六 枯れた大地に雨が降るような(吟遊詩人視点)



 天井をすり抜けて落ちてきたハイロを、衝撃を逃すようにくるりと回りながら軽々と抱きとめて勇者は言った。


「天使が降ってきたのかと思った……」


 それを聞いた吟遊詩人は反射的に吹き出したが、しかし普段は凛々しい顔をしている勇者が安堵と愛情の入り混じった優しい目をして囁くと、なんだか本当に彼の腕の中のハイロが優しい灰色の翼の御使いに見えてくるような気もした。ハイロの方も何だか恥ずかしそうに瞬いて、勇者の言葉を──


「お前の翼は治り始めたばかりなんだから、まだ飛んじゃダメだ」


 いや、やっぱり馬鹿なのかもしれない。


「勇者、ハイロちゃんに翼は生えてないよ」

「ハイロ……」

 親しげな呼び方にハイロがたじろいだ顔をするが、気にしない。


「でも、翼の折れた鳥みたいに悲しげだったのが、最近すごく綺麗な目をするようになった」


 愛おしげな甘い声で「もうすぐ星に届く」と囁いている彼は、紛うことなく恋に浮かれた馬鹿だった。確かに恋は人を詩人にするのかもしれないが、それを堂々と本人に聞かせるのも面白いし、まず自分がどれだけ恥ずかしいことを言っているのか気づいてすらいない。


 そういうのは、お互い馬鹿になった両想いの恋人同士じゃないと通じないって、勇者……。


 吟遊詩人はそう心の中で友に呼びかけていたが、しかしどうやら意外なことに、勇者の間抜けな恋歌はそれなりに効果を及ぼしているようだった。


 そうっと地面に降ろされたハイロが周囲を見渡すと、なんだかもじもじとマントの端を握り、戸惑った顔で勇者を見上げ、そっと俯き、またちらりと勇者を見上げを繰り返している。それを可愛くてたまらないという顔で見下ろしている彼に、彼女はおずおずと口を開いた。


「高所から落下しましたが、受け止める際にお怪我はありませんでしたか」

「全然大丈夫だ。小鳥の羽みたいに軽かった」

「何よりです。あの……勇者殿、ならば少しよろしいですか。お会いして早々なのですが、ずっと気がかりなことがありまして」

「何だ?」


 勇者がこの上なく優しく尋ねると、ハイロは一度小さく深呼吸をして、ほとんど魔法使いと変わらないような小さな小さな声で言った。


「先日、先日の舞踏会の際の耳飾りなのですが……」

「うん、よく似合ってた」

「あれを……お返ししますので、受け取ってはいただけませんでしょうか」


 そう言い切ったハイロがどことなく肩の荷が降りたよう顔をしているのを見て、勇者がショックを受けた顔になる。

「え、いや……あれはもうお前にやったんだからお前のものだけど……いらなかったか?」


 一瞬でよろよろになってしまった勇者を見上げて、ハイロは静かに首を振った。

「いえ、自分でもなぜだかわからないのですが……なんだかとても大切なものになってしまって、神職の者が儀式用以外に高価な装飾品など持っているべきではないのに……お話ししていました通り、ドレスや靴は寄付しました。けれど、これだけはなぜか……愚かにも、どうしても、手放せないのです」

 そう言ってハイロは、腰の小さな鞄から勇者の瞳と同じ色の石が下がった耳飾りを取り出し──一度離れがたいようにきゅっと胸に抱いてから差し出した。


 勇者の顔が一瞬でかあっと耳まで真っ赤になって、口元を片手で覆ってふらっとよろめき、熱に潤んだ瞳でわなわなとハイロを見つめた。


 うん、あれは仕方ないな──


 美しい容姿をしているのもあって、吟遊詩人から見ても少し目眩がするくらい可愛らしかった。流石にここまで大げさに反応されればハイロも勇者の恋心が感じ取れるのか、少し戸惑うような不思議そうな、それでいて少し切ないような顔でそれを静かに見つめている。


