九 魔狼 前編(神官視点)



 吟遊詩人の警告に驚いた神官はびっくりして立ち上がり、しかし立ち上がったところで特にできることもなく、ひとまずそわそわと周囲を見回した。賢者に頰を叩かれて目を覚ました勇者は少しぼんやりしている様子だったが、頭上の枝からばさりと魔法使いが降ってくると飛び上がるように立ち上がって身構える。


「うわっ! ……なんだ、お前か」

 よく見ると、いつの間にか短剣まで抜いていた。瞬発力もここまでくると最早獣のようだ。


「針葉樹を……守らないと」

 妖精さんが不安げにそんな獣の頭を撫でた。魔法使いが初めて勇者と出会った時、彼は十匹近い魔狼ヴォーラに群がられ喰らいつかれながら死にかけていたらしい。同じ敵が迫っていると聞けばそれは恐ろしくもなるだろう。しかし勇者も敵わないような魔獣を複数、戦い慣れていない自分達がどうやって相手取れば良いのだろうか。顎に手を当てて考え込んでいると、突然勇者が神官の胴に腕を回して肩に担ぎ上げた。


「わっ」

「すまん。ちょっと腹が苦しいかもしれんが、我慢しろよ」

 視界がぐるりとして思わず声を上げると勇者が気遣わしげな声で言う。その優しさは嬉しい。が、できれば先に声をかけてほしい。


 そう、声が出るほど驚くという感覚も、神官にとっては未だに新鮮だった。神殿に入った時から少しずつ増え、成人の儀と同時に完成された背の紋様は、思ったよりも欲望の類いを封じてはいなかったらしい。幸いにしてそれがなくなっても彼が過ぎた憎悪や嫉妬、肉欲に悩まされるようなことはなかったが、しかし彼らと旅をするようになってから、神官の世界は鮮やかになった。


 空腹で食べる食事は美味しかった。空を見て得る感動が深かった。彼らと共に声を上げて笑い、飛び上がって驚き、はっきりとした決意を持って敵に立ち向かうのは、なんだか生きているという感じがした。勇者はいつも当たり前のように自分達を守ろうと立ち回るが──本当は神官だって、自分に生をもたらしてくれる勇者を、できることなら守ってやりたいと思っているのだ。


「どっちだ?」

「あっち」


 しかしなぜだろうか。仲間の心配をよそに、彼にとっては悪夢のようであろう敵の襲来を告げられた勇者は全く落ち着き払っていた。どこか気楽ささえ感じる声で彼が尋ねると、吟遊詩人が森の奥の方角を指差す。


「よし、じゃあ川辺に移動するぞ。行きに通ったとこだ」

 勇者が頷いてそう言うと、賢者が何を悟ったのかふっと口の端を上げて焚き火を消す。


「魔獣は荷を荒らさぬ。嵩張るものは置いて行きなさい」

「ねえ、どうして川辺なの? もうそんなに時間がないよ。せっかく開けたところにいるのに」


 吟遊詩人の訴えは最もだったが、しかし勇者は「それはだめだ」ときっぱり首を振った。頑なにも見える態度に少し疑問を抱くが、しかし次に続いた彼の言葉に神官は賞賛の気持ちで微笑んだ。ああ……やはり、この人が私達の勇者で良かった。


「だって花畑が荒らされたら嫌だろ? 魔法使い」


 果たしてこれ以上優しい思い遣りが他にあるだろうか? 耳を立てたエルフが喜びを表しているのか軽く勇者に体当たりをしてから、地面から鞄を拾い上げて吟遊詩人をさっと抱える。


 木々の合間を縫って、川の方まで走った。飛ぶように景色が過ぎてゆき、どれだけ背中にしがみついても頭が揺れて目が回る。地面を見るのはやめようと思って隣に目を向ければ、一刻の猶予もないと勇者の反対の肩に担がれた賢者が……気の毒になるくらい不機嫌そうな顔をしていた。これは後で元に戻すのが大変そうだ。


「ねえ魔法使い、それ……貴重品の袋かと思ったら、おもちゃの鞄持ってきたんだね……」

「おやまあ」


 聞こえてきた吟遊詩人の声に思わず呟くと、勇者の頭の向こうで賢者が深いため息をつき、息を吐いた拍子に腹に衝撃が来たらしく息を詰まらせた。苦しそうだったが、しかしとっくに潰れた蛙のようになっている自分と比べれば随分ましだ。なぜこの世捨て人は、自分と変わらないくらい塔の中に引きこもっていたはずなのにこんなに体力があるのだろう。塔の構造上、階段の上り下りが多いのが良かったのだろうか。


