第二章 訪れ

一 牧場 前編



 今までにないほど魔力を使ったからだろうか、今夜は流石に少し疲れた。


 勇者は淀みを燃やす不思議な金の炎を思い出しながら花畑の端っこにごろりと横たわって──すぐに眉をひそめると空をじっと見つめ、数度瞬いてからそれを凝視した。


「なあ……賢者」

 返事がないので無視されたかと思ったが、ずりっと草を潰しながら顔を向けると、焚き火の前に座った賢者が面倒くさそうな顔でこちらを見下ろしていた。


「返事くらいしてくれよ」

「……何だ」


 僅かに眉が寄って、億劫そうな視線が魔王の睥睨に変わる。ついさっきまで楽しげに浄化について神官と話していたのに、今はもう機嫌が悪いらしい。虫にでも刺されたのだろうか。


「なあ……さっきからさ、何度見ても月がふたつ見えるんだが……俺、疲れてるのかな?」

 晴れ渡った夜空に、ぽっかりと月がふたつ浮かんでいた。西の空にひとつと、それよりもう少し小さいのが南の空の低いところにもうひとつ。


 それを聞いた賢者は「案ずるな、その思考は疲労の程度に関わらぬだろう」と少しも面白くなさそうに鼻で笑った。そしてちらりと空へ視線を向けると、星の話題は好きだからか少し表情を元に戻して軽く首を振る。


「どちらも月ではない。大きい方が水月すいげつファラ、小さい方は第二火眷月かけんげつロナだ」

「は? どっちも違うって、月じゃなきゃ何なんだよ?」

 ぞっとして少し起き上がりつつ二つの光を見つめると、賢者の淡々とした説明が聞こえてくる。


「ヴェルトルートの人工天には月、即ち創造神の目たる第一衛星ルシュナしか投影されぬが、エシェンの衛星は三十二ある。全て覚えろとは言わぬが、主要七月ななつき程度は見分けのつくようになりなさい」

「……は? つまり、地下の空には無かっただけで、本物の空には月が三十二個もあるってことか? そんなの空が月だらけになるじゃないか」

 頭の中で賢者の説明を噛み砕いてぽかんとすると、やれやれといった様子の呆れた溜め息が返ってきた。いつも思うが、こいつは少し俺のことを馬鹿にしすぎじゃないか?


「全てあの大きさのはずがなかろう。はっきりと大きく輝く衛星は十二あるが、一見して星と見分けのつかぬものが大半だ。今この空にも七つの衛星が観測できる──なお正確に言えば、『月』という名が示すのは第一衛星、創造神の目を表すルシュナのみだ。特に主要七月はそれぞれの名で呼び、敢えて総称する際は『衛星』或いは『月々』と複数形で呼ぶのが正式な形だな。七月より遠いものは『眷月』でもよい」


「月々って……なんかしっくりこないな」

「まあ、月でも通用はするが」

 気に食わなくて首を振ると、賢者が不満そうに言う。通じるならわざわざ訂正しなくて良いだろうに、細かい奴だ。


 ついでに最近思うのだが、この男は好きな話題とそうでないもので口数が違いすぎる。五人で一ヶ月分の食費はいくらするとかいう話だと端的に数字しか喋らないくせに、星や魔術の話だと聞いてもいないことまで延々と話すのだ。口調が淡々としているのでわかりにくいが、よくよく見ると浮き沈みが激しく、そういう意味では神官の方がずっと落ち着いている。


「多い時は……大きいのが、五つも見えるそうだよ。楽しみだね」

 その時エルフの囁き声が思っていたのと違う方向から聞こえたので、勇者はきょろきょろと視線を彷徨わせた。すると花畑の真ん中が優しく揺れて、月明かりの下では銀色に見える頭がひょこっと現れる。


「うわ! お前そんなとこにいたのか。木の上かと思ってた……」

「お花が……咲いているからね」


 よくわからない理屈を述べて神妙に頷いている妖精を眺めていると、なんだか月がいっぱいあるくらいどうでもいいかと思えてきて、半身を起こしていた勇者は再び草の上へどさりと横たわった。


