第二章 大穴

一 狩りと野営 前編



 勇んで旅立ったは良いものの、何日も何日もただ森の中をひたすらに歩き続け──という風にはいかなかった。


「あっ!」

「おい、大丈夫か」

 木の根に躓いた神官がぺしゃりと転んだ。もう三度目だ。


「ほら、ちゃんと下見て歩け」

「そう思って下を見ていたら、先ほど蜘蛛の巣に引っかかったじゃありませんか……」

「上も見るんだよ」

「無理を仰らないでください、下を見ているときは下しか見えません」


 勇者は顎に手を当てて「うーん……」と考え込むと、無理無理と首を振る男に少し屈んで視線の高さを合わせ、茂みの向こうに咲いている花を指差した。

「あのな、たぶん視点が近いからそうなるんだ。もうちょっと先を見るんだよ。ほら、ここからだとあの青っぽい花が咲いてるあたりだ」

「えっ、そんなに遠くを見ていたら足元は」

「視界の端にはちゃんと映ってる。意識だけ張り巡らせとくんだ。何か落ちてたりデコボコがあったりするときだけ、ちらっと下を見ればいいだろ」


「……勇者って、意外と教えるの上手だよね」

 リュートを背負った吟遊詩人が感心したように頷いたが、困り顔の神官に目を遣ると「でも」と言って苦笑した。

「疲れたんでしょ、ちょっと足がもつれてきてるよね。少し休憩する?」


 とても親切な気遣いだったが、しかしそれには勇者が首を振った。

「いや、このままゆっくり川の方まで下ろう。今日はそのまま野営にするから、そこまで頑張れ。一度座ると却ってきつくなる」

「は、はい」

「よし、じゃあ神官は僕の手を握りなよ。ちょっとは歩きやすくなるよ」

「ありがとうございます……すみません、足を引っ張ってしまって」


 川の流れる音に向かって方向を変えた勇者を申し訳なさそうに見る神官が面白くて、少し笑った。こうして共に歩くだけでどれだけ彼が楽しいと思っているか、こいつは全くわかっていない。

「いや、別にどこも引っ張られちゃいないが、お前は痩せすぎなんだよ。まあ美味いものたくさん食べて歩いてれば嫌でも強くなるさ」

「旅に出て今日は初めての野営だって時に、美味しいものいっぱい食べる気満々なのがいいよね……ほら、神官」

 吟遊詩人が差し出した手を神官がよろよろと握る。勇者は気の利く少年に感謝の頷きをひとつ投げると、藪を踏みつけ、小振りの鉈で枝を切り払って道を作る作業に戻った。


 塔からはよく手入れされた綺麗な小道が森を通って伸びていたのだが、彼らはそれを外れて奥へ奥へと分け入り、道なき森に道を刻みながら進んでいたのだった。

 木の丈も低くシダも生い茂っていない明るい森は勇者にとって野原と大差なかったが、ただどう考えても神官は整った道を歩かせた方が良かったろうにと彼は疑問に思って賢者を振り返った。背筋がぞっと凍るほど漆黒のマントが似合っている男は、塔の中では持っていなかった杖を、しかもいかにもな感じに先がくるりとなった長い木の杖をついていて、見る度に気持ちが盛り上がる。


「なあ、なんでわざわざこんな道のないところを進むんだ?」

 返答は実に簡潔だった。

「あの小道の先は神殿へ繋がっている」

「……なるほどな」


 そういえば塔の窓から神殿が見えたのを思い出して勇者が呻くと、その声を疲労と取り違えたらしい吟遊詩人が気遣わしげに言った。

「あ、道作るの疲れたよね? 交代しようか。勇者ほど上手くはできないと思うけど……」


 仲間の中で最も小柄で華奢な少年は思ったよりも森を歩くのに慣れているようだったが、流石にそこまでさせれば早々にへばるだろうと、勇者はあれこれ気に掛けてばかりの彼へ心配ないと笑った。


「いや、大丈夫だ。このくらいなら三日は保つ」

「三日、って……まさかぶっ続けで三日とか言わないよね?」

「まさか。流石に俺でも水くらい飲むよ」

「ええと、それはちょっと体力ありすぎじゃないかな……あっ! 神官そこ」

「あっ」

「……大丈夫か」


 大人になるまで一度も森を歩いたことがないと、こうまで不器用な人間になるのか……。


 勇者はそう思いながら、手のひらに少し深い切り傷を作ってしまった神官を眺めて頬をかいた。確かに獣道もない森の中だが、大きな枝は勇者がどかしているし、大した斜面でもなければ雨で滑るわけでもない。彼からしてみれば何もない平坦な場所で次から次へと躓き、転び、かと思えば頭上の蔓草に頭を突っ込む。


