エピローグ



 寝転がってのんびりと青い空を眺めていると、少しずつ枯渇した魔力が戻ってくる。そうすると体力も少し持ち直したアレン達は、いつの間にかふわふわした緑色に変わっている苔に覆われた地面からゆっくり起き上がった。マリオンだけは疲れ果ててまだ寝転がっていたが、それでも和やかににっこりした彼と目を合わせ、仲間達と──今はただ無言で微笑み合う。達成感とも安心感とも違うこの感情を共有するのに、この空の下ではどんな言葉も余計な気がした。


「ねえ……フパフパフムが、白い」


 その時、マーリアルが丘の向こうを見つめて不思議そうに囁いた。皆がそちらに顔を向け、数十人の渦の民からぎゅうぎゅうに抱きしめられてもみくちゃにされているアルハロードが「……フパフパフム?」と首を傾げる。


「ほんとだ……え、なんで?」

 フェイが宝石のような翅をふわっと広げながら呟いた。予想だにしない光景にアレンもぽかんとして、少し口を開けたままそれに頷く。


 驚いたことに、あちこちに群れをなしているスタグバラード達が、黒いもこもこから真っ白なもこもこに姿を変えていた。しかし死んでしまったとかそういう様子ではないようで、黒い時と変わらずもぞもぞうごめいているのが見える。


「……ああ。あの子達はね、浄化と同時に白くなって、淀みじゃなくきりとかかすみを食べて暮らすようになるんだよ。次に色が変わるのは大体二百年後かな……世界が淀んでくると段々灰色になってね、凶暴化してくるのもそのあたりかも」

 ルディが事もなげに言って、「久しぶりに見ると白も可愛いなあ……ねえラティはどっちが好き?」と隣に座っている渦の民に話しかけている。


「……じゃあ、淀みがなくなっても飢えないのだね」

 すると心から安堵した声でマーリアルが言って、長い耳を小さく震わせた。ずっと彼らのことを心配していたらしく、少し泣きそうになってシラのローブの袖にしがみつく。と、そのシラはどこからか這い寄ってきた小さいスタグバラードが膝に乗ってしまって硬直している。


「……魔法使い、引き取ってあげなよ」

 フェアリが苦笑すると、エルフは白い幼獣を抱き上げながら「……ん。でも、今はマーリアルと呼んで。使命は果たされたのだから」と囁いた。


「そっか、マーリアル……ふふ、そうか。じゃあ僕達、もうただの仲良しなんだね。神様に集められた剣伴じゃなくて、自分から一緒にいる、ただの仲間だ」


 使命を果たした幸福の裏で、全てが終わってしまったことに少しだけ寂しさを感じていたアレンは、その言葉で何もかもが塗り替えられて幸せ一杯になった。ああ、やはりフェイは凄い。彼の紡ぐ歌詞の一節一節はいつだってシダルを前に進ませてくれたが、全てを終えた今もこうして、シダルからアレンに戻る道に光を投げかけてくれる。


 そんな風に仲間達が感動したり微笑み合ったりして過ごしていると、遠く南の山の向こうから更なる幸福がやってきた。


 初めに気づいたのは緑の瞳を光らせたフェイだ。彼は面食らったようにちょっぴり仰け反って空の向こうを凝視し、そして言った。


「……え、ロギアスタドーラが飛んでくるんだけど」


 その一言でその場は大騒ぎになった。黒い鱗が美しい竜族の王を一目見たい渦の民達が、一斉に歓声を上げて跳ね回り始めたのだ。ルディが慌てて疲れ切っているアルハロードが潰されないように庇い、やれやれとため息をつきながらも期待を隠しきれない顔で、遠くに見え始めた黒い点を見つめる。


 竜の飛翔は、中でも酸海の黒竜の飛翔は、鳥なんて全く比べ物にならないほど速い。見る間にその姿を大きくしたロギアスタドーラが、視界に収まりきらぬ巨体の重量を感じさせない優雅な羽ばたきで地面に舞い降りた。そしてその背から小さな人影がふわりと飛び降りるのを見たアレンは途端に満開の笑顔になって、なけなしの魔力を全部内炎魔法につぎ込むと、動かない体を強引に動かして彼女に駆け寄った。


「ハイロ……ハイロ!」

「シダル!」


 柔らかい衝撃がぶつかって、愛しい人がアレンの胸に飛び込んできた。ぎゅうっと細い両の腕に力を込めて抱きしめられ、そのあまりの幸福感に全てがとろけだした彼は、へなへなと力尽きて地面に座り込む。そして彼女の後ろからやってきたガレが太い麻の縄でぐるぐる巻きにしたフラノとライを連れているのを見て、力が抜けたその姿勢のまま吹き出して笑った。


「ガレ、お前それ……」

「ほら、約束の品だ。暴れぬよう縛っておいた。受け取れ」

「ガレ……全く、君って人は……」


 ライが困った声で呟いてガレをちらりと見上げ、そしてなぜかきゅっと唇を結んで恥ずかしげに俯く。もしや何かあったのだろうかと期待してフラノに目配せしたが、彼は縛られたままゆったりと頷いて、アルハロードよりやわらかい満月色の瞳でシダルを見つめ、小声で「……針葉樹、よく頑張った」と言っただけだった。本当はとても賢いし優しくて勇敢な男なのだが、やはり彼は少し変だ。


