三 砂の家にて



「淀瘴だって!? と、とにかく中に……神官、神官早く」


 おろおろしながらハイロを家の中へ招き入れて荷物を降ろすのを手伝ってやっていると、大人しく背を向けて勇者に鞄を預けていた彼女は、肩越しに振り返りながらふっと面白そうに微笑んだ。


「心配無用です。症状はごく軽微で、解毒剤も飲んでいますから」

「俺がお前に、症状が軽ければ心配ないなんて言うはずないだろ?」


 しかし勇者はもう不安で不安で、できるだけ優しい声を出してそう言った。するとハイロはなぜか少し怒ったように目を見開きながら素早く体ごと勇者に向き直り、そしていつもよりも荒くなってしまう語調を押し殺すように静かな声で言う。


「……今はそんな事を仰っても、いずれは異端審問官の私に愛想を尽かしてお見捨てになるのです。私はそれを確かめに来た……貴方がまだ、私を嫌っていないのか。貴方が、神殿の人間を仲間のように扱う迂闊さと危うさに気づくまで、あとどれほどの時が残されているのか」

 ハイロの目がさっと涙で潤んで、伸ばしかけた勇者の手をパンと払った。


「もう、もう終わりにしてください。簡単に助けようとなさらないでください。いずれ失われるとわかっているのなら、いま失ってしまった方がどれだけ気楽でしょう。私は剣伴ではないのです。どう足掻いたって、貴方の仲間にはなれない人間だ」

「ハイロ! 可哀想に、そんなに思い詰めて……おい神官早く」

 勇者がそわそわと身じろぎしながら何度も神官を振り返ると、彼はそんな勇者に向かって少し呆れたような顔をしながら歩み寄ってきた。


「はいはい勇者、周りが慌てるとハイロが不安になりますよ……全く、そんなに心配しなくても先程のアラバ殿よりずっと症状は軽いでしょうに──私達の大事なハイロに、清らかなオーヴァスの祝福がありますように。スクラゼナ=イルトルヴェール」

 神官が微笑みながら、ひたひたに濡れた手でそっとハイロの額を撫でた。少し強めだがいつもの呪文の範囲に収まるくらいの浄化をかけられると、透き通った二つのガラス玉の中にすうっと星の色が戻ってくる。ふわっと体から抜けた淀みに勇者が右手を伸ばすと、空中に鮮やかな金色の炎が燃え上がって淀みを消し去った。


 するとハイロがハッと夢から覚めたように顔を上げ、状況を確認するように一部屋しかない小さな家の中をきょろきょろ見回した。勇者はそんな彼女を安堵の目で見下ろして、魔法使いのそれよりも少し灰色がかった淡い金髪を撫でる。

「ハイロ……お前も実は花の妖精だったのか? 魔法使いがかかった時の症状によく似てる。怒り狂って仲間を傷つけた俺とは全然違ってて……心の中をどこまで深く潜っても優しいものしか詰まってないから、きっとそうなるんだ」


 正気に戻ったハイロはそんな勇者の言葉が聞こえているのかいないのか、先程までの自分の言葉を思い出して恥ずかしくなっているらしく、頰を真っ赤にして心細そうにマントの前をかき合わせた。そのまま掠れた高い声で「あ、その、浄化をありがとうございました……失礼します!」と言って、擬態で姿を消しながら扉代わりの布をくぐると走り去る。