 しかし勇者の体力の前では、そんな賢者も吹けば飛ぶようにか弱く見える。彼は二人も担いでいるのに、馬に匹敵するのではないかという凄まじい速さで川辺に走り着いた。どうやらそれでも魔法使いを引き離さないよう気を遣っていたらしく、息切れひとつしていない。魔狼との距離がほとんど縮まっていないと、吟遊詩人が恐れるような声を出す。


 太腿までの深さの川を、まるで何の抵抗も感じていないように勇者がバシャバシャと渡る。勇者はそれで良いが華奢な妖精はどうするのだろうとなんとか顔を上げて見れば、彼はキラキラと光の粉を撒きながら水面を走ってそれに続いていた。幻想的な光景に息を呑んでいると、その声に振り返った勇者がぎょっとして体を揺らす。


「す、凄いな魔法使い」

「……ん?」


 勇者は呆然としたように声をかけたが、魔法使いがよくわかっていなさそうなのを見て「いや、なんでもない」と首を振った。川岸に降ろされると「木に登っとけ」と言って自分は対岸に戻ってゆく。さて困った、そんなことを言われても木登りなんてできない。


「ローサリュー、手を……」

 困っていると、魔法使いがのんびりした口調で自分を呼んだ。先に登っている吟遊詩人の手を掴んで半分体を引き上げると、見た目より力のあるエルフが下から押してくれる。妖精達の手を借りてなんとか枝に座ると、神官は隣でしゃがんでいる少年の肩に手を回してしっかり引き寄せた。もしまた彼が気絶しても、これなら落ちないだろう。


「もう近いよ! 勇者もそろそろ登って!」

 吟遊詩人が川の向こうの勇者に叫んだ。しかし勇敢な狩人は恐ろしいことに、こちらを向くと軽く首を振って叫び返す。

「いや……この場所だと、ほっとくと街まで行くぞ! この辺りで狩った方がいいだろ!」


 そして「そんなのだめ」と心配そうに首を振り返している仲間を見て「あー、そうか」と気の抜けた顔で笑った。

「最初の時、俺が魔狼にやられてたからそんな顔してるんだな? これだけ準備の時間があれば大丈夫だよ、まあ見とけって」


「勇者、魔吼まこうを使う際は炎を込めなさい。強く想像するだけで良い、仲間を守り、敵を退ける炎を思い浮かべながら吼えるのだ。上手くゆけば、ただの威嚇でなく攻撃へと変わる可能性がある」

 大声を出さずともよく声が通る賢者が、静かな口調でそう助言した。強い想像は魔法の基本だ。空の街での戦いの時に彼が拳に炎を纏わせていたように、本能的な感情の力で魔法を使わせようとしているのだろう。


「おう、炎だな。任せろ」

 青い目がにやりと好戦的な笑みを返す。その視線の強さと鋭さに、彼が炎を吐いたら竜のように見えそうだと笑みが浮かんだ。


 シダルは不思議な男だった。木陰で本を読んでいる時などはいっそ貴公子めいて見えるほど優しく笑うのに、興味を惹かれるものがあると幼子のように瞳を輝かせ、そして戦いを前にすると途端に戦士の顔になる。考えていることが顔に出やすいと言えばそうなのだが……しかしだからこそ、彼の心が晴れ渡る空のように澄んでいるのだとはっきりわかって、そうしてそんな彼を皆が慕うのだ。歴代の中でも特別気難しいことで有名な賢者が尋ねられもしないのに進んで助言をする者など、そうはいない。


 闇が深まってきた森に向けて勇者が銀色に光る美しい弓を構えると、その途端不思議なくらい空気がびりりと引き締まるのを感じて神官は木の上で身じろぎした。彼を守るのにどんな魔法を使えば良いかと賢者に相談していた魔法使いが、さっと顔を上げて口をつぐむ。


 勇者は弓を引き絞ったまま、じっと音を聞くように身動きひとつしない。と、急にざわりと緊張感を揺らがせて、木立の向こうに向かって続けざまに二本射った。


「最初の一匹は倒したよ! 二匹目は急所を外してる!」

 吟遊詩人が引き攣った声で呼びかけた。気絶しそうな様子はないが肩は小刻みに震えていて、回した腕に力を込める。


──神よ、彼の者の心に安寧をもたらし給え


 そっと心の中で癒しを願うと少年が少し強張りを解き、魔力の動きが見えたのか小さく「ありがとう」と呟いた。


 ガサガサと草むらの揺れる音がして、体の奥が冷えるような鋭い気配が近づいてきた。呪文を唱える魔法使いの声が聞こえ、空中に眩しい光の玉が打ち出されると、周囲を真昼のように照らし出す。繁みの奥から、低い低い唸り声を上げる真っ黒い獣が一匹、二匹と顔を出した。


