二 砂の街マタン



 街は砂漠に面しているらしいが、思っていたほど暑くはない。だがそろそろ雨季に入っているはずなのに、雨の気配は欠片もなかった。


 砂を固めたような地面と、どうも地面から直接生えているような土壁の建物が立ち並ぶ風景だ。しかし視界全てが砂の色なのかといえばそうでもなく、手のひらくらいの小さな窓には鮮やかな青いガラスが嵌め込まれ、扉のない入り口には水色に白い模様が細かく染め抜かれた布が掛けられていた。しかしその布も各家で染めているのか一軒一軒少しずつ色味が違い、少し緑がかったものや少し青が濃いものなどが並んでいる様は、見ていて少しも飽きない。真っ青な空は雲ひとつなく晴れ渡り、明るい日差しが街を隅々まで照らしている。


 こんなに空気が黒ずんでなきゃ、きっと綺麗な街なんだろうにな──


 勇者はそれが残念でたまらず、淀みが見えない体質らしい賢者と神官の方を振り返った。

「……綺麗か?」

 ぽつりと尋ねると、二人は揃って頷きながら何とも言えない顔をした。

「見かけはとても美しいのですが……やはり、異様な気配を感じますね。一概に素晴らしいとは言い切れないような……」


 そう神官が首を傾げながら少し困った顔で笑った時、突然背後からしゃがれた老人の声が何事か語りかけてきた。気配を感じていた勇者や吟遊詩人はきょとんとして振り返ったが、神官が飛び上がって驚き、賢者も気持ちを落ち着けるように胸元を押さえながら「旅人さんかね?」と言葉を翻訳した。そして話しかけてきた人間に向かって頷くと「ルゥイ……アラ・ヴィアニタ」と告げる。そうですよ、みたいなことを言ったのだろう。


 そこには立派な白いひげをたくわえた痩せて小柄な老人が、青い染め模様の布を巻きつけたような不思議な服を纏って立っていた。真鍮色の腕輪がたくさん嵌まった手には鮮やかな紺に塗られた木の杖が握られていて、首にはじゃらじゃらと首飾りがぶら下がっている。賢者を見ても怖がらないのだなと思っていたが、よく見ると魔力を調整したのかレフルスの瞳が灰色になっている。それを魔法使いが見上げながら「群れの仲間以外にその色を見せるなんて」みたいな顔をしていた。


「どこからいらした?」

「ヴェルトルートから、砂漠の星を見に」

 老人の問いかけに、賢者が答えた。何やら詩的な旅の目的に勇者がちょっと微笑んでいると、淡々とした声で剣の仲間達の設定が砂漠の言葉で、そしてすぐにヴェルトルート語で語られる。

「私は星なき根源の地の天文学者だ。彼らは左から護衛の剣士、私の助手を務める妖精、水の癒し手、それから私と同じくラタ・マレを見にきた吟遊詩人。詩人として、砂の海の悲しくも美しい光景を一度己の目で見たいと考えている」

 助手だと紹介されたエルフが嬉しげにもじもじしながら干しぶどうを一粒賢者に握らせ、苦笑しながらポンと頭に手を乗せられて身悶えする。


「ほう、水の癒し手……」

「彼は類稀な癒しの力を持って生まれた、水の申し子だ。雨を降らせる程の力は持たぬが、しかし砂漠の地では彼のような人物がきっと助けになる」

「そうかそうか、水の申し子……そんなお方がよく来なさった! ラタ・マレの星と砂の光景をただ綺麗綺麗と阿呆のように喜ぶ旅人は多いが、お主らはきちんとその悲しさをわかっとる良い旅人だ。しかし砂漠を渡るには入念な準備が必要なのを知っとるか? この町には必要なものが全て揃っておるから、マレに詳しい隊商キャラバンの者に話を聞いて必要なものを買いなされ。そうでなくとも、ゆっくりしていかれると良い」

 老人が嬉しそうに手を叩きながら畳みかけるように喋ったので、勇者は少し驚いて目をぱちくりした。こんなに淀みが凝っている場所に住む人なんて、みんな神殿の人間のようにおかしくなってしまっているとばかり思っていたのだ。


「何を驚いていなさる?」

 しかし不意に老人の目がこちらを向いて、勇者はどきりとした。優しげな微笑みの中に鋭い警戒の色がある、まるで狩人のような独特の視線だ。


「いや……淀みは人を狂わせるのに、あなたは優しい顔をしてるし、街も綺麗に整ってるんだなと思って」


 勇者がおずおずと少しおべっかを込めて言うと、老人は先程の目つきが嘘のように誇らしげな顔になって笑った。そして「慣れておらぬ旅人さんには瘴気が強かろう。明日は祭りだからな、それまで辛抱なさい」と不思議なことを言う。


「そうさな……争いの多く、瘴気の濃い土地だからこそ我らは笑うのよ。こうして穏やかにしとかねば、人の憎しみに飲まれて人生を狂わせる。マタンの民はそれを知っとるからこそ、こんな土地に住める……わしらは、ガラバの奴らとは違う──」

