六 ラガ



 薄暗い工房を出ると丁度昼過ぎで、山頂に辿り着く頃には夕暮れ時になりそうだった。夕日の女神の神域は夕方に訪れるのが最も相応しいので、野営が難しいようであれば夜の下山も覚悟しつつ登ることにする。植生が少なく視界は良好なので、魔法で照らせば真夜中でも歩けそうだった。


 岩山は進めば進むほど急勾配になってきていたが、勇者はむしろ登るほどに力がみなぎってくるような心地がしていた。歩き慣れない地形で早々にへばった神官を背負っていても、信じられないくらい足取りが軽く感じる。あたたかい魔力の気配が強くなるのに比例して空気中の淀みが消えてゆき、そして標高が高くなっているのにも関わらず、次第に気温が上がり始めた。


 空がすうっと暗くなり、薄紫色になり、そして燃えるような橙色に輝き始めた。時間としてもそろそろ夕焼けが見られる頃合いだが、勇者にはそれが、決して昇りも沈みもしない神域の夕日なのだとなぜかはっきりわかった。その光は眩しいのに目が離せない不思議な魅力に満ちていて、気温はすっかり、からりと暑い夏のものになっている。


「煙は? 外から見たときはあったのに」

 吟遊詩人が、恐れるように言って隣の賢者を見上げた。確かに言われてみれば、見上げた山の頂上はぼうっと赤く輝いているだけで、もくもくと吹き出していた灰色の煙が見当たらない。


 少し息切れしている賢者は立ち止まって息を整え、水袋の中身を飲み干してから腕を組んだ。神官が勇者の背から手を伸ばし、琥珀色の袋をきゅっと握って冷たい水を補充する。

「煙だけでなく……先程まで漂っていた硫黄の臭気も感じない。気の神域が常に夜なのは光が遮られていると捉えることもできるが、真夜中でも夕日に照らされる火の神域の場合、それでは説明がつかぬ。ある種の異空間と捉えるのが自然だな」


「妖精の国のような感じですか?」

 それにしてははっきりとした入り口がありませんでしたね、と重くなった水袋を差し出しながら神官が言うと、賢者がそれを受け取りながら首を振った。

「いや、あくまでも神域は神域なのだろう。神域とは、天の国ではなくこの地上にあるからこそ意味のあるものだ。別世界がここに顕現しているのではなく、この世界自体を天の国に近いような異質なものに変えているのが聖泉や聖炎の力であると、私はそう考えている」


「それ、素敵ですね」

 神官がにっこりして、魔法使いが「ルーフルー、素敵」と言いながら少し指先をもじもじさせた。妖精の言葉に少したじろいだ賢者が、さっと背を向けて「行くぞ」と低く言う。それを見てこの上なく楽しそうにニヤッとした吟遊詩人が、小走りに賢者の前に回り込んで顔を覗き込み「あっ、恥ずかしそうな顔してる!」と大きな声で言って引っ叩かれた。


 そうしてたどり着いた神域の中央は、まさしく火の女神の領域といった感じがした。


 おそるおそる覗き込んだ火口の中は、冷えて固まりかけているのか、紫がかった黒い作りかけの岩のようなもので覆われている。そこにいくつも地割れのような亀裂が走っていて、赤く縁取られた黄色い光が吹き出していた。黄色い光の中では、沈む太陽を直接見た時のように眩しく輝く溶岩が、まるで水のように小さくしぶきを上げながら揺れ動いている。


 そして、その上に聖炎ラガがあった。宙に浮かぶ巨大な炎が──例えばこれが樹木の梢なら、樹齢何千年だろうというような大きな炎が、まるで火の女神そのもののように荘厳な熱気を漂わせながら燃えていた。


 あまりにも美しい深紅なので、勇者はそれを花の色のようだと思った。炎の大きさと神域の清浄な空気に圧倒されているからだろうか、今までに見た何よりも不思議な光景に感じる。


「……こんな色の薔薇があったら素敵だね」

 魔法使いがぽつりと言った。それを聞いた賢者がふうむと腕を組み、おそらく品種改良についての思案を始める。溶岩の立てるしぶきの音と、炎が燃えるかすかなぼうぼうという音が、夕焼けの世界の中に静かに響いている。


「熱気だけで火傷しそうなものですが、火持ちの勇者以外でも熱さが少しも痛くないのは、火の女神の司る守護の力のおかげです。火の神域はね、他と違って悪意を持ったものが立ち入れば、たちまち体が燃え上がって灰になってしまうと言われています。そのくらいフランヴェール神は強く荒々しいお方で、そしてその強さでもって大切なものを守ってくださる神なのですよ」

