四 青の広間 前編



 次の日の朝は、ルディのおかげでかなりにぎやかになった。魔法使いの作った豆のスープに大騒ぎして、賢者も見たことのない古代文字で作り方を書き留め、その言語について賢者が質問責めを始めた。しかしルディはそんなことより空色の光の作り方を教えろとねだり、食事の後は簡単な魔術講義の時間になる。


「ヴェルトルートの岩天井に、魔術的に作り出した空の像が投影されているのは知っているか?」

 賢者が問うと、ルディがわくわくした顔で答える。

「ううん、知らない」

「終末の世、人が地底で暮らしてゆくにあたってできる限り地上の環境に近づけようと編み出されたのが人工天の術だ。神の創った青空には劣れど、魔術としては最高峰の空色であると少なくとも私は考えている」


 賢者が天井に向かって手を伸ばすと、そこに大きな影色の魔法陣が現れた。視線で合図された魔法使いが陣に魔力を流そうとして、背伸びをしても届かず、数回ぴょんぴょんした後に少し恥ずかしそうに自分の髪を撫でつけると、下ろしている方の賢者の手をそっと握った。


 魔法陣に銀色の魔力が注ぎ込まれ、賢者が何やら長々とした呪文を唱える。すると果ての薄暗さに慣れた目が眩むような青い光が溢れて、皆が顔の前へ手をかざした。


「空だ……」

 ルディの驚愕したような声を聞いて、勇者は数回ぱちぱち瞬いてから天井を見上げた。


 するとそこには空が、すぐ手の届きそうな場所にあるはずなのに、随分と高く遠く見える青空が広がっていた。細い雲がたなびき、淡い雲の影が床に落ちる。確かに本物の地上の青空に比べれば少し透明感に欠けるが、賢者が何か手を加えたのか、ヴェルトルートの空よりも鮮やかで美しい色合いになっている気がした。


「雲を外せばより簡易になり、太陽や星、月、夕焼け、風雨等、手を加えるほど陣は複雑に、使う魔力は膨大になる。全て書き残しておくので、好きなものを練習しなさい」

「……うん、ありがとう」


 ルディは感激して涙ぐんでいたが、勇者はそれよりも、魔法使いに手を握られている左側だけ銀色に染まっている賢者の目が怖くてそればかり凝視していた。吟遊詩人も同じことを考えたのか、勇者の方を振り返って人差し指で自分の目元をトントンと叩き、口の動きだけで「やばい」と伝えてくる。うんうんと首を縦に振っているとそれに気づいた賢者が吟遊詩人を振り返り、さっと耳を掴んで捻り上げた。


「痛いよ! ちょっと賢者、痛いって!」

「ふん」

「はは、君達……本当に楽しそうだよね。じゃあ、少ししたら僕とシダルは王に会ってくるから……みんなはその辺でもさもさと遊んだりして待っててくれるかな? 家の中のものは好きに使っていいから、楽に過ごしててよ」


 ルディが親切にそう言って家の中を指し示し、勇者もそれに頷いたが、しかしその言葉に仲間達は首を振った。

「いや、我々も同行する」

「いやいや、どんなに淀みに耐性があったとしても流石に『魔王の城』は無理だって。絶対死ぬとまでは言わないけどさ、気を高ぶらせて勇者にいらない助言をされても、君達を守るために勇者が力を割いて倒れても困るんだよ」

「独自の浄化術がある。それに、我々はシダルの力を彼一人しか守れぬものとは捉えていない。魔力は神に与えられた力だが、魔法を編むのは意志の力だ。歴代の勇者一人分を浄化する魔力で我々五人を浄化できるだけの強い守りの意志を、彼は持ち合わせている。非常に優れた術者なのだ」


 ルディが何か返事をしていて、それに賢者や神官が答えていたが、勇者は感動で胸が一杯になっていてほとんど聞いていなかった。仲間の信頼が嬉しくて、あたたかくて、そして少しだけ重い。もちろん彼らを守り通す意志は揺らがなかったが、それでも「シダルは今までの勇者と違う」という言葉は、なかなか信じられそうもなかった。