「マタンの民は凄いな。誰もが頭でわかっていても、なかなかそんな風に生きられるもんじゃない」


 老人の語調に強い憎悪が混ざりかけたのに焦って、勇者は慌てて彼を褒めちぎった。視界の端で賢者が小さく頷き、老人の機嫌が再び落ち着きかけた時──しかし彼の目が、吟遊詩人の呪布に止まる。


「……お嬢ちゃん、その目の布は魔導かね? 悪いことは言わん、ここでは外しなさった方が良い」


 突如生まれた得体の知れない迫力に吟遊詩人がびくっとなって、そしてすぐさま体の陰で拳を握り締めると、彼は少女そのものの可憐な声で少し戸惑ったように、いかにも心細げに勇者のマントを握りながら言った。


「うん、まじない師だったおばあちゃんが縫ってくれたの。これがあると私、目が見えるようになって……お花の色が全部わかるし、リュートのための楽譜だって読めるのよ……おじいちゃんは、おまじないが嫌い?」


 そう言って吟遊詩人は解いた呪布を胸の前できゅっと握り、ぼんやりと遠くを見ているような明るい緑の瞳で老人の方を見た。最近は慣れてしまったのであまり気にしていなかったが、そういえばどこまでも見えすぎて近くがあまり見えないという吟遊詩人の目つきは、焦点が合っていなくて盲目なようにも見える。


「……いいや。争いごとに使う魔導は憎いが、そういう優しいものは嫌いじゃないよ。そうか……そういった理由があるなら、構わないからそれを巻いておいで。見えないと不安だろう? 街の皆にも、お嬢ちゃんのそれが悪いものじゃないとわしから言っておこう」

「ううん、みんなが不安な気持ちになるならこれはしまっとく。でもありがとう、おじいちゃん……苦手なものなのに、おばあちゃんの刺繍を優しいものって言ってくれて」


 吟遊詩人が瞳を宝石のようにきらめかせながら切なげな微笑を浮かべ、少しふらつきながら老人に歩み寄るとぎゅっと抱きついた。そして一転して花のようにキラキラ笑いながら彼の胸元で顔を上げると「あのね、私ルシナルっていうの。おじいちゃんのお名前は?」と尋ねている。彼はその愛らしい仕草にすっかり絆されてしまったらしく「アラバだ。お嬢ちゃんは本当に良い子だね」と孫娘を見るような目でルシナルを見下ろした。


 みるみるうちにアラバの家へ招かれることになり、宿屋はないが宿泊に空き家を使わせてもらえるという話が進んだ。勇者は皆と一緒にアラバの後に付いて彼の家までの道のりを歩きながら、恐々と勇者の肘のあたりを握って歩いている魔性の美少女を見下ろした。普段は近くなんて見えずとも平気で森の中を走り回っているくせに、ちょっとした小石につまずいてみせたりと演技が細かい。


「お前、恐ろしいな……」

 魔法使いが小刻みに頷いて同意し、そっと見知らぬ老人に抱きついた吟遊詩人の全身を浄化してやっている。この妖精の「恐ろしい」は何か意味が違う気がすると勇者が少し微笑みながら吟遊詩人の反応を窺うと、しかし少女のような少年はそっと周囲を見回した後、きりりとした鷲族の眼差しで笑った。


「機転が利くって言ってよ。まさか賢者が花の刺繍で隠蔽してくれたのを見抜くほど、魔法陣に敏感だとは思わなかった。本人が言ってるほど穏やかな人達じゃないと思う」

「だな……」


 小声で話しながらきょろきょろと辺りを見回したが、街の中はえらく静かで、周囲に店のようなものも見当たらない。観光客がいないにしても肉や野菜を売っているような場所くらいあって良いのにと考えて、自分も随分と都会の考えに染まったものだと勇者は苦笑した。そうだ、店が無くたって何の不思議もない。定期的に隊商が訪れるなら買い物は全てそこで済ませて、日常の細々したものは物々交換なのだろう。


 訪れたアラバの家は、少し海の魔女の家に近いような感じに青い布が張り巡らされていて居心地が良さそうだった。そういえば本の中の魔術師バローグが唱えていた呪文も海の魔女の呪文に響きが似ていたし、彼女は北の方の海の出身だったりするのだろうか。


 厚い布の敷かれた地面に座ると、彼の妻だという大きな盆を抱えた老婦人が虚ろなにこやかさで現れた。銅の薬缶で直接煮出したらしい、あまり嗅いだことない香りの茶を出される。賢者が胸の前に持ち上げた右の拳を左手で包むような、少しヴェルトルートの祈りの姿勢に似ている仕草で礼をして、小さな杯の乗った盆を受け取ると皆に一つずつ配った。夫妻へ背を向けた瞬間に鋭い瞳で素早く香りを確かめているのは、何か変なものが混ざっていないか警戒しているのだろうか。


「先に私が一口飲むので、そなたらは口に含むのを少し待つように……では杯を掲げて、私の後に続いて言いなさい。意味は『サラ・バロの恵みに感謝いたします』だ──エルバ・ナダ、サラ・バロ、ヘルタナグ」

