番外編 地獄へも(エナグ視点)
(※シダル連載一周年記念の短編です。第四部第二章「冬の森」の番外編ですが、第五部までのネタバレが含まれます)
「斬れ、ラダ!」
ソロがそう叫んだ次の瞬間には、止める間もなく、ラダが剣を振るっていた。術を纏わせて切れ味を上げたそれが脚に触れる前に、エナグは思わず顔を背けた。よろめいたソロを抱きとめた腕が、ガタガタと震えてしまう。浄化の炎から命を守るためとはいえ、脚を、脚を断ち落とすなんて、それも麻酔もなしに、どんなに、どんなに――
「落ち着きなさい、エナグ」
とその時、腕の中のソロが掠れた囁き声で言った。
「ソロ」
涙声になってしまったのを、咳払いでなんとかしようとする。
「痛みは、ある程度散らしてあります。今は、勇者を」
「なりません」
強く言って、痩せ細った肩を抱く腕に力を込める。ソロが苛立った顔になったが、彼女はそれを気にも留めず、さっとルザレへ視線を送った。隻腕の青年が頷いて魔法陣を立ち上げ、最低限の止血が終わるのを見届けてすぐ、転移の術が発現した。緑色の光が回転を強くしながら吹き上がり、周囲を覆う。視界が暗転し、強い目眩に襲われるなか、エナグは抱えたソロを決して落とさないよう、強く強く抱きしめた。「苦しいです」と声が聞こえて、慌てて慎重に力を緩める。そうしている間に、渦巻く魔力が少しずつ薄れ、見覚えのある室内の風景が見え始めた。書架の国の神殿の地下室だ。念のため、転移の受け入れを用意していて良かったと心から思う。
「すぐに処置を!」
ルファが言うと、すぐに水の審問官達が駆け寄ってきた。奥の寝台に運ばれ、治療されるソロの傍らに控え、投げ出された手をそっと握る。骨と皮ばかりの、冷たい手。そこに少しずつ祝福、俗に魔力と呼ばれる力を流す。脈を測っていた水が頷いたが、ソロは面倒そうに手を引っこ抜こうとした。
「……はしたない。ラダと代わりなさい」
「治療行為に同性も異性もございません、ソロ」
「それは……そうかも、しれないがね」
ソロはほんの僅かだけ目を泳がせて、眉を寄せると疲れ切ったように目を閉じた。そんなことを気にした自分の方が高潔さに欠けていたのかもしれないと思って、誤魔化している時の顔だ。エナグはそれに少しだけ微笑むと、傷の治療を終えた水の審問官と場所を代わった。痛々しい傷跡は残ったが、一応は新しい肉と皮膚で覆われた断面。
「ラダが……切断したのが幸いでした。そうでなかったら、治療が効かなかったかもしれません」
呟くと周囲の数人が不思議そうな顔をしたが、エナグは黙って首を振った。
「一度、ヴェルトルートへ帰れば……水の神殿で、新しい脚を生やせませんか」
小さな声で尋ねてみる。するとソロが億劫そうに目を開け、ため息混じりに首を振った。
「そんな非常識な術が使えるのは、ファーリアスだけです」
「ああ……そうでした。では、祝福の確認を行いますから、安静に」
「祝福の、確認?」
怪訝そうにしたソロに微笑みかけ、エナグは靴を脱いで寝台に上がると、跪いて切断面に近い内腿の肌に唇を押し当てた。目を閉じて感覚を研ぎ澄ませる。太い祝福経路を探り、そこに沿って力を少しずつ巡らせ、元々脚のあった空間に指を彷徨わせる。
「エナグ、よしなさい」
冷たい声でソロが言った。そこに少しの動揺も感じられないことに、エナグはほんの少しだけがっかりした。はしたないとかではなく、そこに親密さを感じて……私を、ほんの朝露一滴分くらいでも、特別に思ってくださればいいのに。
「治療行為です」
唇を押しつけたまま呟く。ソロが頭を掴んで強引にどかそうとしてきたが、ルファが「エナグが一番感覚が鋭いのです。我らには剣伴と違って、力を視認できる鷲族がいませんから」と制止する。
「あまり……状態は良くないですね。半分程度、力が体外を巡ったままになっています。経路も損傷が大きい。これが全く綺麗な状態で残っているか、全て失われているのか、どちらかであればまだ良かったのですが……幻肢痛に、苦しむことになるかもしれません」
エナグがそう囁くと、ソロは大きなため息をついて「問題ありません」と肩を竦めた。
「しかし、幻肢痛には薬が効きませんから」
「心因性のものであれば、気の神に仕える我々の得意とするところでしょうに」
ソロはそう言って僅かに頭を起こし、切断された自分の脚を見つめて低く祈りの言葉を唱えた。するとそこに小さな顕現陣が出現し、暗い灰色のローブで覆われた脚の映像が映し出される。擬態の術だ。
「こうしておくだけでも、ある程度の効果はあると聞きますよ」
そうしてソロが幻の脚を軽く動かして見せると、水の審問官達が総出で「安静に!」ととり押さえにかかった。