「──持っているべきではない、というのは神典の拡大解釈ですよ、ハイロ」

 その時、神官が静かに微笑んで言った。

「過度に着飾り贅沢をして他に分け与えない精神は確かに良くありませんが、思い入れのある宝物をひとつふたつ大切に守っているような心根は、その物自体の金銭的な価値に関わらず尊ばれるものです。大切に思えるのならば、そのまま大切にしていらっしゃい。宝物を持っているとね、同じく大切なものを持つ人の気持ちがわかるようになるのですよ。人の心の繊細な部分を理解できるようになることは、時に食事を施すよりもずっと人を救います」


 可憐な異端審問官は「異端の元高位神官」の言葉を受け入れるか否か少しの間迷って、そして小さく「はい、猊下」と頷いた。

 小さな声で囁くように「このまま、私がいただいても良いですか?」と尋ねられた勇者が壊れた人形のようにがくがくと頷くと、ハイロは手の中の空色を金色に光る優しい瞳で嬉しそうに大切そうに見つめ、そっと元の鞄に仕舞い直した。


 それを見てしまった彼は胸元を掴んで蹲り「息が……息ができない、神官、助けてくれ」と間抜けなことを言っている。


「今度……今度どっかの街に行ったら、また何か買ってやるから……腕輪とか、首飾りとか」

「いいえ、もう十分です。私が大切にしているのは、身を飾る装飾品ではなくこの色で……この綺麗な空色を光にかざしていると、晴天の色ですのに、なぜだか枯れた大地に雨が降るような心地がするのです」

「そっか……」

「あっ、勇者!」





 感極まった勇者がバタンと倒れてしまったので、とりあえず倒れた勇者の上に被せるように天幕を張って休憩することになった。


 散々勇者の心を弄んだハイロはすっかり彼に惚れているのかと思ったが、表情を見ている限りだとまだ恋にまでは至っていないというか、初めて神殿の外の人の温もりに触れて戸惑っているという感じがした。


 吟遊詩人の予想に反し、幸いにして勇者が恋心を打ち明けてもそれに恐怖や嫌悪の感情を抱いてはいないようで、というよりもむしろ愛に飢えた心が揺らいで傾きかけているように見える。弱った時に落とすような真似は良くないかと思ったが、しかしこのシダルほど恋人にして誠実で優しい男もいないに違いないので、彼女が恋に落ちたところで不幸にはならないだろうと思い直す。


 でもなあ、彼女、賢そうなんだよなあ……。


 確か、世界で賢者の次くらいに頭が良いと言われているのだったか。まあ頭の良さにも色々あるので順位をつけるのもおかしいが、まず間違いなく、ハイロは我を忘れて燃え上がる恋に身を任せる類の人間ではない。俗世の愛と信仰を天秤にかけた時、どんなに勇者を愛していても強固な理性で信仰を取ってしまうような、そういう……ロサラスに近い性格をしているように見える。


「ハイロ、あなた、その指はどうしたのです。治療しますから手を貸しなさい」

 その時神官の厳しい声がして意識を引き戻すと、暖かい天幕の中に入って手袋を外したハイロに向かって神官が手を差し出していた。気絶していた勇者がその声でがばりと起き上がり、真っ赤に腫れ上がった指先を青い顔で見つめる。

「ただの霜焼けです。大したことはありません」

「そこまで腫れていたら痒みを越して痛むでしょう、軽い凍傷になっているかもしれません。足も診せていただきますよ。あなた達、少し天幕から出て──賢者は、彼女のマントと天幕を暖かくして差し上げなさい」


 ハイロが口を開こうとしたが、神官が全く怖くないひと睨みで黙らせる。命令された賢者は気分を害した顔をしていたが、神官がハイロから取り上げて差し出したマントと丸めた天幕を無言で受け取ると、荷物から魔導用の工具袋を取り出して出て行った。心配そうにしている勇者を促してその後を追う。


