六 空色



 重い重い神罰が勇者を襲った。一時的に魔力を抜き取られるだけだった以前とは違う──それが与えられた祝福を根こそぎ奪うものであるとすぐにわかった。ずっと勇者の身に宿っていた金色こんじきの愛が引き剥がされるように離れ、全ての魔力、即ち生命力を失って死んでしまえと、神の絶対的な意思が勇者を押し潰そうとした。


 だがしかし、シダルはまだ、火の女神の加護によって強く守られていた。戦いと守護の神に与えられた炎の力がレヴィエルの怒りを跳ね除け、強く強く燃え上がって今まで以上に彼の生命力が増す。


 胸をかきむしりながら苦悶の声を上げる勇者の両目が、強い魔力の色に輝いている。その見開かれた瞳から朝日のような淡い金色きんいろが抜けて、真夏の晴天のような透き通った青色に光るのを、仲間達が恐怖に身を震わせながら蒼白になって見つめた。


 熱い……熱い、あつい──!


 そしてその勇者は、全身の血が燃え盛るような感覚に激しく振り回されていた。何か女神が直接手を貸しているのか、勇者が何もせずとも魔力が勝手に己の身を守るのを感じて、まだ自分には愛してくれる神がいるのだと少しだけ心に光が差し込む。


 それと同時に、勇者は自分を情けないとも考えた。仲間や渦の王を守るために授かった青い炎を全部、ただ自分の命を守るために使っている。せっかく火の女神が自分を応援してくれたのに、仲間達もそれを信じて支えてくれたのに、ここに来てからの自分はあまりに無力だ。どんなに彼が強い信念を持っていても、身の丈に合わない的外れな信念では意味がない。シダルは、いやアレンは、ただ自分が必要とされる状況にはしゃいで空回りして、仲間を振り回して、怪我をさせて、苦しめて──


 そんな心の隙間に、神の手が滑り込んだ。善悪の神の膨大な力が今にも壊れそうな勇者の精神の亀裂をこじ開けて、真っ二つにして、それを絶望の海に放り込む。


 唐突に、勇者の脳裏へ鮮やかな映像が浮かび上がった。まるで夢を見ているように為す術もなくその中に取り込まれ、どこまでが現実なのかわからなくなる、そんなはっきりとして真っ黒な情景だ。


 そこでは、全てを失った終末の勇者ラサが泣いていた。愛する人の灰を握りしめて、瞳からぼたぼたと雫が滴っているのに、本人は微塵もそれに気づいていない。ただ強い苦しみと痛みだけがそこにあって、その他には何もない。生きる意味もなければ、生きている実感もない。


 無意識のうちに、慣れた動作で剣を抜いていた。今まで仲間を守るために幾度も抜いてきたこの聖剣は、もう二度と彼らを守ることができない。みんな失ってしまったから。みんないなくなってしまったから。ラサを、シダルを置いて。だから追いかけないと。


 熱い衝撃が胸を貫いた。堪え難い痛みが襲ったが、彼の心はもうとっくに痛みに耐えきれず壊れてしまっていたので、何も感じなかった。ただ仲間の元へゆける喜びだけが胸の中で──


 ずるりと剣が引き抜かれた。目を開けたシダルのすぐ鼻の先に血の滴る青い剣先と、ものすごく怒っている神官の顔があった。キラキラと場違いに繊細な音をこぼす彼の杖をちらりと見てから、己の左胸に視線を下ろす。ぐっしょりと赤く染まって穴の空いた服があって、その下、恐ろしい勢いで傷が塞がってゆき、そして瞬く間にまっさらな肌が残るだけになった。


「シダル!!」


 激しい怒りの声が彼を怒鳴りつけた。


「首を飛ばしても、継いで差し上げます。あなたがどんなに、どんなに自分を傷つけても、私がいる限り、決して死なせては差し上げません!」


 叫んだロサラスがそのまま咳き込み、ごぼりと真っ赤な血の塊を吐いた。それでも彼は瞳を爛々と澄んだ水の色に輝かせ、赤く染まった唇を歪め、「命にかえても、あなたを守りますから」と凄絶な笑みを浮かべる。その気迫に、ラサとひとつになっていた心がぐらりと揺れた。そんな彼の様子に水色の瞳がハッと見張られ、剣も杖も放り出した友が覆い被さるように勇者の両肩を掴む。


「──痛っ!」


 とその時、突然凄まじい勢いで──何か赤くて小さなものが目の前でパァンと破裂し、顔中に破片を浴びせかけられた勇者と神官が同時に悲鳴を上げた。驚いた勢いで起き上がった勇者が胸元を見ると、なんと、人魚の王子ガジュラに贈られた護り石の首飾りが粉々に砕けている。あまりに予想外の出来事に、勇者は深い絶望をひと時忘れ、頰に刺さった石の欠片を引き抜きながらぽかんとして神官と目を合わせた。