「そっか……」

 神官の言葉を神妙に聞いていると、後ろから静かな魔法使いの声がした。

「そんな神様だから……仲間を大切にする暴れ狼の針葉樹がお気に入りなのだね」

「おい、暴れ狼って──お前、それは」


「かわいいね」

 あんまりな言い様に振り返ると、座り込んだ妖精の周りに不思議な動物がもこもこと集まっていた。地面を覆う溶岩と同じ黒い毛並みをした小柄な狐なのだが、ふさふさとした尻尾が赤く燃えている。丁度、黒霊馬こくれいばの尾がもやもやしているのと似たような感じで、どこまでが毛でどこからが炎なのかわからないような見た目だ。

「そいつら、バッラヴァーダだろ」

 本物だ……と思いながら勇者が言うと、魔法使いがこてんと首を横に倒した。

「……ん? きつねだね」


 すると、賢者が少し考えを巡らせながら言った。

「バッラ、ヴァーダ……はアサの訛りであろうな。パラファーナ、或いは火狐と呼ばれる幻獣の一種だ。火の女神の使いであると考えられている」

「あ! もしかして勇者がいつも作ってる木彫りの狐ってこの子達なんでしょう! あの尻尾の形、毛並みじゃなかったんだね」

 吟遊詩人がぱあっと笑顔になりながら言うと、魔法使いが「確かに」という感じの顔で一際小さい子狐を一匹抱き上げてしげしげと眺めた。炎がローブに燃え移りそうではらはらしたが、何か魔法を使っているのか妖精が火傷を負うことはなく、子狐も腕の中で気持ち良さそうに目を閉じている。


「き、きつねさん……こちらにいらっしゃい。尻尾を、尻尾をもっとよく見せてくださいな」

 神官が早速恍惚としたような目をして、一際大きな狐に向かって手招きをしている。狐は気の神域のミミズク達と同じ様子で警戒心が薄いらしく、素直に近寄って伸ばされた神官の手をくんくんとかぎ、大人しく頭を撫でられた。

「勇者、勇者見てください……よしよしできました!」

「……おう」


 嬉しそうな友に中途半端な笑みを返し、ひとまず休憩するかと地面に座る。するとあちこちの岩陰から様子を窺っていた狐たちがわらわらと集まってきて、遠慮なく勇者の匂いをかぎまくった。

「おい、だからそんなとこかぐなって……」

「犬の仲間だから、仕方ないね」

 魔法使いが重々しく頷いた。しばらく確かめれば満足すると言うので押し退けるのを止めてみたが、次々交代でかぎに来るばかりでちっとも終わりが見えない。もうどうにでもしてくれと大の字に横になると、五匹くらいに激しく顔を舐められて後悔した。しかしその時には既に胸の上に一匹座っていて動けない。


「服が燃えているぞ、勇者」

「えっ? うわ、ほんとだ! おい、お前ら退け!」

 賢者の声に慌てて立ち上がると、膝や胸の上から狐がころころと転がって、もこもこの群れの上に落下した。飛び掛かられたと思ったらしい下の狐が飛び掛かり返し、それに周囲の狐が応戦して、すぐに神域の中はそこらじゅう走り回って暴れるもこもこだらけになる。


「元気だね……」

 魔法使いが圧倒されたように周囲を見回し、座ったままじわじわと移動してそっと賢者に寄り添った。肩に寄り掛かられた賢者は困った顔をしたが、ぼそりと小さく「重い」と言っただけで、あとは黙ってそっぽを向いている。それをうんうんと頷きながら眺めた吟遊詩人が、ふと勇者の方を見て苦笑した。


「勇者ってさ……ここで瞑想するつもりなんだよね?」

「……そうだな」

 少年と同じ苦笑いになって、はしゃいで駆け回る狐達を見ながら腕を組む。そうしている間にも前を見ずに跳ねた一匹が勇者のふくらはぎに激突し、「何だお前」という顔で軽く咬みついてから、勇者の顔を見上げて遊ぼう遊ぼうという顔で耳をピンと立てる。試しに地面に胡座あぐらをかいて目を閉じてみたが、すかさず数匹が膝に乗ったり背中に飛び乗ったりして、少しすると服が焦げる匂いが漂ってきた。


