十 魔狼 後編(神官視点)



 木を降りるのは、登るよりもずっと難しかった。どこに足を掛けても落ちそうで、魔獣を倒して気が抜けたのか動けなくなってしまっている吟遊詩人を抱えて降りるなど、とてもできそうにない。


 魔法使いを呼ぼうと顔を上げると、彼は既にそのつもりだったらしく、すぐに隣の木から飛び移ってきた。支えもなしに枝の上に立ち、顔を青くして震えている少年を抱え上げると頭をひと撫でしてひょいと飛び降りる。そして彼を地面に座らせると再び神官の隣まで登ってきて、軽く首を傾げた。


「神官は……抱っこするには、少し大きい」

「そうでしょうね」

 頷くと、真似をするように落ち着いた頷きが返ってくる。


「針葉樹」

 魔法使いが声をかけると、川を渡ってこちらに戻ってきていた勇者が顔を上げた。

「ん? どうした?」


「神官が……降りられない」

 妖精が静かに言った。外見よりずっと屈強な青年はからりと頷くと、木の下まで小走りにやってきて腕を広げる。

「おう。いいぞ、飛べ」


「えっ……」

 こんな高いところから……と怯んだ時には遅かった。


 枝に掴まっていた手が隣の妖精に優しく剥がされ、トンと背に衝撃がきたかと思うと葛藤する間もなく突き落とされていた。内臓が縮み上がるような浮遊感に悲鳴を飲み込んだと同時にドサリと受け止められる。咄嗟に魔力が滲んでいたらしく、バチっと弾かれるような感覚がして勇者がびくりと手を引っ込め、転がり落ちかけた神官を慌ててずぶ濡れの膝で支えた。太腿が冷たい。


「すみません、痛かったでしょう」

「いや……今のは何だ?」

「魔力の反発です。水と火は混ざり合わないので」

「ん? でもお前に治療されても平気だぞ?」

「発現してしまえばただの現象ですからね。でも下手な人間がすると痛いですよ」


 崩れ落ちるように地面に降りると、まずは勇者の脚の傷を治す。立ち上がると、木の陰で胃の中の夕食を大地へ返している吟遊詩人の背をさすってやり、軽く浄化をかけた。


「ありがと……ごめんね汚くして」

「おや、私にそんなお気遣いは不要ですよ。すぐに綺麗にできますからね、全部出してしまいなさい」

「ううん、大丈夫……浄化してもらったらスッキリした」


 勇者が金色の頭を犬か何かのように両手でわしゃわしゃと撫でて「よく頑張った」と褒めてやっている。少年か少女のように見えるとはいえ流石にその扱いは失礼ではと思ったが、嬉しそうにしているのでまあ良いのだろう。


 小さな焚き火を作ってそのままそこで吟遊詩人を休ませ、皆でぞろぞろと川を渡って片付けに向かう。浄化の波で魔獣の血液はおおよそ清められているので、あとは死骸をなんとかすれば良さそうだった。川の中央付近はかなり深く、藻を踏みつけてぬるりと滑った隙に流されかけたが、勇者に腕を掴まれて事なきを得る。


「埋めるには量が多いからな……丁度川辺だし、食う分を取ったら後は焼くのがいいと思う。肉はそれでいいとして……小さい魔狼でもこの数だと流石にそこらじゅう真っ黒なんだが、これは放っといていいのか?」


 しかし岸に上がりながら勇者がそう言って辺りをぐるりと見渡した瞬間、賢者がハッと目を見開いて少し乱暴に魔法使いを川の方へ押した。

「そなた、見えていながら何ゆえこちらへ来た! 戻りなさい!」


 何だ何だと仲間達が注目した時には、既に何かが遅かったようだった。肩を押された魔法使いがよろめきながら水の中にばしゃんと膝をつき、震える手を伸ばして乾いた石の上から何かを拾い上げる。


