七 森の歌(魔法使い視点)



 勇者は毎朝の習慣にしている魔力操作の鍛錬、賢者は壁に描かれた楽譜の調査、神官と吟遊詩人は散歩か何かで出ているらしい。目が覚めた時、天幕の中には神官に渡されたらしい風邪薬を苦そうに飲んでいるハイロと、寝坊した魔法使いしかいなかった。のそりと起き上がると朝の挨拶をされたので「……おはよう、ファーロ」と返して、天幕に頭をぶつけないように立ち上がる。


 ひとつ欠伸をして、魔法使いは地面に敷いたマントの上にぺたんと座っているハイロの頭を、何気なくよしよしと撫ぜた。賢者よりは少し硬いが、その分輝きが強くて綺麗な毛並みだ。


「よしよし……良い毛並みだね」


 どうにもこの子は怖がりなようなので、小さな声で褒める。すると、驚いた顔をしていたハイロはほんの少し嬉しそうに目元を和らげて「ありがとうございます」と囁いた。透き通った視線が何かを懐かしむように、僅かに遠くなる。


 自分と同じように、いやそれ以上に、この子には著しく愛が足りていないのだとわかった。成体の人間でありながらさほど親しくない相手との触れ合いを喜ぶのは、おそらく長きに渡ってそれを全く与えられていないからだ。彼女を一番に甘やかすのは勇者の役目だが、それでも少し優しくしてやりたいと、足元から銀の花を一輪摘んで渡してやる。


「どなたか、好いた方がいらっしゃるのですか」

 すると、ハイロがそっと尋ねた。


「愛の花を……知っているの」

 思わずエルフ語訛りになりながら聞き返すと、ハイロは過去に思いを馳せる穏やかな表情になって頷いた。


「まだ神殿へ入ったばかりの、子供の頃に……偶然出会ったエルフの女性に教わったことがあるのです。ラーナ、と名乗っていらっしゃいました。エルフがその身の魔力で花を咲かせるには、生涯に一度の特別な恋をしなければならないのだと……晴れた日の雲で育てたような真っ白な花を一輪、こっそりと分けてくださったのです。兄が兄でなくなってしまったと泣いていた私に、愛のお裾分けだと仰っていました」


 魔法使い殿はたくさん咲かせていらっしゃるのですね、と言われて顔から火が出そうになった。大人しいうさぎのような人の隣に座り込み、ぎゅっと膝を抱えながらひそひそと話す。


「本当はね……愛した人の前で一輪だけ、ひっそり咲かせるようなものなんだ。でも僕はなぜか、こんなに咲いてしまうんだよ……ねえ、みんなには内緒にしてくれる? 恥ずかしいから……」


 ハイロは魔法使いの言葉を聞いて周囲の花畑をそっと見回すと、優しい顔で微笑んで「心得ました」と囁いた。狂信の色が随分薄くなった瞳には少しも嘘がなく、素直に信頼できるだけの美しさを湛えている。


 仲間達よりも控えめな性格をしているらしい彼女は「で、誰が好きなんです?」と尋ねてくるようなことはなかったが、しかしそんな彼女だからこそ、魔法使いは話しても良いような気分になっていた。


「あのね……賢者が、好きなの」

 もじもじしながら告げると、ハイロは一瞬きょとんとした顔をして、そして小さく「そうなのですか」と呟いた。


「歌がお上手で……花や空や星といった自然物について、とても情緒的な文章を書かれる方ですものね」

「彼に歌を贈られたの?」


 まさか、愛の歌を──?


 さっと血の気が引くのを感じて身を乗り出すと、ハイロは少し体を引いて目を丸くし、首を横に振った。

「昔、神殿で……祈りの歌を、聞いたことがあるだけです。神官は皆、儀式や祝祭で歌いますから」

「……よかった」


 本当に良かった。もし自分の知らないところで賢者がハイロに求婚の歌を歌っていたのだとしたら、魔法使いの心は嫉妬で壊れてしまうだろう。胸を撫で下ろして、今は姿の見えない愛する人へ少しだけ思いを馳せる。


「初めて賢者に会ったときにね……綺麗な星の本を書く彼が、僕の育てている花──ハルマラナだから少し喋るのだけど、あの鐘のような声で穏やかにお花達の言葉に返事をしているのを見て……あの人の星になりたいって、そう思ったんだ」


 独白のように呟くと、ハイロは少し返答を迷ったように間を置いて「……いつも厳しそうにしておられますが……きっと本当はお優しくて、愛情深い方なのだろうと思います。いつか、歌を贈っていただけるといいですね」と言った。それは少し辿々しい──恋への理解が追いついていない未熟な口調だったが、賢者の高い背丈や低い声を少し怖がっているようだった彼女がそんな風に言ってくれて、魔法使いはとても嬉しくなった。「針葉樹は、とても素敵な人を愛したのだね」と囁くと、少し困ったように笑う。