「はあ……可愛い」

「おやおや、予防しなくて大丈夫でしょうか?」


 神官が困ったように腕を組んで言うのを聞いて、勇者はあっと思って慌てふためいた。しかしそんな彼の頭をポンポンと犬を撫でるように叩いて、魔法使いが首を振る。

「ファーロはうさぎのようだけど本当は人間だし……また患っても助けてくれる存在があると分かっていれば、大丈夫だと思うよ」

 あの子はちゃんと今確かめたからね、と妖精が表情をやわらかくして、屈み込むと脚にすり寄ってきた猫を大切そうに撫でた。


「えっ、魔法使い……その猫ちゃんは?」

「いつの間にか、いたよ」


 灰色と焦げ茶が縞々になった毛並みの猫が、床に座り込んだエルフの膝によじ登って丸くなった。野良猫なのか痩せているが、魔法使いに浄化されたらしく毛並みは清潔そうだ。神官が羨ましそうにそわそわとそれを見つめているので、何か餌にできるものはなかったかと荷物を漁る。塩気の強い干し肉しか出てこなくてううむと唸っていると、魔法使いが「貸して」と手を差し出した。


「だいぶしょっぱいぞ……一度森に出て、なんか狩ってきてやろうか」

「ううん、それでいいよ」

 指先でつまんだ干し肉を魔法使いが埃でも落とすように小さく振ると、何かキラキラした四角いものがじゃらじゃらと布の上に落ちる。


「何してるんだ?」

「塩抜き」

「……塩抜き?」

「料理の、基本だよ」

「いやお前、それはこう……水に漬けるとか、そうやってやるもんだろ」


 勇者が引きつった顔で床に落ちた小さな四角をつまみ上げて口に放り込むと、確かにそれは塩だった。不可解な魔法に呆れているうちに、妖精は肉の端を少し千切り取って口に含み、まずそうな顔をしながらうんと頷いて神官に差し出した。


「……あげるといいよ」

「良いのですか」


 神官がぱあっと顔を輝かせて干し肉を受け取り、妖精の膝で眠そうにしている凶暴そうな顔つきの野良猫にそうっと差し出した。猫が慎重に匂いを嗅いだ後に素早くそれを奪い取ると、幸福の極みのような表情で勇者を振り返る。


「受け取ってくださいました!」

「おう……良かったな」


 野良猫はそのまま神官の手からもう二欠片の肉片を強奪し、鍋からたっぷり水を飲むと、大変偉そうな顔でそのまま家の中に居着いた。野良猫のくせに随分図太いなと勇者は少し思ったが、多少目つきが悪くても寝床に猫がいるというのは仲間達にとって良かったらしく、アラバに疲弊させられたわりには皆よく眠れたようだった。





 次の日は賢者曰く──彼がなぜそんなことまで知っているのかさっぱりわからないが──この街の人が信仰しているらしいサラ・バロという雨の女神の祭りの日だった。


「おそらくね、馬の耳と尾を持つスティラ・アネスの水の眷神けんしん……オーヴァスの娘サラファールと元々は同じ神様なんじゃないかと思うのです。お祭りまでは瘴気を我慢しなさい、みたいなことをアラバ殿が言っていたでしょう? 雨は大地の渇きを癒すと共に、土地の穢れを洗い流しますから……何か奇跡とか魔法とか、そういうことが起きるのではないかと思っているのです」


 神官が「ね、賢者?」とにっこりすると、賢者は荷物に何やらおどろおどろしい術をかけながら素っ気なく頷いた。


「なあ……賢者、それ何してるんだ?」

 荷物の山が何か闇に飲み込まれたような、不可思議な黒い空間の中に取り込まれていた。どう見ても魔王の呪いか何かにしか見えないと勇者がたじろいでいると、賢者が振り返ってなぜか少し自慢げに言った。


「盗難防止の封印術だが、魔術に見えぬよう細工した」

「いや……うん、確かにちっとも魔術には見えんが……なんていうか、この街の人とうまくやるために隠そうってんなら逆効果というか……ええと」

「逆効果?」


 賢者が特に気分を害することもなく不思議そうにしたのを見て、吟遊詩人が盛大に吹き出した。せっかく勇者が言葉を濁したというのに、彼はあっけらかんと謎の闇を指差して「どう考えても見かけが怪しすぎる」と言い放ち、結局荷物はそのまま何の術もかけずに置いてゆくことになった。賢者は特に怒らなかったが、どことなくがっかりしてしまったように見えたので林檎味の飴をひとつ渡してやると、なぜか鋭く睨みつけてくる。