「……石が」

「ガジュラ殿の、護り石……もしかして、あなたを守ろうとしたのでしょうか」

「……いや、こういうのってさ。弾け飛ぶ衝撃そのもので何かするんじゃなくて、もっとこう……凄い奇跡を起こした反動で力を失って割れるもんじゃないのか?」


 拍子抜けした顔のまま勇者がぽつりと言うと、ふふっと笑うルシナルの明るい声が聞こえた。髪をくしゃくしゃとかき回す手の感触を辿って見上げると、鮮やかに輝く緑色の瞳が涙で潤んで、ハッと魅入られるような美しい色彩にきらめいている。


「ねえシダル……ハイロちゃんにさ、指輪を渡すんでしょ? 自暴自棄になってちゃだめだよ、君は彼女を守る人なんだから」


 ハイロ……そうだ、ハイロ。俺の愛する人が、俺を待ってる。


 星の光が目の前をざあっと横切って、それに導かれるようにシダルは自分を取り戻した。神が与える絶望感と罪悪感はまだその手を緩めていなかったが、それでも真っ直ぐ立っていられるだけの愛を、シダルは受け取っていた。


 我に返ったシダルはゆっくり周囲を見回す。そして彼は、細く泣き出しそうなため息をついて淡く微笑んだ。


 そこにはこの世のものとは思えぬ、天の楽園のような光景が広がっていた。足元には清らかな泉が沸き、淡い銀色に透き通った花が咲き乱れ、その甘い香りに乗ってきらめく星が漂う。そして柔らかな鐘の音が安らぎを運び、希望そのもののようなリュートの音色に合わせて歌が響く。



  僕は人が好きだ

  なぜなら彼らは創るものだから

  夜の闇に明かりを灯し

  数えきれない種類の楽器を奏で

  歌を書き残す


  僕は人が好きだ

  なぜなら彼らは知るものだから

  嵐の日の黒雲の向こうに

  どんな星が輝いているのか知っているから



 そう。妖精の声が歌う通り、人はまだ、穢れきってどうしようもない生き物ではなかった。彼らの中には確かに善良な者がいて、美しいものを生み出す者がいて、深い愛を差し出せる強さを持った者がいた。だからシダルはそんな人間達も、そして目の前の渦の王も、絶対に両方を救わねばならなかった。


 シダルは転がっていた聖剣を手に取り、さっと視線を鋭くした神官に大丈夫だと微笑んでみせてから、魔力を込めて石の床に突き刺した。渦を失った純粋な炎の魔法が青く光る剣を通じて広がり、愛する仲間の作った水と安らかに寄り添い混ざり合って熱を帯びる。


 そして次の瞬間、広間の全てが眩い空色に輝いた。天井に描かれた至高の絵画をずっとずっと鮮やかに光らせたような、女神の与えた涙が出るほど美しい空色が、暗い地底の小さな部屋を埋め尽くした。仲間達が息を呑んで、そしてそれと同じ音が正面からもうひとつ、幽かだがはっきりと聞こえる。


「……シダル、僕を刺せ」


 アルハロードの声がした。金の瞳に空色が映って、そこからぽたぽたと透き通った涙がこぼれている。渦の神ではなく内気で優しい彼自身の声で、それでいて胸が痛くなるような真っ直ぐな声で、彼はシダルの青い瞳を食い入るように見つめながら言った。


「僕は君が……綺麗な空色の目をした人間のシダルが好きだ。出会ったばかりだけれど、はっきりそう思う──ねえ、僕の勇者。地上の善きもの達が君のような優しくて勇敢な生き物と一緒に生きていけるなら……そんな未来を作れるなら、僕は死んでもいい」


「アルハロード、お前──」

 悲愴な目で笑いかける彼へ手を伸ばしたシダルの言葉を、渦の王がきっぱり首を振って遮った。


「迷うな、勇者シダル! 迷わずに真っ直ぐ、僕の心臓を貫け! 他でもない君の手で、僕に本物の蒼天を作らせてくれ!」


 揺るがぬ彼の覚悟に、シダルも覚悟が決まった。彼が剣を床から引き抜くと、ふっと辺りを照らしていた光が消え、そして手の中の聖剣だけが煌々と空色に輝く。シダルは吸いつくように手に馴染むその柄を握りしめると、彼の持つ力の全部を込めて、内なる炎を注ぎ込んだ。空色の光が強くなるほどに透き通った剣身がどんどんと透明度を増して、まるで炎そのもののように揺らめいている。


 そう、後から思えば、それは火の女神の神託だったのかもしれない。その時のシダルはあまりに強く体内を炎が巡っていたので、それがあまりに痛くて苦しかったので、本当のところはわからなかった。