 天幕を出ると、賢者が預かった布の束を地面に広げているところだった。丁寧に皺を伸ばすと荷物から小瓶と筆を取り出して、そしてそれを勇者の手に押しつける。そしてきょとんとした勇者が手元と賢者の顔を見比べるのを無視すると、彼は灰色のマントの端に触れて黒い影色の魔法陣を魔力で描き出した。


「これをなぞりなさい」

「えっ?」

「光の神の使者と見紛うほどに愛しているのならば、そなたが作ればよかろう。良い機会だ、そろそろ魔導にも手を出してみなさい」

「えっ……」

 頬を染めた勇者が筆を握り締めて「練習……一回練習させてくれ」とそわそわしながら言ったが、賢者は面倒そうに「なぞるだけだ、早くしなさい」とそれを一蹴した。


「う、うん……」

 さて、治療を終えたらしいハイロが天幕から顔を出した時、勇者は無事マントの方を完成させて天幕の魔法陣を描き始めていたところだった。まさか勇者が作業しているとは思わなかったらしい彼女が少しぱっちり目を開けてそれをじっと見つめると、小さな声で「……ありがとうございます」と呟く。その後ろから神官が出てきて、怒った顔で腕を組んだ。


「ハイロ、中で休んでいなさいと言ったでしょう。魔法使い、お昼のスープを作ってくださいな。今は体調を崩していないようですが、熱を出してもおかしくありません、できるだけ食べやすくて栄養のあるものを」

「……ん」


 のんびり頷いた魔法使いが荷物から鍋を取り出して、何もない空中から水を注ぐと、つんつんと指先で水面をつついた。するとコポコポと小さな音がして中で湯が沸き出す。どうやら彼女は、焚き火なしでも問題なく料理ができるようだ。


「なら朝ごはんもスープが良かったなあ……」

「朝は、眠かったから……ぼんやりしていたね」


 今朝盛大に寝坊したのを思い出して恥ずかしくなったのか魔法使いがエルフ語訛りで話しながら、荷物から取り出した食材を次々に刻んで鍋の中に放り込んだ。


「それにしても包丁が……不器用だなあ」

「少し、上手になった」

「ほんとに? 怪我しないでよ」

「……ん」


 魔法使いが大人しく頷いたので、吟遊詩人は完成したマントと天幕を綺麗に畳んでそわそわとハイロへ渡しにゆく勇者を見送り、壁の方へ歩み寄って何か眺めている賢者の隣に行った。


「何か見つけたの?」

 尋ねると、賢者がついと視線で壁を指した。平らに削られた石の壁に、見たことのない文字のような記号のようなものが彫り込まれている。


「何これ……ちょっと楽譜っぽいね」

「ほう、わかるか」


 滅多にない嬉しそうな目で見下ろされたので、吟遊詩人はすこしそわそわとなって視線をうろつかせた。

「う、うん……なんとなくだけど」

「であろうな。しかし未知の言語の解読は、知識よりもむしろその直感と閃きが大切だ。誰にも解けぬ謎を解明するには、誰にも思いつかぬ発想をするしかない。知識は得ることができるが、そなたのその天才的な感性は得難い宝だ。有効に使いなさい」

「……うん」


 すっかり照れて口をつぐんでしまった吟遊詩人は、それからしばらく壁に刻まれたエルフの楽譜を丁寧に手元の紙に書き写している学者の様子を見ていた。すると勇者に作りかけのスープを押しつけた魔法使いが瞳をキラキラさせながら駆け寄ってきて、楽しそうにしている賢者を間近で見守り始める。


 故に昼のスープは美味しいものの、いつもほどの感動はない勇者の料理になった。勇者はハイロの瞳が鮮やかな星色に輝かなかったと残念そうにしつつも、自分の手料理を美味しそうに食べる彼女を熱い眼差しで見つめて幸せそうにしていた。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る