 そろそろ眠るつもりなのかリュートを片付け、顔の周りの髪を解いて緩く編み直している吟遊詩人をぼんやり眺める。くるくるした巻き毛が手際よく纏められ、縄のようになってゆく様は見ていて面白い。しかし器用なものだと感心していると、視線に気づいた少年がなぜか編みかけの髪を放り出してきゃっと顔を両手で覆った。


「や、やだ! 見ないで!」

「えっ、どうした?」

 吟遊詩人は片袖でしっかり目元を隠すと呪布を拾い上げ、乱暴にぐるぐると巻きつける。せっかく整えた髪がぴょんぴょんと跳ねて布の間からはみ出した。


「夜は見ちゃだめ!」

「だめって……目をか? そりゃまたどうして」

 呆気にとられて尋ねると「なんでそんなこと言わせるの」と言わんばかりの苛立った声が返ってくる。

「光ってるからだよ! ださいじゃん!」


 焚き火の明かりでもわかるくらい耳を赤くした仲間から言われるがままに目を逸らしつつ、勇者は首を傾げた。確かに彼の瞳は暗闇で薄っすらと燐光を放っているように見えるが、それはこの音楽家を一層妖精めいて見せこそすれ、決して恥じるようなものではない。


「別に、どこも変じゃないだろ」

「変でしょ、どう考えても! 暗いところで目が光るとか……」

「まあまあ勇者、無理に見せろと言うものでもありませんし、彼が嫌だと言うのなら尊重して差し上げなさい」


 神官が仲裁するように微笑むので、納得いかない勇者は彼にも問いを投げた。

「でもさ、ルシナルの目は事実どこもおかしくないだろ?」

「私も綺麗だと思いますが、妖精さんはお年頃なんです。そういう小さなことが気になってしまうものなのですよ」


 きっぱりした神官の言葉に、勇者は村の少女達が髪がどうの肉のつき具合がどうのと、どうでもいいことで盛り上がっては恥じらっていた様子を思い出し、なるほどと頷いた。


「そういうもんか」

「もう五年もすれば落ち着きます」

「ねえやめてその言い方! 賢者も、楽しそうに笑ってないで助けてよ!」

 吟遊詩人が喚くと、賢者が不自然に顔を背けて焚き火に薪を足し始める。

「……助けるも何も、事実であろう。年頃の若者の心は繊細ゆえ、くっ……気遣いが」

「もう!」


 怒った吟遊詩人が皆に背を向けて眠ってしまうと急に静かになった。ぐちゃぐちゃに巻かれた目隠しはそのままで良いのだろうかと気になったが、話しかけるとまた怒られそうなのでそっとしておく。薪が爆ぜる音に混じって花が風に揺れる音が流れてくるのを聞いていると、勇者も瞼が重くなってくるのを感じた。





 目を覚ますとすっかり朝だった。慌てて起き上がると、スープの匂いがふわりと鼻をくすぐる。仲間達はすっかり起きて、ぼさぼさに寝癖のついた妖精フェアリの髪を妖精エルフが嬉しげに撫で回していた。


「すまん、見張りしなかった……」

「おはようございます、構いませんよ。昨夜はお疲れのようでしたので、私達も敢えて起こしませんでしたから」


 目をこすりながら朝食をとり、焚き火の後始末をして──街に戻るのではなく、森の奥へと向かう小道へ出る。坂道を登り始めると木々の合間から遠くの山々が見通せる場所に出て、勇者は目を輝かせるとその景色を指差した。


