二 狩りと野営 後編



 勇者はまだ疲れ切った様子の神官を抱えて木立の方へ行くと、先に枝へ登らせていた吟遊詩人の隣にひょいと持ち上げて座らせた。


「登れそうならもう少し上まで登っとけ。いいか、今は俺がいるからここに避難させてるが、もし俺がいない時に遭遇したらこれじゃだめだからな。熊は木に登れる」

「……わかりました」

「ねえ勇者、熊じゃないよ? 魔熊バラグだよ? ちゃんとわかってるよね?」

「はは、わかってるわかってる」


 かなり身軽なのか、気づいた時にはもう木の上にいた魔法使いが賢者を引き上げるのを見届けると、勇者は背からシャリンと心地良い音を立てて聖剣を引き抜いた。

「最初から剣ってのは不思議な感じだが、やっと切れ味を試せるな。よし、いつでも来い」


 藪を突き破って突進して来たバラグは、黒い巨体がぶれて見えるほどの速度を出していた。こいつは普通の熊と違って慎重に様子を窺ったり、悠長に威嚇したりなんかしない。魔獣はあっという間に片手に剣をぶら下げている勇者に肉薄すると、立ち止まる間すら惜しむ勢いで前足を振り上げた。そうやって出会い頭に強力な爪の一撃で引き倒し、喉元を食い破るのだ。


 しかし猛々しいその動作も、慣れた狩人にとっては全く隙だらけだった。


「よっ……と!」


 勇者はガラ空きになった胸元に向かって片脚を上げると体を捻り、爪が振り下ろされる直前の一瞬を突いて顎の下を蹴り上げた。バラグはひっくり返りこそしなかったものの後脚で立ち上がってよろめき、今度は胴が無防備に彼の目の前へと晒される。


 瞬時に剣を構えて身を低くした勇者が、魔獣の腹部へと凄まじい勢いで聖剣を振り抜いた。初めて扱うのに妙に手に馴染む長剣は軽々と魔獣の肉を断ち、血飛沫を生み出しながら──


「あれっ?」


 何の抵抗もなく巨大な熊型の魔獣を一刀両断にした。上下二つに分かれたそれが、背後でゆっくりと命を失ってバラバラに崩れ落ちる。


「何だ、この切れ味……」


 しかし、勇者はそんな魔獣の最期を見もしない。彼はビュッと空を切って剣の血を払うと、まじまじとその不思議に透き通った赤金色の剣身を眺めていた。彼にとって魔獣狩りはごく当たり前の日常の一部で、剣の性能に驚きこそすれ、屠ったこと自体には特に感慨もないのだ。


 しかし、その背後の皆はそう易々といかなかった。


「──ルシナル!」

 神官の焦った声に勇者が驚いて振り返ると、なんと、思ったよりも高いところまで登っていた吟遊詩人がマントを掴もうとした神官の手をすり抜け、木から落っこちている真っ最中だったのだ。


「おいっ……!」

 生まれて初めて、勇者は限界まで脚に力を入れた。聖剣を投げ捨て、その場から消える勢いで木の下へ飛び込むと、ドンと木の幹に片足をついて体を止め、降ってきた小柄な少年をどさりと受け止める。


「ああ、びっくりした……良かった、間に合った……」

 顔を真っ青にして肩で息をしていると「勇者……」と頭上から神官の泣きそうに安堵した声が聞こえた。


「おい、どうした? 吟遊詩人?」

 腕の中の吟遊詩人はすっかり気を失っているようだったが、しかし心配になって声をかけながら覗き込んだその時、賢者の鋭い声が耳に飛び込んだ。

「勇者! 木を支えなさい!」


 ハッと顔を上げると、勇者が足をついた木が根元からみしみしと折れ、枝に神官を乗せたままゆっくりと倒れようとしていた。

「う、わっ! 神官っ!」

「あ、勇者、どうしましょう……!」


 勇者は慌てふためいたが両腕は気絶した吟遊詩人で塞がっており、聖剣と違って放り出せないそれが更に焦りを加速させ、彼は先程の勇猛さが嘘のようにわたわたとその場で足踏みをした。

 しかし勇者が動転のあまり、もう自分が背中で受け止めようと足を踏み出しかけたその時──隣の木の枝で事態を見守っていたエルフがぴょんと倒れゆく木へと飛び移ったので、それを見上げた彼はぎょっとして息を止めた。


 きらめく髪を風になびかせた魔法使いに必死さは微塵も感じられない。妖精はぼんやりした無表情のまま斜めになった木の幹を軽い身のこなしで駆け上がると、幹にしがみついて青くなっている神官を引き剥がして腰を支え、バランスを取りながら地面が近くなるのを待って、何事もなかったかのようにストンと地面へ飛び降りた。


「ま、魔法使い……」

 勇者と神官の力の抜けた声が重なった。

「ん……びっくりしたね」

 優しい囁き声を聞いて更に力が抜けた二人は、よろよろと地面にへたり込んだのだった。


 さて、それから少ししてわかったことだが、吟遊詩人が木の上で気絶してしまった原因はどうやら勇者にあるようだった。恐ろしく便利な浄化のわざでもって周囲一帯の血を清めた頃に目を覚ました吟遊詩人が、川辺で魔獣の肉を捌いている勇者に呪布で隠れた視線を合わせると、途端にふらっと額を青くして地面に崩れ落ちる。