「無理じゃないかなあ……」

「うーん……」

 目を開けて、煙を上げる服をはたきながら唸る。


「確かに、幸せになってしまいますものね」

「いや……まあ、おう」

 ニコニコしている神官に呆れつつ、魔法使いに「こいつら集められないか?」と尋ねた。すると動物に好かれるエルフが小さく腕を広げて「……おいで」と囁き、その声に反応した狐達が一斉に少し怯えている魔法使いの膝へ殺到した。彼はあっという間に狐の中に埋もれて見えなくなり、奥の方から「た、たすけて……」と聞こえてくる。


「……ちょっと可哀想か?」

「勇者の服を燃えないようにしたら良いのではありませんか? 水を浴びせ続けるくらいなら私がお手伝いしますよ」

「うーん……」

 それはそれで集中できないと思いながら迷っていると、神官が「試してみましょうか」と言って勇者の頭からばしゃりと水をぶちまけた。勇者は「おい……」と唸って容赦のない仲間を少しだけ睨んだが、幸か不幸か、魔法使いの方から何匹か戻ってきていた狐が濡れるのを嫌がって逃げてゆく。


「……そもそもさ、魔法の練習するのに本当に神域で瞑想する必要あるの? 少なくとも月の塔じゃ聞いたことないけど」

「お前……そういうことはもう少し早く言えよ」

 びしょ濡れの髪をかき上げながら言うと、いつもと違って赤の割合の方が多いくらいに翅を燃え立たせた吟遊詩人がけらけらと笑った。その緑の瞳の中にも一瞬鮮やかな夕焼け色が混ざった気がして勇者が目を丸くすると、フェアリが「何だよ……じっと見て」と居心地悪そうにする。


「いや、目の色がさ」

「おやまあ、本当ですね」

 角度によってひらりと見えたり隠れたりするのが、宝石の中に炎を閉じ込めているようだ。神官も気づいたらしくまじまじと見つめて「神域に触れて、少し炎の祝福が強まったようです。吟遊詩人は旅に出てから、随分と勇敢になりましたからね」と言う。


「えっ、それ本当? フランヴェールさま、ありがと!」

 ぱあっと花のような笑顔になった吟遊詩人が翅をひらひらさせながら聖炎を振り返り、偶然だろうが、炎がそれに応えるようにゆらりと揺れた。緑柱石の妖精フィルルはそのままキャッキャとはしゃぎながら狐達と追いかけっこを始めたが、しばらくしてふと我に帰り、帽子を目深に引き下ろすと、なんとかもこもこから抜け出した魔法使いの隣に丸まって動かなくなった。


「……こんな風に、聖域では神との距離が少しだけ縮まって、祝福を得る切っ掛けを頂けたりします」

 はしゃぐ吟遊詩人を可愛くてたまらないという顔で見ていた神官が、勇者を振り返ると優しい声で言った。

「瞑想というより……神域で祈る時間を持つことは意味のあることだと私は思いますよ。魔力、即ち神から頂いた力は、神に使い方を教わるのが一番良いですからね。あなたは特に感覚派ですし、大きな火の気配に触れて、強い炎とは何なのか感じ取ると良いでしょう」


 それを聞いた勇者は背筋を伸ばしてわくわくしながら「そうか、それもそうだな!」声を弾ませた。しかし早速始めようと地面に座り込むと、賢者が「明日にしなさい。今日はもう下山するぞ」と声を上げる。

「……あったかいし、食べ物はある程度あるし、ここに泊まればいいんじゃないか?」

 まだ帰りたくなくてそう言うと、賢者が「眠っている間に何もかも燃やされるぞ」と冷たい目で狐達の方を見る。そう言う賢者もチュニックの裾あたりが少し焦げていて、どうやら勇者が見ていない間に膝に乗せて可愛がっていたらしい。


「確かにな……でも、気をつけてれば」

「狐さんがふわふわの尻尾を寄せてきたら、私、絶対に無抵抗で燃やされてしまいます……」

「よし、帰ろう」

 きっぱりと頷いて、荷物を肩に掛けると神官を背負った。おそらく神域の外はもう暗くなり始めている時間帯で、こいつが転ばないよう安全に下りられる速さで歩いていたら、真夜中を過ぎてしまう。


「魔法使い、少し急ぐから賢者が転ばないように見てろ」

 そう声を掛けると、耳をふわっと持ち上げたエルフがすかさず賢者の手を取る。気難しい学者は勇者の視線を気にしながらその手を引っ込めようとしたが、引っ張っても抜けないことに気づいて深々とため息をつき、そのまま歩き出す。


 以前なら怖い顔で「離しなさい」と脅しつけていたところを簡単に諦めるようになっているが、本人は気づいていないようだった。





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