱きしめる。
「……姿を現せ」
女性の声にしては鋭すぎる響きで人影が言った。訛りが強いが、なんとか聞き取れる標準語だ。外国人だろうか? 叔父が少しの間考えるように唸り、そして盾はそのままに擬態だけを解き、小さく魔法の明かりを灯した。光に照らされて、女の姿が明らかになる。頭上で竜が羽ばたく風が、彼女が羽織っている鳥の翼のような奇妙な上着をバサバサと揺らした。真っ赤な羽をこれでもかと使っているので、炎がめらめら燃えているようにも見える。背には弓を背負っていて、腰にはナイフや短剣をたくさん下げていた。引き締まった体つき、暗い赤毛、空よりもずっと鮮烈な色をした明るい青の瞳。顔立ちは整っているようだが、顔じゅうに荒々しい筆遣いで黒い模様が描いてあってよくわからない。炎を模したような恐ろしげな柄だ。
「──我々に何の、用……なのかな?」
鋭く問うたアレイの声が途中からぽかんとなって、なんだか情けなく終わった。ゆらりと空気が揺れ、盾の術が弱まって消える気配がする。見上げると、叔父は目をまんまるくして食い入るように女の顔を見ていた。あの模様があまりに奇妙で驚いたのだろう。
「『我々』というのは間違いだ、碧玉の瞳の男。私はお前だけに用があって今夜ここへ来た。私は露草。お前の瞳と同じ青い花の名を与えられたアサの狩人。
「露草……綺麗な名前だね。私はアレイ。アレイスタル=アルク」
「叔父上?」
アレイの声に笑みが混ざったのを聞いて、リースは再び彼の顔を見上げた。ふにゃっと人懐こい顔で笑っている。一体どうしたというのか。
「アレイ……お前のような貧弱な男、アサで認められるはずもないが……しかし私はお前を夫にする。共に来い!」
突然女がその場から消えるような勢いで近寄ってきて、目にも留まらぬ速さでリースは叔父から引き剥がされた。慌てて縋りつこうとするが、空色の目が警告するようにこちらをちらりと見て、その視線の鋭さに思わず動きを止める。女はアレイの腕をむんずと掴むと、頭上に向かって獣が吠えるような不思議な響きの言葉で何か叫んだ。
「叔父上!」
「リース、どうしよう……こんな可憐な人に、求婚されてしまったよ」
「は?」
何やら頰を赤らめて恥じらっている様子のアレイにぽかんとすると、女が鋭く言った。
「静かにしろ、お前は私の獲物なのだぞ」
「わかったよ露草……私のお姫様」
「お、お姫様?」
露草とやらが動揺したように復唱して、なぜか少し内股になってもじもじと両手の指先をねじり合わせた。顔の模様が凶悪なだけにとても不気味だ。叔父がそんな横顔を見つめて「可愛い」と囁く。こちらもどうかしている。何か術をかけられているのかとも思ったが、そんな気配は感じない。
「黙れと言っただろう。行くぞ」
「ねえ、一応聞いてみるけれど……あと一年待ってくれないかい? 甥の大事な門出を見届けたいんだ」
「待たない。狩人に獲物が指図をするな」
上空からワイバーンが舞い降りてくる。竜の背には立派な鞍がついていて、女とは別に誰かが乗っていた。
「おいおい……えらく呼ぶのが早かったな、露草? 魔術師だろ、なんもされてないか?」
そいつが言った。比較的若い、しかし特徴的に嗄れた男の声だ。
「ああ。こんな貧弱な男一捻りだし、それに抵抗もしない。一目で私に惚れたようだ」
「は? ほんとか? 貴族の坊ちゃんが、あんたみたいな凶暴な女に?」
「彼女を悪く言わないでくれ。私の妻になる人だ」
「うわ、マジで惚れてやがる……良かったな露草、一目惚れの初恋が叶って」
「黙れバルゼル! 私に狩られたいか!」
「おお、こわ」
「……叔父上?」
声をかけると、アレイはいとも簡単に彼を担ぎ上げた女の手で竜の背にどさりと積み込まれながら、幸せそうにリースを見た。
「リース……私、結婚するよ。祝福してくれるかい?」
「え? ええ、まあ……え? その人と?」
「ありがとう。神殿には会いにいけなくなるかもしれないが……私も、お前の幸せをずっと祈ってるよ」
叔父を荷物のように紐でくくりつけ、女がその前に跨る。手綱を握った男が気まずそうな顔でリースを見下ろし、曖昧に笑う。こちらの男は目の周りがぐるりと赤い線で縁取られていた。
「ええと……すまんな嬢ちゃん。叔父上ってことはこいつの娘じゃないんだろ? 親はいるか? 一人で帰れるか?」
「……ええ、まあ」
「そっか。とりあえず、これをやるよ。このバンデッラーはちょっと俺でも止められんが……代わりに、飛竜商会ができるだけ力になるから」
男からポンと何か小さなものが投げられ、びっくりして避けた。地面に落ちたそれを見ると、小さな笛のようだ。
「じゃあ、達者でな、嬢ちゃん。ほんとにすまん。気をつけて帰るんだぞ」
「リースは男の子だよ」
にこやかな叔父の声。すまんな坊主と言い直す男の声。早くと急かす女の声。ぐるると唸る真紅のワイバーンの声。「
叔父は、謎の女に攫われてしまった。
「……は?」
もう一度疑問を声に出してみる。ふらふらと歩いて、何かの角でできている──もしかして竜の角だろうか──笛を拾う。小さく刻まれた竜の絵をじっと見て、革紐を首に掛け、胸元にぶら下げた。
「……は?」
更にもう一度言って、片手を持ち上げると魔法陣を描き、父に伝令鳥を飛ばした。抜け出したことで叱られるだろうが、今は仕方がない。ふらふらしたまま叔父の屋敷に戻り、ルシルに乗ってアルク本邸を目指し走った。途中で父の鳥が飛んできて、肩にとまると怒った声で『詳しい話を聞く』と言った。
(賢者と神官の子供時代編『白い満月と数多の星々』より)
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