「……吟遊詩人は、結構慣れた歩き方するよな」

「あ、うん。僕の住んでた集落も森に囲まれてるから、木苺を摘みに出かけたりしてたんだよね。月の塔の人達のお世話をしてる一族なんだ」

「月の塔?」

「月の塔は、僕の……家?」


 最後尾をのんびりと、しかし人間とは一線を画する不思議な歩き方をしていた魔法使いが少し近寄ってきて首を傾げた。足の運び自体はむしろ優雅で特に変わったこともしていないのだが──勇者の歩みを器用で力強いと称するならば、彼はなぜだか木々や草花が自ら道を開けているような、何の障害も──ついでに体重も感じさせないふわふわとした様子に見えてしまうのだった。


「──月の塔とは、魔法の使い手のための研究施設だ。この国の魔術師や魔法使いのほとんどがこの塔に所属し、国の支援を得て日々研究に明け暮れている」

 賢者の補足に頷くと、吟遊詩人は少し苦笑いになって言葉を付け加えた。

「ルーウェンはエルフだからかあんまりそんな感じしないけどさ、魔術師とか魔法使いのおじさん達ってすぐ寝食忘れるし、とにかく研究研究ってなんにも周りが見えてない人ばっかりで……衣食の世話とか護衛とかする人が必要なんだよね」


 その様子は確かに研究者っぽいなと思って頷いていると、魔法使いがどこか自慢げに耳をピンとさせて囁いた。

「お昼寝は……絶対、忘れない」

「そういえば昼食の後も寝てたよな、お前……じゃあもしかして、魔法使いと吟遊詩人は元から知り合いなのか?」

「ううん。遠くから顔は見たことあったけど、話したことはないよ。白ローブには族長と腕の立つ護衛役しか会えないんだ」

 だから最初はちょっと緊張したかな、と笑う少年が目隠しをしたままひょいと細い倒木を飛び越える様子は、事情がわかっていてもまだ曲芸を見ているような不思議な感じに見える。


「……何度か聞いた言葉だが、魔法使いが白いローブを着てたのって、なんか凄いことなのか?」

 少し前から気になっていた勇者の問いかけに、吟遊詩人が「わかってないなあ」といった様子で首を振る。

「凄いなんてもんじゃないよ。月の白はね、国の宝なの。特別な魔法を使える大魔法使いばかりで、一歩塔を出るにも厳重に護衛をつけないといけないんだよ」

 思ったよりも大仰な答えが返ってきて、勇者は驚いて昼寝が日課らしい妖精へと目を向けた。

「ほんとかよ……お前凄い奴だったんだな、魔法使い」


 勇者は尊敬の眼差しになって、まあただならぬ雰囲気だけは存分に持ち合わせているエルフを見つめた。が、しかし魔法使いは謙遜なのか緩やかに首を振ると、通り過ぎざまに目の前に下がっている木の枝から小さな赤い実を摘み取りつつ「僕が、白ローブになったのはね」と呟く。


「見張りをつけておかないと……森に遊びに行ったまま、帰ってこないからって……塔の長が言ってた」

「……んん?」


 魔法使いはふわっと隣を振り返ると摘んだばかりの木の実を賢者の手に握らせ、小さく頷いて再びくるりと向きを変えると、何を見ているのか歩きながら少し背伸びをして木立の向こうを覗き込んだ。賢者は手のひらに乗せられた赤い実をじっと眉をひそめて見下ろしていたが、捨てるのも悪いと思ったのか迷惑そうな顔で腰の革袋にコロリと放り込み、ため息をつく。


「妖精さん、に……懐かれて、いますね……賢者」

「……流石に息が切れすぎではないかね?」


 歩けば歩くほどぜいぜいと歩みが遅くなってゆく神官を見て立ち止まると、賢者は闇の瞳をすっと細めて手の中の杖をぐいと彼に押しつけた。しかし神官は思わず受け取ってしまったそれを弱々しく差し出しながら首を振る。

「これは……ナナカマドでしょう? あなたの魔術の媒介になる……大切なものではないのですか」


 神官が息も絶え絶え「私は……まだ歩けますから」と言うと、賢者は折れそうに痩せた手が握る杖を見ながら軽く眉を上げた。

「いや。森を歩く際、体を支えるために持ってきた」


「そ、そうなんですか……?」

「それ本当? 僕もてっきり魔法の杖だと思ってたよ……」

 吟遊詩人が意表を突かれた顔で口を挟む。勇者もそれには同感だった──というか、いかにも魔術師が持っていそうな感じの長い杖に内心期待していたので、魔法の杖ではなくてかなりがっかりした。