 そんな話し合いの結果、様子を見がてらではあるが、全員で城へ向かってみることになったらしい。勇者達は最低限の荷物を背負って「少しでも目つきがおかしくなったら連れ戻すからね」と言うルディの言葉に頷く。そして一瞬の後、くらりと揺れる一歩を踏み出した先に何も見えず、勇者は困惑してあちこちを見回した。


「……淀み、だよな?」

「そうだね」

 すぐ隣からルディの声がして、トンと地面を蹴る音と共に周囲が見えるようになった。


「大丈夫かな?」渦の民が皆を見回して言う。

「うん、平気。見えないのが怖いけど」と吟遊詩人。

「なら良かった。城の中では淀みが見えにくくなるから、階段を抜ければ暗さは大丈夫だと思うよ」

「何ゆえ、どのように」賢者が尋ねる。

「渦の王の城はね、渦の神域なんだ。レヴィエルさまが渦の王を住まわせるためだけに作った小さな地底の神域で、王が暗闇の中に閉じ込められないようにそうなってるの。城の中だけだから、空は見えないんだけどね……」


 ルディは明るい声から少しずつ寂しそうになりながら話したが、すぐに気を取り直して「こっちだよ」と大きな丸い扉を指差す。つるつるに磨いた真鍮だった集落の扉と違って、こちらは美しい細工が施された銀製だ。


「シダル、開けてくれる? 僕、内炎魔法はあんまり得意じゃなくてさ。使うの面倒くさい。銀の扉って重いんだよね」

「おう」

 力仕事で頼りにされるのが結構好きな勇者は、ちょっぴり口の端を持ち上げて扉を開ける。言われてみれば確かにかなりの重量だったが、特に意識しなくても体内を炎が巡っている勇者にとっては何でもなかった。


 ルディを先頭に地下へと続く階段を下りる。彼が一歩進む度に浄化の領域が広がるので、どんどん闇が深くなるなかでもそれほど恐怖感はなかった。こちらはどうやら地面ではなく岩盤を掘って作った通路らしく、焼き物のようだったルディの家と違って、滑らかに磨かれた石の壁に顔料で色が塗ってあるようだ。


「ねえ、空が描いてあるね……」

 吟遊詩人が天井を見上げて言うと、魔法使いが「そうだね……黎明の深い青色だ」と言う。

「そうだよ。夜明けから始まって朝焼けになって、段々明るくなっていって『青の広間』、つまり玉座の間で真昼になるの。反対から通ると段々日が暮れていくように見えるよ」


 綺麗でしょう、と自慢するルディに神官が頷いた。

「ええ、まるで本物の空のようです。澄み渡った空への憧れが深いからこそ、こんなに美しい絵が描けるのでしょうね」

「……うん。世界が淀み始める頃に生まれる渦の王は、本当の空を見られないからね。彼らが死した後の美しい光景を見た民が必死で絵を覚えて……次代には少しでも綺麗な世界を見せてやろうって、より絵の上手い子が現れる度にずっと描き直され続けてるんだよ」


「憧れだけではなく、愛が込められているのですね」

 神官が少し泣きそうな声で言って、吟遊詩人も少し鼻をすすった。いつもならば勇者も一緒になって泣いているような場面だが、しかし彼はすぐこの先にいる渦の王のことを思って、心が重く重く動かなくなっていた。昨夜と違って表面上では楽しく笑っていられるものの、感動して泣いたりするような深い情動は、どこか遠い過去に置き忘れてしまったような感覚だ。