 しかしその時──彼は確かにそれが「できる」と知っていた。


 内炎魔法ハイアルートの名に相応しく、金属としての実体を失って完全な炎と化した聖剣が、渦の王の胸を貫いた。「鍵」が差し込まれ、強大な力が内から外へと転じ、凄まじい浄化の力が噴き上がる。しかし世界を覆い尽くすだけの勢いを持った魔力の奔流で、アルハロードの体が砕け散ることはない。心臓に直接差し込まれたシダルの魔力が内炎魔法となって彼の全身を巡り、火の女神の愛したその強く揺らがぬ信念の力で、その肉体を守っていた。世界を浄化するだけの力には到底及ばなかったシダルの魔力だが、渦の王一人をその定めから守り抜くだけならば、十分に事足りていた。


 そして死の瞬間と同じだけの魔力の激流に晒されているアルハロードの心は、図らずもシダルの仲間達が守っていた。その恐怖と苦しみだけで生きるのを諦めてしまいそうな心を水が優しく宥め、鐘の音がじっと支え、命の歌声が希望を吹き込み、愛の花々が抱きしめる。絶望に捕らえられた勇者を救おうと命懸けで振るわれた愛と絆の力が、シダル一人では渦の王の心だけをうしなってしまっていたであろう運命を書き換え、奇跡を起こしていた。


 さて、そこでは目も開けていられない金色の浄化の光が全てを覆い尽くし、あまりに激しい力が噴き出していたが、しかし灰色の玉座が鎮座する広間には、足元の水面が僅かに揺れる優しい水音と優雅で優しい楽器の音色、妖精の歌声しか響いていなかった。


 それは静かで激しく、そして長い奇妙な戦いだった。瞼の下からでもわかる光の洪水と強い強い浄化の気配、そんな体感と耳が拾う美しい音楽があまりに大きく食い違っていて、シダルは自分の頭がおかしくなったのかと思った。氾濫する浄化の力はいつまでも途切れず、魔力が枯渇し、口から血が滴る。すると優しい手が後ろからシダルの両頬を包み、「今だけ、特別ね」と甘い囁き声がして、身震いするほど強い愛の魔力が流し込まれた。じっと集中してその愛に守りの炎を燃え移らせ、更に勢いを増して燃え立たせる。ルーウェンが段々と息を荒くして苦しげにし始めると、皆が手を伸ばして自分の命を削り、シダルを支えた。


 そうやって、世界の全ての淀みを浄化しきるまでシダルは耐えた。耐え切った。


 唐突に全ての光が消え失せ、剣の仲間達は皆ふらふらに疲れ果てて床に転がった。それでもなんとか手を伸ばして、シダルはアルハロードの手を握る。


 ぐったりと倒れ込んでいた渦の王はほんの少しだけ目を開けて、一粒の涙をこぼしながら口の端だけで微笑んだ。





 そして仲間達の間に安堵が広がりかけた、その時のことだった。広間の扉が吹き飛ぶように開いて、真っ青な顔をしたルディが「シダル! 君はなんてことを!」と叫びながら駆け込んできた。しかし全員が倒れ伏している状況に彼は続く言葉を飲み込み、そしてアルハロードの胸が静かに上下していることに気づくと、瞳がこぼれ落ちないか心配になるほど目をまん丸くする。そして何度もつまずきながら駆け寄り、王の体に縋りついて泣きじゃくった。アルハロードが優しくそんな彼の頭に手を置いて、掠れ切った声で「ねえルディ、空が見たい……」と言う。


 くらっと世界が揺れて、シダル達は一瞬の間に城を出て果ての平原に倒れていた。移動した瞬間、思わずぎゅっと目を閉じてしまうくらい外が明るい。それでも皆は横たわったままどうにか顔を空に向け、そして眩しさを忘れ、呆然とそこに広がる光景を見上げた。


 真夜中を過ぎた北の果て、朧げな銀色の白夜であるはずのその空が真っ青に──南から旅をしてきたシダル達ですら目にしたことがない澄み切った明るい青空色に輝いていた。雲ひとつない快晴で、なだらかな平地だけが続く果ての地で広く広く、地平線までが全てその空色に埋め尽くされている。まるで空に飲み込まれてしまうような気持ちになって、シダルは軋む身体の痛みを無視して腕を持ち上げ、美しいその青色にそっと手を浸した。


「……シダル、君の瞳の色だ」


 アルハロードがぽつりと言った。顔を向けると、金色を使い果たして勇者と同じ空色に染まっている瞳が、キラキラと命の光で輝いていた。


「……今はお前の目の色だよ」


 がらがらに枯れた声でシダルが答えると、アルハロードは一度深く息を吸って吐き、本当に本当に幸せそうに笑った。


「……そっか。君の色をもらったから、こんなに空が青く見えるのかな」


 涙で潤んだその声を聞いた途端、突然今まで我慢していた全ての感情がこみ上げ、抑えきれなくなって、シダルは下ろした腕で鼻と口を覆い隠すと声を上げて泣いた。


 彼は内気な友にそれを見られているのが恥ずかしくて、本当は顔を全て隠してしまいたかった。しかし優しい果ての王の瞳に輝く空の色が見えなくなるのが惜しくて、目元はどうしても隠せなかった。





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