「……で、なんでロギアスタドーラに乗ってたんだ?」

 勇者が尋ねると、それには竜王が自ら轟くように唸って答えた。


──山脈のふもとで、どうやって山を越えようかと困り果てていた。そこの雌からそなたの魔力の匂いがした故、すぐに番とわかって連れて来てやったのだ。シダルよ、妻は片時もかたわらから離すな。いつ何時、何が起きようとも宝を守るのが雄の務めだ


「……うん、ありがとう。肝に銘じる」

 番と言われてしまって恥ずかしくなったシダルは、礼を言いながらもそわそわと視線を彷徨わせて、困った末にハイロをぎゅっと抱きしめた。見つめるとハイロも少し照れて頰を赤らめているのに気づいて、愛おしさに胸が張り裂けそうになる。彼女の兄が不思議そうな顔でじっとその様子を見ているが、そんなことは気にしない。今のシダルは愛する人のことで頭が一杯だった。


「ハイロ……俺、渦の王を救ったよ」

 耳元で囁くと、彼女は腕の中から星の色の瞳で彼を見上げて言った。

「ええ……貴方ならそうなさると信じていました、シダル」


 ああ、渦の城で見ていた夢が現実になった。そう思って幸せを噛み締め、シダルは愛する人に光がこぼれるような笑みを向けた。

「ああ、お前が信じていてくれたから、俺も成し遂げられた……なあ、アレンと呼んでくれないか? もう使命を果たしたんだから、俺はもう世界のために生きる勇者じゃなく、ただのお前の恋人だ」

 甘い声で願う。しかし、ハイロは少し首を傾げてからこう言った。


「アレグレン……私は貴方のその名を愛おしく思いますが、それでも私にとっての『シダル』は永遠に失われません。私は貴方の愛情深い信念に救われ、そして貴方のその心根は今もなお、一筋として失われていないのですから。シダル、この名は勇者の肩書きではなく貴方の心の有り様を称して、レフルスが名付けたのでしょう?」


 そんな風に言われてしまった彼はもう心をとろとろにして、言われるがままアレンからシダルに舞い戻った。仲間達を振り返って「なあ、聞いてたか……やっぱりシダルって呼んでくれ」と言うと、彼らも笑ってそれに同意してくれる。


「そうだね、僕の名前は『希望の歌』、レフルスは『叡智の橋』、ロサラスは『澄み渡る泉』から取られてるんでしょう? それに何と言ってもルーウェンは──」

「黙れ」


 レフルスが地の底から響くような声で、楽しげに目を輝かせていたフェアリの言葉を遮った。抱えている子犬大のもこもこを撫でながらルーウェンが小さな声で「使命を終えたのだから……もう、魔法が使えなくなってもいいよね」とやわらかく呟き、勢い良く振り返った恋人に手のひらで口を塞がれる。そんな彼らを微笑ましげに見つめていたロサラスが、少し体調が戻ってきたのか地面に手をついてゆっくり起き上がりながら言った。


「私達は初めから、肩書きでない名で呼び合っていたのですね……生まれ持った名でも神に与えられた役目でもない、自ら前に進むための名前です。ねえシダル、覚えていますか? 私達にこの名前を付けてくださったのはレフルスですが、それはあなたが、仲間の呼び方のような大切なことを簡単に決めたくないと、そう言ったからなのですよ」

「……そうだったかな」


 その時のことはシダルもよく覚えていたが、恥ずかしくなってしまってそうごまかした。するとハイロが小さくクスッと笑ったので、その愛らしさに心が抑えきれなくなってしまう。彼は右腕で彼女を優しく抱きしめ、左手で灰色がかった淡い金の髪を丁寧に撫で下ろした。


「……結婚しよう、ハイロ。ヴェルトルートに帰ったら、お前の育った気の神殿で式を挙げよう」


 懐から空色の石のついた指輪を取り出し、少しだけ緊張で震えながら、精一杯の愛を込めてそう言った。ハイロは勇者の胸から顔を上げてそれを見つめ……そして勇者の瞳をじっと見上げ、美しい星色の瞳に青空を映しながら、キラキラと輝く満面の笑みを浮かべる。


 花びらのような唇が弧を描いたまま、彼が何より待ち望んでいた言葉を紡いだ。


「はい、シダル」


 あまりの歓喜と幸福と感涙と疲労でわけがわからなくなったシダルは、泣きそうになりながら彼女の唇にひとつ、この上なく優しい口づけを落とすと、そのままふわっと意識を飛ばして昏倒したのだった。





 さて、ここまで読み終えてわかる通り──彼が好んだ多くの物語の勇者と違って、シダルは決して全てを持っているわけではなかった。街を救って涙ながらに礼を言われるとか、行く先々で歓迎の宴を開かれるとか、王様から凄い褒美をもらうとか──彼の旅路のなかに、そんな場面はほとんど存在しなかった。


 しかし彼は、心から信頼できる大切な仲間に囲まれていた。愛する人の手を握っていて、そしてどこまでも広く澄み切った真っ青な空が彼の上で輝いていた。笑顔のまま気絶している彼を見つめた魔王が、幸せそうに微笑んで「シダル、大好きな子と結婚するんだね。おめでとう」と囁いた。


 故にシダルはもう、それからずっと永遠に、あれほど焦がれた物語の勇者へ追いつきたいと願うことはなかった。


 なぜなら、彼はどんな物語の勇者よりもずっとずっと、幸福に違いなかったからだ。



〈完〉




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る