 勇者や妖精達と違って神官の目に魔獣が纏っているという淀みは見えなかったが、その存在ははっきりと感じ取れた。魔狼が一歩踏み出すと、踏まれた草がみるみる萎れて黒ずんでゆく。いつの間にか周囲の森は、虫の声すら聞こえない不気味な静寂に包まれていた。


 魔狼の群れに囲まれ始めた勇者がさっと背に手を回し、矢筒から矢を三本纏めて引き抜いた。素早く弓を横倒しにするように持ち替えると、なんとその三本を一度につがえて射る。それぞれバラバラの方向へ飛んで行った矢が、三匹の魔狼の頭を正確に射抜いた。


「嘘でしょ、一体どうやったらああなるのさ……」

 吟遊詩人が驚愕に目を見開いて呆れた声を出した。


「そんなに凄いことなのですか?」

 小声で尋ねると、彼は勇者を見つめたままゆるゆると首を横に振って囁く。

「凄いっていうか……風の魔法もなしにあんなことできるなんて絶対おかしいよ。もう、ほんとに冗談みたいな人なんだから……なんなの? 秘境に伝わる秘伝の技なの?」


 吟遊詩人の微笑ましい指摘に少し気が緩んだが、しかしそんな調子で次々に矢を射って敵の数を半分ほどまで減らした勇者が弓を聖剣に持ち替えたので、神官はハッと気を引き締めて心持ち身を乗り出した。


 素早い動きをよく見極めて……飛び掛かった一匹を勇者が一刀両断にした瞬間、狙いを定めると魔力を振り絞って浄化の術を放つ。


「勇敢な友へ水の祝福を! スクラゼナ=イルトルヴェール!」


 触れて魔力を流す必要がある顕現陣は使えない。魔法に近い力の動かし方で、川の水を媒介に大きな浄化の波を動かした。パッと飛び散った魔獣の返り血が、勇者へ届く前に空中で消え失せる。


 一滴たりとも、私達の勇者にその淀みに染まった血は触れさせない!


 怒りにも近いその思いが、仲間を守りたいという彼自身の強い感情が、神の望みを実現せねばという使命感を凌駕した。


 残った七、八匹が一斉に勇者の方へ駆けてゆく。自分はそれを遠くから見下ろしているだけなのに、普通の獣とは明らかに違う重い気配に肝が冷えた。そんな魔獣の向かう中心に仲間がいるという恐怖に全身が震えそうになったが、彼は腕の中の吟遊詩人の存在を思い出して必死でそれを耐えた。落ち着け。繊細なこの子を、癒しを扱う私が怯えさせてどうする。


 しかしそんな彼らと違って、伝説の地の狩人はそんなことで焦りはしなかった。彼は全く動揺の見えない動作で素早く剣を背の鞘に戻し、近くの木の枝に軽く飛び上がって掴まると、体を揺すってぐるり回転するようにその上にあがった。魔狼達が次々に木へ群がり、枝の上の勇者を見上げると目眩がするほど恐ろしい声で唸る。


 それを見下ろした勇者が、どす黒い獣の群れに向かって無音で吼えた。魔力の気配が大きく膨らみ、強い威嚇に一瞬身を低くした魔狼が──次の瞬間、一斉に金色の炎に包まれた。


 魔獣の悲鳴というものを、神官は初めて聞いた。まるで普通の狼のように、魔狼が炎を振り払おうと首を振って地面を転がる。


 毛皮に火をつけられた程度で、魔獣がこんなことになるはずがない。あの炎はただの炎ではなく──火の魔力で炎の形を取ってはいるが、その性質はもしかすると渦のそれに近いのだろうか? 渦持ちの魔獣に同じ渦の魔力をぶつけても効果は薄いように思えるが、しかし渦の神は調整神だ。その力が使い方によって魔獣を生かす方向と殺す方向、双方に動くのはむしろ道理とも言える。


 その時勇者が聖剣を抜き放ち、枝を蹴って転がり回る魔獣の群れの只中へ飛び降りた。地に足をつけるや否や、腰を落として体ごと回転するように周囲を薙ぎ払う。五匹が一度に絶命し、素早く返した刃で二匹が両断された。最後の一匹がふくらはぎに食らいついたが、目にも留まらぬ動作であっという間に吹き飛ばす。


 傷を浄化し治癒する祈りを飛ばすと、じわじわと表面だけ塞がるような感触があった。やはり遠隔治療では弱いか……完全には治してやれない。


 勇者が吹き飛んでいった個体を追い、軽々とその首を串刺しにして地面に縫い止めた。振り返った視線に、吟遊詩人がぐるりと辺りを確認して強く頷き返す。


 そうして呆気ないほど簡単に、十八匹いた魔狼の全てが仕留められた。





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