 それに少しだけ微笑み返して立ち上がり──強い風持ちなので、勇者と違って夢に捕らえてしまう心配はない──もう一度灰色がかった頭を撫でると天幕を出た。のんびりと、壁に楽譜が描かれている場所まで歩く。もともと遺跡の謎を暴くことにはあまり興味がないが、記録に執着しないエルフが楽譜を書き残すなんて余程美しい曲なのだろうと思うと、少し奏でてみたい気がしていた。


 しかし目指したそこに、賢者はいなかった。紙に書き写した上で、読み解く鍵になるようなものがないか周囲を探りに行っているらしい。楽譜の壁が見える位置にあるエルフの木の一本に登り、花を紡いでハープの弦を張る。この遺跡の住人はどうか知らないが、リファール・エルフの楽器に定められた調弦はない。そこにある葉や花から紡ぎ下ろした先の枝までの距離が、そのままその日の音階になるのだ。


 ならば楽譜に記されているのは、一体何だというのだろう。歌詞と、おおよその歌の旋律と、それから……伴奏は、ところどころにだけ、リズムの指示が入っているようだ。人間の楽譜ではないので、音の高さを正確に示す横線はない。細かいところはきっとなんとなく、その時の気分で歌うのだろう。歌詞は読めないので鼻歌でそれらしく歌いながら、風に木の葉が揺れるような伴奏をつける。


 降り始めの雨がまだ水たまりを作らないくらいの時間で、賢者が飛んできた。珍しく小走りにマントたなびかせ、そして驚いたことに魔法使いのいる木に手をかけると、隣の枝まで登ってくる。


「教えなさい……」

 息を切らしながらそれだけ言う賢者に、魔法使いは少し意地悪してやろうと「ぎゅっと、してくれたらね」と微笑みかけた。すると賢者は一瞬迷うように瞳を揺らしたが、しかしすぐに魔法使いの座る枝に飛び移ってきて、驚くエルフを後ろからぎゅうと抱きしめ耳元で「頼む」と囁いた。結っていない黒髪が肩を滑り落ちて頬にかかり、少し甘い香りがする。


 思わず枝から滑り落ちそうになって、息を呑んだ賢者に更に強く引き寄せられた。幸せのあまり朦朧としながら楽譜について考えたことを話すと、興奮しているのかすうっと影色の引いた灰色の瞳がキラキラと輝いて「素晴らしい」と子供のような笑みを向けられる。


「雪に落ちる淡い雲の影を……紡いで、宝石にしたみたいだ」


 エルフ語で呆然と呟いているうちに、賢者はいそいそと魔力で影色のミミズクを作り出し、遺跡のどこかにいる吟遊詩人に向けて伝令を出した。


 やってきた吟遊詩人はふらふらになっている魔法使いを見て少し笑うと、賢者の話にあっさりと首を振った。

「気持ちは嬉しいけど、僕じゃダメだよ。旋律もハープもある程度即興でしょ? ただの素敵な曲でいいなら弾けると思うけど、エルフの音楽を再現したいんだよね? 人間の感性じゃきっと違う曲になる。それに、古代エルフ語でなんていきなり歌えないし……ねえ、これは賢者が歌いなよ。魔法使いが伴奏をしてさ、君が歌うことに……意味があると思うよ」


「なぜ私が」と賢者が眉をひそめる。

「そりゃあ……ね?」

 吟遊詩人がこちらを見上げて意味深に笑うので、魔法使いはもうそわそわして、彼に向かって必死に首を振った。それを見た賢者が隠し事の雰囲気に苛々した顔になるが、他者の秘密を暴きたがる人ではないのでぐっと堪えたようだ。


「そなたが……いや、私が歌おう」

 賢者が一瞬こちらを向いて何か言いかけ、そして諦めたようにため息をついた。どうやらエルフの自分に歌わせようとして、母語ではないにしろ生国であるヴェルトルートの言葉もまだ少し怪しい魔法使いの語学の才を思い出したらしかった。

 ハイロも含めた皆が木の前に集められ、そして群れの仲間達の期待の眼差しを受けながら、演奏会が始まった。


 風持ちの賢者のために、先程よりも少し風の気配を強くした前奏を奏でる。花の香りを遠くまで運ぶ、まだ少し冷たい澄んだ春風だ。隣の枝に立った賢者は少し恥ずかしそうに顔をしかめていたが、音色を聴くうちに少しずつ穏やかな目になり、そして背筋を伸ばすと大きく息を吸った。


 そうして初めて耳にした賢者の歌声があまりに美しくて、奏でるハープの音色が思わず潤むように甘ったるくなった。それを感じ取ったらしい吟遊詩人がふっとこちらを見上げると、音楽に聴き入りながらも優しい目で微笑む。


 谷を渡る鐘の音のような声が、しかし鐘よりもずっと優しく木々の間を響いた。聞き慣れない流麗な響きの歌詞に、先程リファール語に翻訳して教えてもらった詩を重ね合わせながら聴く。そして聴きながら、歌詞の物語に合わせて音色を変えてゆく。