「……魔法使い?」

「蝶、が……」


 エルフの手のひらに横たわっていたのは、黒いまだら模様の蝶だった。傷はなく、生きているようだがぐったりとして動かない。


「離しなさい!」


 よく見ようと屈み込んだ時、賢者が急に大きな声を出したので神官はびっくりして身を引いた。


「嫌だ! 離さない!」


 魔法使いの様子もおかしかった。涙声を絞り出して、弱った蝶を取り上げようとする賢者の手を跳ね除ける。彼は涙を見せることに抵抗がないらしく、よく泣く妖精ではあるが……どこか痛むのではというように苦しそうな泣き方は普通ではない。


「悪いようにはしない、私に任せなさい」

 ぐっと感情を抑え、勇者に聞こえぬようにか耳元で静かに言った賢者の声に強い魔法が込められた。難しい顔をした学者はマントの端で濡れた手を丁寧に拭い、くたりと力を抜いたエルフの手から二本の指で羽を挟むようにそっと蝶を摘み上げると、神官の前に差し出す。


「淀瘴だ、浄化を。ルーウェンは蝶が飛び立つのを見せてからだ」

 その言葉を聞いて勇者がさっと青褪めた。蝶に手をかざして浄化すると、黒ずんだ羽がすうっと白くなって目に輝きが戻る。賢者が川の方へ向けて離してやるとひらひらと対岸に向けて飛んでゆき、それを魔法使いが目で追った。


ありがとうフラールラーナ神官ローサリュー

 彼がエルフ語で小さく言うと、不自然に揺らいでいた瞳がきらりと優しく光った。その瞬間を狙って足元に浄化の陣を立ち上げる。体の震えがすっと引き、落ち着いた様子で魔法使いが立ち上がった。


どういたしましてフラールミーリエ、魔法使い」

 挨拶程度しか知らない拙いエルフ語で返すと、何の反応なのかぴくりと耳が動いた。


「魔法使い、戻っておいで! こっちで一緒に待とう!」

 川の向こうから吟遊詩人が叫ぶ。勇者がガクガクと頷いて妖精を抱え、飛ぶように対岸まで送り届けた。必死な声で「後は俺達でやっとくから、二人はおもちゃで遊んでろ。持ってきたんだろ?」と言い聞かせる声が聞こえてくる。


「……エルフは淀みに弱い」

 向こう岸のやり取りを馬鹿にした顔で眺めながら、賢者がぽつりと言った。

「そのようですね。血に触れたわけでも、数年に渡って凝り続けた土地に触れたわけでもない。この程度で染まってしまうとは……」


 水の祝福はその効果から俗に「浄化の術」と呼ばれるが、その性質は「水で流す」という方が近い。つまり淀みも含めて汚れたものを対象から取り除くことはできるが、取り除かれたものは消滅するのではなく、川の水に洗い流されるように分解され、別の場所へ移動するだけなのだ。


 本当の意味で淀みを浄化できるのは、勇者の振るう聖剣だけだ。北の果ての魔王に水の祝福を与えたところで世界は救えないし、魔獣の血を洗ってもその淀みは空気中にばら撒かれ、風で薄まるだけだ。


 そんなこと考えている間に勇者が帰ってきた。焚き火の方へ目を遣ると、妖精二人が小さな蛙のおもちゃを地面の上で跳ねさせて遊んでいる。大変可愛らしい光景に微笑むと、視線を追った賢者が額に手を当てて首を振った。


「死骸の前に、大気中の淀みを浄化するぞ。風で対岸に流れると──」

「わかった! やる! というか、神官頼む!」


 対岸と聞いて慌てた顔になった勇者が賢者の言葉を遮って、淀みが流れていないことを確かめているのかあたふたと周囲を見渡した。が、今回出番を必要とされているのは神官ではない。


「そなたが浄化しなさい、勇者」

「えっ」


 きょとんとした勇者が子供のような顔で目をぱちくりとさせた。無理だと動揺するかと思ったが、しかし彼は賢者の説明を聞きながら次第に口元をむずむずとさせ、落ち着かぬ様子で剣帯の留め金をいじった。瞳がキラキラと輝いている。


「それ……なんかカッコいい感じだな。本当に俺にできるのか?」

「それを確認するためにも、やってみなさい」


 子供のような顔で張り切って頷いた勇者が先程まで彼が戦っていた辺りに立つと、緊張した様子で地面に聖剣を突き立てる。柄を握った手にぎゅっと力が込められ、魔石にそうするように剣の内側へ魔力が注ぎ込まれるのがわかった。