 ああ、ハイロに会いたい──


 仲間達に悟られないよう、ため息を細く静かに漏らしながら勇者は思った。あの、愛おしくて愛らしくてあたたかくてやわらかい生き物をこの胸にぎゅっと抱きしめることができたら、どんなに自分の心は慰められるだろうか。あの星の瞳がひたとこちらを見つめて、可憐な声が「信じています、シダル」と言ってくれたら──そう考えると急に己の精神がひどく傷だらけになっていると気づきそうになって、勇者は甘い空想を心の奥底にしまい直した。いけない、神の定めた運命に立ち向かおうという時に好きな女性のことばかり考えてしまうなんて、狩人としても男としても情けない。今が正念場なのだから、世界ごと彼女を守るためにも、目の前の状況に集中しなければ。


 そして階段の天井が鮮やかな朝焼け色になり、金色の日が昇って青空が見え始めたころ、ついに広間への扉が……淀みの向こうから勇者達の目の前に姿を現してしまった。丸い木の扉は、深い絶望の闇の向こうから現れるには不自然極まりない美しい青に塗られていて、色とりどりの花や木の葉の絵で華やかに縁取られている。


 ルディが扉の横に下げられた小さなベルの紐を揺らすと、チリンチリンと可愛らしい音が鳴る。彼はそれからしばらく耳を澄まして「……返事がないね」と呟くと、少し考えて「まあいいや」と笑いながら扉を開けた。


「えっ……いいのか? 玉座の間だぞ?」

「いいのいいの、あの子怒りっぽくないし」

「……そっか」


 一応小さな声で「お邪魔します……」と言いながら玉座の間に入る。確かに淀みの気配はあれど黒い靄は見えなくなった部屋を見回すと、あれから八千年以上も経っているのだから当たり前かもしれないが、夢で見た広間と比べて随分と様変わりしていた。


 灰色の壁に金色の紋様が描かれているのはそのままだが、天井の鍾乳石は大部分が削り落とされ、そこに光り輝くような夏の青空が描かれていた。その空が見えやすいようにか垂らされていた金色の布は取り払われ、部屋の端には小さな植木鉢がたくさん並べられ、小さな野の花や豆の苗が植えられている。灰色の立派な玉座にはふかふかの青いクッションが置かれていて、一言で纏めると可愛らしい感じに模様替えされていた。


「アルハロードって、女の子なのか?」

 尋ねると、ルディは「ううん、男の子だよ。なんで?」と首を傾げる。

「いや……花とかクッションとか、可愛い部屋になってるから」

「それはつまり、人間は女の子しか可愛いものが好きじゃないの? 変なの」

「あ、いや……そうだな。それはそうだ」

 どいつもこいつも可愛いもの好きな仲間達を振り返り、神官が「そうだそうだ」と言わんばかりに深々と頷いたのを見て苦笑する。


「で、王は?」

「うーん、どっかにはいると思うんだけど……どこだろうねぇ」

 ルディがあちこちの扉を開け、中を覗き込んで首を捻る。勇者も手伝いたかったが、他人の家を勝手にひっくり返すのも気が引けて、ただその場で意味もなくぐるぐると周囲を見回した。しばらくそうしていると目隠しを外した吟遊詩人が近寄ってきて勇者の肩をそっとつついたので、「お、いたのか?」と見下ろした。


「……ねえ、勇者」

「ん?」

 ぐいとマントを引っ張って耳元で囁かれたので、どうしたのだろうと眉を上げる。


「玉座の裏をさ……覗いてみて。背もたれと、壁の間」

「は? 何かあるのか?」

「いいから、見てきて」


 いつもの悪戯ではなく、少し怖がっている顔だ。一体何を見つけたのだろうと勇者は広間の奥にある玉座の後ろに回り込んで、壁との隙間を覗き込み、そして「うわぁっ!」と叫んで飛び上がった。


「どうしたの!?」と部屋の向こうからルディがすっ飛んでくる。

「ひ、人が」


 わなわなとして灰色のローブに包まったそいつを指差す。そこではフードを深く被って膝を抱えた人物が、小さな声で「見ないで、見ないで……」と繰り返し呟いていた。一体何者だと思ったが、しかし覗き込んだルディは警戒する様子もなく目をぱちくりとする。