「問題ありません、祝福ならエナグに充分いただきました。そもそも、なぜ帰ってきたのか……勇者は相当に動揺していました。あのまま畳み掛ければ」
「当然です、これだけ重傷を負えば」とルファ。
「私に……充分」
エナグは少しだけそわそわして、そしてすぐに深呼吸し、気持ちを落ち着けた。「感謝します、と言って頭を撫でてくださったりしないだろうか……」とほんの一瞬だけ考えたが、誰にも気づかれていないはずだ。
彼女がそんな想像をしているうちに、水の審問官達は通常の勤めに戻り、気の審問団は次に向けての会議を始めようとしていた。脆そうに見えて堅牢な勇者の陣営を如何にして崩すか、そしてそれが叶った暁には、如何にして各国へ戦争の火種を仕掛け、迅速に人間の世界を滅ぼすか。
「やはり……最後の砦はヴェルトルートになるでしょう。地下の高気圧の影響か、あの地底洞窟にはなぜか淀みが入りにくくなっている」とラダが腕を組む。
「そして水源も豊富です。河川や湖は浄化領域ですからね、全ての国民が水辺に住んでいるような状態というのは、中々攻略が難しい」と横になったままソロが返す。
「オークに襲わせるのが良いのでしょうか」とラダ。
「……ソロは、地獄というものが存在すると思いますか?」
ぽつりと言うと、二人が怪訝そうに振り返った。
「神典にははっきりと記されていない概念ですが」ラダが言う。
「ええ。しかし……世界中の多くの宗教に、地獄、奈落、煉獄……少しずつ名を変え、姿を変え、そのような概念が存在します。悪いことをしたら、永遠の闇に閉じ込められてしまうと」
「オークは悪であるからして、我々は地獄へ堕とされるのではと?」
ソロの瞳が鋭くなる。エナグは静かに首を振った。
「いいえ。いいえ……森や、動物達や、妖精達のため……人の世を滅ぼした私達が地獄へ導かれることになったとしても、私はご一緒しますと、そう言いたかったのです」
真っ直ぐ見つめると、ソロは少し困惑したように眉をひそめた。
「……そうですか、それは光栄なことです」
感情の見えない声。親愛の欠片もなかったが、エナグにはそれで充分だった。
「……やはり、賢者をこちらへ引き入れるのが一番でしょう。彼がいれば、転移術を改変してヴェルトルートと地上の空間を繋げ、淀みを取り込むことが可能になります」
エナグが言うと、ラダが「オークの方が早いのでは?」と言った。しかしあのどす黒く歪んだ生き物が気持ち悪くて仕方のなかったエナグは、できるだけその方法を避けたかった。渋い顔をしていると、ソロが口を開く。
「どちらも、というのが最も効率的ではあるのでしょうが……ナーソリエル、賢者はいけません。あれの思想は毒だ」
「毒?」とラダ。
「そもそも、ファーリアスがあちら側へ加担しているのはナーソリエルの影響です。相当に懐いていましたから。あれのせいで、当時の神殿がどれだけ引っ掻き回されたか……今でも水の方で、こそこそと集まって何かやっている集団がいるでしょう。ドノリエス、ファルマソール、トルーシア、ヴァーセルス……危険思想の持ち主であることは確かですが、しかし尻尾が掴めない。あれの元凶になっているのも彼ですよ」
「そんな影響が……」
エナグが顔をしかめると、ラダが唐突に「ならば、洗脳するしかありますまい」と言い出した。
「祝福そのものは大した量ではないのです。ソロやカイラーナ猊下ならば簡単に傀儡にできる」
「そう易々と行きますかね」
ソロがため息をついて「まあ、猊下に相談してみましょう」と言った。「きちんと話せばわかってくれるかもしれない」くらいに考えていたエナグは、どうやら話が不穏な方向へ転がり始めたことに気が沈んだ。
まただ。また「洗脳」とか「支配」とか「拷問」とか、そういう道を辿ってしまう。ずっと虐げられてきた妖精達へ美しい森を返そうという、たったそれだけのことなのに。どうして、私達人類にはそんな方法しか残されていないのだろう。創造神が人間をお造りになった時は、そんな薄汚れた罪深い種族ではなかったはずなのに。どうして、どうして、私達はその散り際までも、大きな罪を犯して憎み合い、傷つけ合い、殺し合って滅んでゆかねばならないのだろう。それはエナグにとって、あまりにも理不尽であることのように思えた。しかし、それが最もこの世界にとって幸福な――人類にとってはどれだけ不幸でも、世界という広い視野で見れば幸福なことだというのなら、エナグはその残酷な運命を粛々と受け入れねばならなかった。
(……どこまでもご一緒します、ソロ)
心の中でもう一度囁く。どうか天の国では彼を幸せにしてやってくださいと神に強く祈って、エナグは彼のための義足を手配するため、地下室を後にした。
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