「お、おい、どうした」

「……ごめん、僕、そういうの見ていられなくて」


 消え入りそうに儚い声に勇者は一瞬考え込んだが、次の瞬間には飛び上がる勢いで立ち上がってバラグの死体を担ぎ上げた。

「悪い、これが怖いのか! 向こうでやってくるな!」

「ごめんね勇者、甘いこと言って……」

「いや、いいから! いいから俺が向こうに行くまであっち向いとけ!」


 野営地から見えない岩陰で手早く獲物を処理した勇者は、おそるおそる食べる分の肉と腹から出てきた魔石を抱えて戻り、そこまで捌いてあれば怖くないらしい少年の様子にほっと胸を撫で下ろした。

「ごめんな吟遊詩人、あんな仕留め方して怖かったよな。次からは見ないようにしてていいから」


 やはり目隠しをしていると可憐な少女に見える吟遊詩人に肩を落として声をかければ、革の鞄からリュートを引っ張り出している吟遊詩人が力なく首を振った。

「いや、これは僕が悪いよ。こんな感じだから実家だと全然護衛の手伝いとかできなくてさ、昔からわりと役立たずっていうか……もう少し強くなれたらいいんだけど、頑張っても全然慣れなくて……」

「いや、何言ってるんだ、別に……怖いものは怖くたっていいだろ、俺がいるんだから」


 自信を持たせてやりたいのに全く良い言葉が思いつかずに困っていると、吟遊詩人はふふ、と楽しげな声を作って笑った。

「大丈夫だよ、勇者が僕のこと役立たずなんて全然思ってないのはちゃんとわかってるから」

「ならいいが……神官、お前も箱入りっぽいが、怖かったらちゃんと言えよ?」

「おや、私は大丈夫ですよ。こんなですが、医師でもありますからね」

 そう言って神官は微笑むと、吟遊詩人の頭を撫でた。


「だから、あなたが目を閉じていたい時は私が代わりに見ていて差し上げます。それでも十分、吟遊詩人には吟遊詩人にしか見えないものがたくさんありますからね。そういうところで我々を助けてくだされば良いのですよ。それにあなたは芸術家なのですから、心が特別繊細にできていたって何の不思議もありません」

「うん……ありがと」


 少年が少し切なそうに微笑むと、なにやら難しい顔で焚き火の方をじっと見ていた賢者も顔を上げて言う。

「自ら試した上で慣れぬと判断したならば、無理に恐ろしいものを見るよりも距離の取り方を模索する方が良かろうな。慣らすにしても、神官の管理下で少しずつ行いなさい──ところで気になっていたのだが、そなたらは目の前で魔獣の肉が夕餉として着々と焼かれつつあることに抵抗はないのかね?」

「だから大丈夫だよ。美味いから一度食ってみろって」


 勇者が腕を組んでいつまでも渋る賢者に文句を言っていると、意外にも神官がふんわりと優しい顔で微笑んだ。

「最初は私も驚きましたが……魔獣とて一つの命です。襲ってくるものを殺めてしまうのは仕方がないとしても、食べられるというのなら食べてその死が次の命へと繋がるように……したいと思いますね」

「見た感じわりと美味しそうだしね。焼ける匂いも案外獣臭くないし」


 賢者は新たな食に肯定的な面々の顔を見回すと、弱々しくため息をついて妖精が差し出す焼き立ての肉を受け取り、木の枝に刺されたそれに慣れない仕草で歯を立て──そして不思議そうに眉をひそめると齧りついたままそれをぐいと引っ張った。


「──っっった! 何これ、全く噛み切れる気がしないんだけど!」

 吟遊詩人までもが噛みついた肉から顎を離して驚いた声を上げたので、勇者は首を傾げてもう一口食べた。別にいつも通りだ。


「……そうか? そんなでもないだろ」

「いやいやいや、だからどんだけ顎強いの勇者。嘘、もう半分近く食べてるし……」

「魔法使いお前、肉の焼き方も恐ろしく上手いんだな。こんなに柔らかく肉汁も逃さないで仕上がってるのは初めてだよ。ほら、お前も食ってみろって」

「エルフは草食だぞ、勇者」

「『柔らかく仕上がってる』? これが?」

「……次は、シチューに入れて煮込もうね……」

「煮込んだくらいで柔らかくなります?」

「時間をかければ……たぶん」


 勇者はどうやら柔らかいパンばかり食べてきたらしい都会っ子達を見回して「困ったな」と頭をかくと、彼らに何を食べさせたら良いのか首を捻って考え込んだ。


「んー、まあどうしても硬いならひと月くらい熟成させると柔らかくなるかもしれんが、旅の間は難しいよな。その辺の兎とかと違って野生動物の中じゃ魔獣は比較的食べやすいと思ってたんだが……じゃあ何を獲ったらいいかな」

「いや、勇者の村の兎ってどんだけ硬いっていうか、それたぶん兎じゃないよ……この辺にいる普通の動物は熟成させなくてもそれなりに食べられるって……」

「といいますか、勇者にとって魔獣は獲物のうちなんですね……」

「獲物だろ、食えるんだから」

「そっかあ、流石バンデッラーだね……魔獣を一撃で仕留めてたもんね……」


 そうして、一日目の楽しい夜は更けていった。マントに包まって横になると、すぐ近くに仲間の気配を感じて勇者は微笑んだ。誰かと一緒に寝るなんて何年ぶりだろうか、風の音に紛れる小さな寝息を聞いていると、幼い頃、狩人だった母と森で過ごした夜を思い出した。


 狼の愛した家族はもう帰ってこないが、勇者にはもう家族と同じくらい大切にできる仲間ができた。その幸せを噛み締めながら眠った夜は、春の陽だまりのようにあたたかい夢を見た。





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