「なあ見ろよ、あんなに高い山なのに、まだ空に繋がる様子が全然ないぜ!」

「地上の山は空には繋がらぬ……」

「え?」

「ヴェルトルートの『山』は鍾乳石だと説明したのをもう忘れたか? それともはじめから一切理解していなかったのか?」

「ああ……言われてみれば、あれは岩天井だったから上からも山が下がってきてたのか。天井がないと、上の山は浮いてることになるもんな。なるほどな」


 ようやく合点がいって笑いかけると、賢者が頭の痛そうな顔をして額に触れながら首を振った。もう少しだけ景色を眺めてから、再び木立の中に戻って先に進む。この森を進んで山を登った頂上あたりに牧場があるらしく、勇者達はそこで馬を手に入れようとしていたのだった。


有角馬ゆうかくばって、あれだろ? 赤い馬車引いてた角のあるやつ」

 勇者がわくわくしながら尋ねると、賢者が無言で頷いた。

「赤い馬車?」と吟遊詩人。

「空の街の入り口でさ、横が赤くて屋根が白い綺麗な馬車、覚えてないか? 四頭立ての」

「いや、覚えてないけど……確かに貴族の馬車は有角馬が多いよね。なんでだろ、珍しいから?」

「おおよそその認識で正しいが、付け加えるならば有角馬は体力に優れ、魔獣や竜に怯えぬという特徴がある。つまり有事の際に逃げ切れる確率が違うのだ。要人を乗せる馬車にはこの理由で必ず有角馬が用いられる」


 賢者のその説明になるほどと頷く。確かに森を進むことの多い勇者達には、獣に怯えない勇敢な馬が必要だった。一角獣との混血だという有角馬は気難しく乗りこなすのが難しいが、それでも手に入れる価値のある強い馬なのだそうだ。


「俺、乗馬はしたことないんだが……そんなのにいきなり乗れるか?」

「心の汚れた者にはまるで扱えぬと言われているが……単、素直で体力のあるそなたであれば何とでもなろう」

「なあ、いま単純って言いかけなかったか?」

「おや、その予測を立てたということは、多少なりとも自覚があるのかね?」


 楽しそうな賢者に舌打ちすると「はしたないですよ」と神官に叱られる。そうこうしている間に小道が少し上り坂になり、山に入るにつれて雲行きが怪しくなってきた。


「おや、ひと雨来そうですね」

「だな……神官お前、箱入りなのにそういうのはわかるんだな」

「水の気配があるものだけですけれどね。川の場所もわかりますよ」

「ああ、そういう感じか。俺も太陽の方向は目瞑っててもわかる」


 少しして降り始めたが、幸い大した雨ではなかったのでマントの前を閉じ、フードを被ってそのまま進む。山奥に進むにつれて少しずつ樹木が太く大きくなり、さらさらという雨の音が梢に遮られてくぐもってきた。馬で下りることを想定した小道は綺麗に整えられているが、頭上は両側の木から伸びる葉っぱで埋まっていて薄暗い。


 進めば進むほど、緑の森が青く滲んでゆく。霧が深くなり、洞窟に差し込む光に似た青い色が木々の間に満ちて、その影を黒く深い色に沈み込ませた。ただならぬ雰囲気にそっと見回すと、青い光の中に星を泳がせ、雨の精霊のようになったエルフも不思議そうにそんな森を見回している。


「この辺りは一角獣ユニコーンの縄張りだ。静かに進みなさい」

 賢者が魔法使い並みに小さな声で囁く。

「え、じゃあこの辺にいるかも知れないのか?」

 囁き返すと、黒マントを濡らして少し不快そうな学者は難しい顔で首を振った。


「一角獣は人間、特に純真無垢な幼子以外を激しく嫌う。故に姿を表すことはほとんどないが……非常に獰猛な獣でもあるため、縄張りを荒らされたと判断すれば人を襲うこともある。雄の成獣は小型の竜並みに強い」

「そっか……見てみたいが、嫌われるのは嫌だな」

「そこで『危険だから気をつけよう』ってならないのが勇者だよね」


 皆が話をやめて静かに進むと、魔法使いの足元からしゃらんしゃらんと小さな音が聞こえる。青い森の中に響くそれがくぐもった雨音と合わさって、まるで妖精の国を歩いているような不思議な気分になった。