  愛した森はもうないけれど

  落ちる日差しの色は同じ

  嘆くことはない、私たちが森になる

  ここに新しく、小さな森を作ろう

  いずれ美しい木になって

  白い花を咲かせ

  番いの木との間に、金色の実をつけよう

  それがいずれ芽を出して

  きっと大きな森になる

  いつしかエルフがやってきて

  妖精の森になるだろう



 森を失ったエルフが地下に逃げ伸び、冷たい石の壁に囲まれながらも希望を捨てず、森を取り戻す夢を語る歌だ。


 そして優しくも切ない曲が三度目の繰り返しに入った頃、美しい木に姿を変えたエルフ達が、ほとんど見えないくらい僅かに星を纏い始めたのがわかった。それに目を奪われていると、光はだんだんと大きくなり、次第に周囲がきらきらとした光で一杯になって──そして、変化が訪れた。


 遺跡の壁が、天井の水晶が、さらさらと砂になって崩れていく。岩の割れるような乱暴な音ではない、砂時計の中を砂が滑るような幽かな音を立てながら、雨も風もない遺跡に穴が空き、次第に広がって、外に広がる美しい冬の森に繋がってゆくのだ。


 すると勇者がふらりと立ち上がって、背から抜いた聖剣をそっと地面に刺した。星と砂、そして雪が降る静かな木立の間に太陽のような金色の炎が広がって、風に紛れる僅かな淀みを消し去った。神域にも劣らない清浄な空気が、生まれたての小さなエルフの森を取り巻き、その誕生を祝福する。


 そして歌が……何度目の繰り返しだろうか? 再びフルフターニアの最後の夢を語り始めた時、ふっと星が消え、木々の葉や花が急速に枯れ始めた。花弁がはらはらと舞い、緑の葉が赤く色づき、すぐに茶色く乾いて、そして散ってゆく。木の下の仲間達が焦った顔をしたが、しかし魔法使いにはそれがちっとも悲しい出来事ではないことがわかっていた。


 ずっとずっと春のまま、時を止められていた木々が……ようやく眠りについた──


 目の前の枝を見ると、春に備えた小さな芽がたくさんついている。永遠に萎れない花を咲かせているばかりだった木立が時の流れる世界へ再び戻ったことで、冬に眠り、目覚めた春に恋をし、花の後に金色の実をつけて子を育てることを……数千年の時を超えて、ようやく許されたのだった。


 大きな森におなり──


 そう祈りを込めて最後の旋律を爪弾くと、そっと曲を終えた。歌い終えてまた恥ずかしくなってしまった様子の賢者に手を貸して、木を降りる。吟遊詩人が駆け寄って抱きついてくるのを、やわらかく抱きしめ返した。


 そしてそれを見つけたのは、ちょっぴり涙ぐんでいる勇者が聖剣を地面から引き抜いた時のことだった。眩しい金色の炎が消えると曇り空の森は薄闇に包まれたが、少し薄暗くなったおかげで、勇者が立っているすぐ先の崩れかけた壁から、淡い夕焼け色の光がこぼれているのが見えたのだ。


 魔法使いと同じくそれに目を留めた勇者が近づくと、その瞬間に壁はほろりと崩れて砂になり、中から何かキラキラしたものがこぼれ落ちた。反射的に勇者がそれを受け止め、手のひらに転がったそれを見つめて目を丸くする。


「これ……オリハルコンだ」

 水晶のように透明なのに銅のように赤く輝く不思議な鉱物の結晶が、勇者の手に握られていた。驚いた皆がそれに注目し、そして顔を上げると、それが埋まっていた遺跡の壁は跡形もなく砂に変わってしまっている。


「……神からの、贈り物でしょうか」

 沈黙の末に、神官がぽつりと言った。

「聖剣を鍛えたという……地上の光にして創造主たる最高神と、神々の母たる闇の女神が、剣を短くしてしまったあなたに贈り物をくださったのですよ……きっと」

 最高神が人に干渉するなんて聞いたことがないと神官がどこかぼんやりとした様子で感動していると、綺麗な石を困り顔で握った勇者がぼそりと言った。


「いや……これ、俺にじゃないだろ」


「え?」

 皆が首を傾げるのに、勇者が苦笑を返した。

「だって俺達、追おうと思えばあのカラスを追えるだろ? つまりさ……あの欠片はもうカラスに渡してやれっていう、神からの啓示じゃないのか?」


 それを聞いた吟遊詩人が吹き出して笑い出し、静かに眠る小さな森の中になんとも言えない空気が漂った。が、魔法使いは勇者のその言葉を聞いて、何かとてもあたたかいもので心が満たされるのを感じていた。


 優しい神様なんだ。


 そう、はっきりと感じ取れた。カラスの見つけた宝物を大事にしてくれるような神様が見守っている旅路なら、なんだか、悪いようにはならない気がした。





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