「あ、アルハロード。そんなところにいたんだ」

「は?」

「ドルバーディア……だ、誰を連れてきたの」


 灰色の塊が、か細い声で言う。ルディが「勇者と剣の仲間達」と言うと、塊は驚いた声で「えっ……勇者?」と呟く。そしてのろのろと立ち上がって玉座のクッションの上にちょこんと座り、フードの下から少しだけ金色の目を覗かせて弱々しく震える声で言った。


「勇者よ……よくぞ参った。我が心臓を……ええと」

「あ、いや。今日は挨拶だけだから」

「……あ、そうなの?」

 勇者の言葉にこてんと首を傾げた彼はもぞもぞと椅子から降り、再び玉座の後ろに挟まろうとしてルディに捕まえられた。


「……離して、ドルバーディア」

「いやいやいや、君は一体何をやってるの?」

「……だって初めて会うんだもの……恥ずかしいよ……」

「んん? そんなに人見知りだったっけ?」

「渦のみんなは、生まれた時からの仲良しだもの……それに、まだ寝巻きだし」


 それからもうしばらくルディの手から逃れようともぞもぞしたアルハロードは、結局隠れるのを諦めて玉座のクッションを尻の下から引っ張り出し、それを胸にぎゅっと抱えた状態で勇者達と話すことにしたようだった。


 そしてなぜか彼は突然、こんなことを言った。


「……ルディ、案内ありがとう。君は先に戻っていてくれる? 浄化は僕がやるから」

「え、大丈夫なの?」

 ルディがまだ少し震えている王を見ながら疑わしそうにすると、彼は抱えたクッションの飾り房を小さく三つ編みにしながら「大丈夫だよ……ちょっと勇者に、内緒のお願いがあるの」と呟いた。するとルディは「いいけど……終わったら呼んでよね。見せたいものがあるんだから」と念を押して部屋を出て行ってしまう。一瞬とてつもなく強い淀みの気配が全身に押し寄せ、すぐに肌がひりつくような強烈な浄化の魔法がそれを拭い去った。


 元気なルディがいなくなって玉座の間が勇者達と渦の王だけになると、急にシーンと静かになった。一体何の話だろうと勇者が玉座の主をじっと見ると、アルハロードはとても困った様子でさっと目を伏せ、指先を落ち着かなげにもじもじさせる。


「ええと……挟まりたかったら挟まっててもいいぞ、椅子の後ろ……」

「ううん、頑張る……」

「そっか」

「よろしくね……ええと」

「シダル」

「シダル、僕はアルハロード……」

「うん、よろしく。アルハロード」


 呆れるほど内気な「魔王様」に会話の速度を合わせてやりながら、勇者はこの小さくて恐がりな妖精さんを殺したくないと、ただそればかり考えていた。


 シダルは神殿との戦いでたくさんの人間を殺してしまったし、その中には進む道を間違ってしまっただけの善良な者もいたのだろうが、しかしこうして優しい声をした引っ込み思案な渦の民を生贄にしてしまうのとは、何もかもが違った。こいつと世界を天秤にかけねばならないなんてあってはならない状況で、どう考えても勇者にとっては仲間達が生きる世界の方が大切なのに、それでもどうしても、どうしても殺したくなかった。どう頑張っても救えないなんて、信じたくなかった。


「アルハロード、俺……」

「シダル、その前に聞いて」


 しかしその時、うっかり目の前の彼にとっては残酷な悩みを口に出しそうになった勇者を、少しだけ弱々しくない口調になった渦の王が遮った。


「……何か、話があるって言ってたな」


 勇者が問い、王が頷く。そしてアルハロードは少しためらってからフードを脱いで顔を上げ、魔力の揺らめく不思議な金色の瞳で真っ直ぐにシダルを見た。


「ごめんね、シダル。信念の名を持った君にこれを告げるのは本当に辛いのだけど……世界は、諦めて」





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