「なんでだよ……お前、これ好きだろ」

「そなた、私と神官を混同してはおらぬか」

「してないって……ちぇっ、魔法使いに干し葡萄もらったのは喜んでたくせに──痛い! おい離せ、耳引っ張んな!」

「ふん」


 各々貴重品を身につけ、魔法使いがおもちゃの入った鞄をしっかり抱え、吟遊詩人が小さな木彫りの狐を腰の革袋に移しているのを見て微笑むと家を出た。


 こうやって宿じゃなくてひとつの家から出かけると、なんか家族みたいだ──


 少しだけうっとりしながら外に出たが、どす黒い風に吹かれて遠い目になる。どことなく周囲の草木も元気がなくて、ここで獲れる食べ物はあまり食べたくないような雰囲気だ。祭りとやらで本当に浄化されれば良いのだが、ロサラスが執り行うならばまだしも、あのガラスの目をした人達の儀式で本当にそんな奇跡が起きるのだろうかといぶかしんでしまう。


 思わずやれやれとため息をついていると、その時勇者達の方へ聞き覚えのある声がかけられた。


「ダナ・レフラース! アーリガ・ラドエ!」


 振り返ると、アラバ夫妻が腕を組んでにこやかに歩いてくるところだった。名指しされた賢者が昨日と同じ右手の拳を左手で包む仕草で応えた。


「アーリガ・ラドエ。ダナ・アラバ、ファラナタ」

「アーリガ……ラドエ?」


 勇者が見よう見まねで挨拶らしき言葉を口にすると、アラバは手を叩いて嬉しそうに笑い、優しい声で勇者に向かって言った。

「アーリガ・ラドエ、シャダル」

 目を合わせてニッと笑い合う。正直に言ってこの老人と今日も顔を合わせるのは少し気が重かったが、会ってみればやはり、淀みに侵されていなければ立派で優しい人なのだろうと思えた。


「昨夜はよく眠れたかね?」

「ええ、アラバ殿が良くしてくださったお陰です。マタンの家屋もとても心地良くて……外の寒さをあれだけ通さないとは思いませんでした」


 神官がにっこりすると、いかにも高貴で箱入り育ちらしい若者に褒められたアラバが誇らしげに瞳を輝かせた。なぜだろうか、昨日より少し綺麗な目をするようになった気がする。


「ローシャル、そうだろうそうだろう。ルシャーナはまだ眠そうだね?」

「おはよう、アラバおじいちゃん……あのね、レフルスに言葉を教えてもらってたら夜更かししちゃった……」

 今日もあざとい演技を続けるらしい吟遊詩人が、少しも夜更かしなどしていないくせにどう見ても眠たげな顔でふにゃっと笑って綺麗なマタン語で言った。アラバがびっくりした顔で奥方と視線を交わし、嬉しそうに金の髪を撫でる。


「なんて良い子なんだ、それに天才ときている。きっと視力に恵まれなかった分、誰より良い耳をサラ・バロから授かったのだろう」

「そうかな……それだったら……嬉しいな」


 誰よりも視力と聴力と語学力、身軽な身体能力とついでに演技力に恵まれた天才少年が、生まれて初めて自分の欠点を肯定されたみたいな顔で嬉しそうに微笑んだ。アラバがますます機嫌を良くした顔になり、瞳が一瞬だけ肥沃な森の土のように優しい焦げ茶色に光る。全く恐ろしい妖精フェアリだ。


 すっかりエメラルドの妖精に化かされた老夫婦と連れ立って、祭りの会場だという中央広場へ向かう。広場は大いに賑わっていて、鮮やかな青い服を着た人がたくさん集まっているのはなかなか美しいと勇者が感心した次の瞬間──ガラス玉の目をした数百人の人間が一斉に振り返って、祭りに訪れた余所者をじっと見つめた。





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