 長剣の刃に、上から光が染み込んでゆく。あかがね色をした勇者の魔力は、偶然かそれとも天命なのか、透き通ったオリハルコンの色によく似ていた。

 聖剣がぼうっと燃えるように輝き始める。夕日の中から一番金色に輝いている部分を取り出したような色が、夜の闇を退け、絶望を希望に塗り替えるように光った。


「美しいですね……」

 呟くと、賢者が静かに頷いた。しかし、故郷の景色と違う美しいものを見つける度に感動している勇者はその光景に見惚れる様子もなく、真剣な顔でじっと聖剣を見つめている。


 神官はその時初めて、彼を等身大の人間としての敬意ではなく、世界を救い伝説となる存在としての畏れでもって見た。


 どこまでも真摯で、どこまでも静かな表情をしていた。聖剣の輝きが最高潮に達すると、まるで全てを知っているように勇者がすっと目を伏せる。すると聖剣から溢れ出すように地面に沿って金の炎が広がり、周囲一帯が太陽色の火の海になった。


 草は燃えていない。けれど何かが燃え、重たい気配が何か軽やかなものに形を変えて消えてゆく。


「見なさい」


 賢者が小さな声で言って指した先を見ると、魔狼の死骸に火がついたところだった。何か言いたかったが、声が出ない。死した魔狼の体が、端から少しずつ金色の炎に姿を変えて消えてゆく。燃えて灰になっているのではない。灰も残らないほど高温で焼かれているのでもない。確かな実体があり、斬れば血を流し、硬い硬いと言いながらその肉を食べた生物の体が跡形もなく、静かに燃える炎へ溶けるように消えてゆくのだ。


「あれは……何なのですか」

「わからぬ。しかし、聖剣と勇者の魔力の双方があって初めて起きる現象であるようだ。魔法というよりは……神の奇跡に近いのやもしれぬ」

「奇跡……」


──我が神オーヴァスの弟神にして世の善悪を司る、渦神レヴィエルよ。あなたは……我が友に力をお与えになった。人の身には大きすぎる力を得た彼を、私は、私はどうやって支えてゆけば良いのでしょうか


 全ての魔獣を燃やし尽くした勇者が聖剣を地面から引き抜くと、幻のように金の光が消え失せた。眩しいほど輝いていたそれをあまりにじっと見つめていたため、戻ってきた暗闇に視界が塞がれる。


 頭上に銀の光の玉が現れて、世界に形が戻った。勇者に目を向けると、闇の帳が降りる前とは別人のようにそわそわと聖剣の柄を触りながら目を輝かせている。それを思わず笑うと同時に……彼がいつも通りのシダルだったことに深く安堵した。


「なあ……なんか俺、いま凄いことしたよな? あっ、でも魔狼まろう……ヴォーラ?が全部消えちまったな。食う分は除けて置いとくんだった」

「魔獣なぞ食さずとも良い。普通の動物を狩りなさい」

「いや、バラグだっけか、熊型のより少し柔らかいんだって」

「大差なかろう」


 話していると、瞳をキラキラさせた妖精達がこちらへ渡ってくる。吟遊詩人が夢見るような表情で甘く歌うように言った。

「はあ……月明かりも照らせない暗い暗い淀みを、金の炎が奇跡みたいに光へ変えていくんだ。魔狼がさらさらと静かに消滅するところなんて……また歌にすることが増えたよ、勇者。ここは特別だから、少し旋律を変えてもいいかもしれない」

「おい、やめろ」


 話しながら濡れた服を魔法で乾かし、皆で並んで花畑への道を歩く。そっと見つめれば、あの歌は恥ずかしいとマントの前をかき合わせる勇者に憂いの色はない──あれだけのことをやってのけても、自分の力を恐れる様子は全くない様子だった。


 仲間がいれば立ち止まらないと笑った彼の言葉は、誇張でもなんでもなかった。ああ、神は真に勇者として相応しい人物を選ばれたのだと、神官は月を見上げて強い信仰心をさらに深めたのだった。





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