 水の気配が強いからか、雨が降っていると神官は少し歩きやすそうだった。いつもより格段に息切れが少ないが、しかし水持ちであっても濡れた地面が滑るのは変わらないらしく、ずるっと転びかけては勇者に腕を掴まれている。


「あの樹門じゅもんの先だ」

 賢者が指した先を見ると確かに、雨に濡れた霧を透かして、一際大きい二本の木の梢が絡み合ってアーチ状になっているようなものが見えた。しかし勇者は、門の向こうをじっと見てううむと首を捻る。

「なあ、ほんとにあの先が牧場なのか?」


 馬を育てている牧場というのだから、日当たりの良い広い草原のようなものを想像していた。が、門の先は青っぽい森が続いているばかりで、のびのび走り回れるような場所もなければ日もろくに差し込まない。囲いのようなものも見当たらず、強いて言えば……この辺りより少し生えている花の量が多いだろうか。


「有角馬は牧草地より深い森林を好む。また一角獣は調教できぬ生物ゆえ、新たな幻獣の血を得ようとするとこのような場所で自然に交配させる必要があるのだ」

「ふうん」


 門を抜けると、何か風の膜を通り抜けたような不思議な感覚がした。

「今のは?」

「今の、とは?」

 尋ねると、賢者に問い返される。


「なんか、薄い風の壁の中を通ったような感じがしたろ?」

「いや」

「馬の脱走を防ぐ風壁だと思います。賢者は魔力的に風に妨害されにくいですから」

 神官の言葉に賢者が振り返って門の周囲をじっと見た。

「確かに、風壁はそのように使われることの多い魔術だが……そうか、私は感じ取れぬのか」


 面白そうにほんの少し口角を上げて門まで戻ろうとする賢者に「置いてくぞ」と声をかけつつ、門の近くにある小さな山小屋の戸を叩く。時々伴侶を探しに現れる一角獣に襲われないようにとかで少年の案内人が出てくると、有角馬の群れが休んでいる場所へと案内された。


 仲間達の足音を聞いて、思い思いに草を食んだり座って昼寝をしたりしていた馬達が一斉に振り返る。白黒茶と毛並みの色は普通だが、額に生えている小さな角は薄桃色や薄青色など、淡い花のような色をしていた。


「ええっとぉ、角の色がその子の魔力を表してますからぁ……そうですねぇ、今いる子だとぉ……シダルさんならそこのアリナとか穏やかでおススメですぅ。桃角の白馬で、可愛いでしょぉ?」

 少年の喋り方を真似しているのか、奇妙な口調で神官が共通語の通訳を始めた。吟遊詩人がさっと口を押さえ、賢者が「その口調はやめなさい」と心底不愉快そうに言う。


「近寄ってもいいのか?」

 勇者の質問を神官が伝えると、吟遊詩人と同じ年頃に見える少年──おそらく十三歳くらいだ──がこくりと頷いた。

「いいですよ。でもゆっくり、馬達を怯えさせないようにね」


わかったラァ

 覚えたての共通語で返すと、少年がニコッとして人差し指を立て、変声前の高い声で「スィ・ビエーテ!」と言う。

「いいね! ですって」

「おう」


 アリナと呼ばれた馬に近づこうと勇者がゆっくり歩みを進めると、しかし立ち上がってその前を遮る馬がいた。綺麗な月毛の馬で、薄緑色の角を警戒するようにキラリとさせている。


 馬は見慣れぬ人間を観察したり匂いを嗅いだりしていたが、しばらくすると伏せていた耳を立てて彼の肩に軽く角をこすりつけた。

「ミュウです。しっかり者なので、シダルさんが群れにとって危険でないか見極めに来たんです……あっ、だめ! 彼女には触らないで!」


 通訳を挟んだせいで、少年がそう言ったときには既に遅かった。首筋にそっと触れられてもミュウは穏やかな目をしていたが──しかしその時、背後の森の中から凄まじい速さで蹄の音が近づいてくるのが聞こえ、勇者は慌てて振り返った。





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