「エルファナダ、サラ・バロ……ヘルタニャグ」


 皆が辿々しく賢者の後に続いて唱え、魔法使いだけが「ルーファーロ……ラーニャク」と全く違う何かを呟いた。アラバが感心したように微笑んで、一緒に杯を掲げる。


 賢者が一口飲んだ後に、まるでそれがヴェルトルートの作法か何かのようにどうぞという感じで手のひらを皆に向けた。それに反応した神官の仕草を真似して、皆で軽くアラバと賢者に一度ずつ頭を下げてから茶を飲む。少し胡椒の香りに似ているようなピリッとした匂いで、なかなか美味しい。


「これは……淀瘴てんしょう解毒薬と同じ薬草が使われていますね」

 神官が小さな声で呟いて、それを賢者が「とても香りが良くて美味しいです」と訳した。勇者は神官の言葉を聞いてなるほどなと頷いていたが、そういえば以前に勇者も飲んだ淀瘴解毒薬とは一体どういうものなのだろうと思い当たって首を捻る。浄化と同じような効果を発揮する薬草とは、一体──


「簡単に言うと、精神安定剤ですよ。淀みを直接消しはしませんが、自然と抜けるまで心を落ち着かせてくれます」

 顔に出ていたようで、神官がそっと囁いてくれた。勇者達の方を見てアラバと奥方が何を話しているのだろうという顔をしたので、賢者が「瘴気で少し気分を悪くしていたのが落ち着いたそうだ」と話す。この程度の淀みなど勇者にとっては何でもなかったが、しかし老夫婦が嬉しそうな顔で何か言ったのでそれで正解だったのだろう。


 その後少し談笑して、吟遊詩人がリュートの演奏を数曲聴かせると、老夫婦はすっかり機嫌を良くして勇者達に質の良いパンやチーズをたくさん持たせてくれた。賢者が渡そうとした金を断ったのを見て勇者が作り貯めた木の匙や椀をいくつか取り出すと、アラバは普通の優しい老人そのものの顔で「おや、手作りの品とは嬉しいね。そうそう、こういうのが本当にあたたかい人の関わりというものだ」とにこにこ受け取る。声は優しいのだが、やはりどうにも言い回しに危うさを感じる。


 それから何だかよくわからない布の束を山ほど持たされて家を出ると、上機嫌で杖をつきながら歩くアラバの後に続いて、街の端の方にある空き家へと案内された。彼の指示で入り口の穴の前に分厚い布を幾重にも掛けると、上等な天幕のように風を通さないしっかりした仕切りになる。勇者と賢者が老人を家まで送ってから戻ってくると、仲間達がどっと疲れた様子で布を敷いた土の床に座り込んでいて少し笑った。


 そのまま少し水を飲みながら休憩していたが、砂漠とはいえかなり北の方にあるからか、夕暮れ時になると急に冷え込んできたので一度床の布を捲り、周囲の様子をよくよく窺ってから部屋を暖める魔法陣を描いてすぐに布で隠す。何かあれば妖精の魔法だと言おうと打ち合わせしてから、ほかほかになった部屋に寝転んで勇者もようやく安堵のため息をついた。


「──吟遊詩人の目隠しを見た瞬間、急に人が変わったみたいになった。目がガラス玉みたいになって……神殿の人間みたいな感じだ。たぶんかなり淀みにやられてるな」


 勇者が低い声でぼそぼそ言うと、寝そべっている魔法使いの頭をゆったりと撫でていた神官が頷いた。彼はこれくらいの時間にいつもクルムと戯れていたので、何か可愛がっていないと寂しいらしい。


「魔獣の血を浴びるとかでなく、ゆっくり浸食されてゆくとあんな風になるのでしょうね。薬草茶を飲んでいるからあの程度で済んでいるのかもしれませんが……あっ、そういえば! ねえ賢者。私、砂漠に雨を呼ぶくらいはできるんですよ?」


 神官が賢者を振り返って少し拗ねたように言うと、埃っぽくなった服を浄化していた天文学者はどうでも良さそうな見下した顔で神官を眺めた。

「知っているが、この乾燥した土地でそこまでの水の力を悟られれば歓迎を超えて執着されかねん。そなたを奪われるような危険は避けたい」

「おや」

 少し目を丸くした神官が照れ臭そうに指先をもじもじして何か言おうと口を開きかけたが、その時魔法使いが耳をぴくりと外の方に向けて立ち上がったので、さっと緊張した顔になって言葉を引っ込めた。皆が話をやめて注目するなか、魔法使いはそのまま入口の方へ歩いてゆくと、ふわっと青い布を捲る。


「ファーロ……おかえり」

「ハイロ! お前……どうした?」


 勇者が飛び上がるように立ち上がって華奢な異端審問官に駆け寄ると、ガラス色の目をしたハイロが微かに微笑んで一礼し、背後の神官に視線を投げた。

「夜分に失礼します……ロサラス、私を浄化してください。淀瘴です」





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