「足場が悪かろうと思ってな」

「でもそれでは、あなたが疲れてしまいますでしょう……」

「どう見ても、そなたよりは遥かにましだと思うが」

 片足に体重をかけて軽い動作で腕を組んだ賢者を眺め、神官が迷うように瞳を揺らす。


「いや……その様子だと、たぶん杖くらいじゃきついだろ。野営できる場所まで背負ってやるよ……」

「え、なんで勇者がちょっと元気ない感じになってるの?」

 不可解そうな吟遊詩人の言葉に、勇者は胸に溜まった息をふうとこぼす。

「俺も、魔法の杖だと思ってたから……」

「うそ、そんな可愛い理由で落ち込んでるの……?」


 そんなやり取りをしているうちに、神官は心を決めたようだった。

「あの、流石に背負っていただくわけには参りません。賢者、杖をお借りしてもいいですか?」

「どうぞ、お好きなだけ」

 鼻で笑いながら丁寧に手のひらで杖を指した賢者は、興味を失ったようにふいと前を向いて歩き出す。そこから少しで辿り着いた川辺は風が爽やかで、焚き火をするにも丁度良さそうだった。


「とりあえずお前は休んでろ、神官。水袋の中身がなくなっても川の水はそのまま飲むなよ。一度煮沸してやるから少し待て」

「……いえ、それには及びません」

 勇者が森から運んできた倒木にぐったりと寄りかかったまま、神官が腰から水袋を外して口のあたりをきゅっと握る。すると手の中が淡く水色に光って、ぽちゃんという音と共に細く萎んでいた袋が重く膨らんだ。


「……何だ、それ」

「……水の神官ですから、癒しと浄化以外にも……はあ、綺麗な飲み水を出すくらいなら、私も、お役に立てますよ」


 勇者の驚愕の視線に、神官弱々しく微笑むと革製の水袋の紐を解いて中から飴色がかった透明の袋をずるりと引っ張り出す。そして中に入った水が透き通っているのを示して「ほら、ちゃんと澄んでいますでしょう」と囁いた。


「いや……それ、旅をするには結構とんでもない能力だぞ。ただでさえあの浄化の術とかいうのも便利すぎるのに」

「……私の能力ではありません、神の力の、顕現……」

「あー、わかった。わかったからお前はもう寝てろ。その話は後で聞く」


 勇者はそう言って苦笑して見せてからくるりと踵を返してその場を離れた。そして木の陰に移動して自分の腰に下がっている水袋をじっと見下ろすと、編み上げてある紐を緩めて中身を引きずり出し、まじまじと見る。


「……なんだこれ?」


 つるつるしてぶよぶよしている、ガラスのように透き通った袋だ。勇者が村で使っていた金属製の水筒に比べて水袋とはえらく前時代的だなと思っていたが、どうやら彼の知っている動物の胃袋や膀胱を使ったものとは全く違うらしい。

「人工琥珀だ」

「は?」


 いつの間にか後ろに佇んでいた賢者を振り返って眉をひそめると、彼は続けて言った。

「合成樹脂の中でも、粘着性を持たぬものをそう呼ぶ」

「……え?」

 意味のわからない言葉の羅列にぽかんとすると、賢者は彼が理解できないのを想定していたのか、痩せた肩をひょいと竦めて言う。

「高度な魔導抽出が必要なため高価な素材だが、皮革と違って縫い目なく自由に造形でき、破れ目を塞ぐことも容易だ。また金属よりずっと比重が──いや、金属より軽い」


 そう言った賢者が勇者の手から水袋を取り上げ、薄っすらと表面に刻まれている紋様に指先を触れさせた。さあっと浅い溝に黒っぽい魔力が流れ、複雑な蔓草模様が浮かび上がる。

「この部分に浄化の顕現陣を仕込んである。魔力を流せば汲んだ水を浄化できる。そなたの場合は……ふっ」

 あからさまな嘲笑に少しだけムッとした顔を返す。

「ああ、また舐めろってか……それにしてもすごいな」


 奇妙な素材をまじまじと眺めている間に賢者はふらりと向こうへ行ってしまったので、勇者も水袋を仕舞い直して荷物を置いた方へ歩み寄った。しかしそこに感じた不思議な空気にはたと足を止める。そこには開けた川辺に深い森の気配をばら撒きながら、魔法使いが立ったままぼうっと雲を目で追っていて──そんな姿も鳥肌が立つほど美しいエルフは、なんとなく気圧されて黙り込んだ勇者を光を舞い散らせつつ振り返ると、ついっとしなやかな指で見上げていたのと全く違う方角を指差す。


 一体何だと思ったが、指先を追って見上げた勇者はその光景に目を奪われた。


「……塔が見えるよ、針葉樹」


 午後から少しずつ曇り始めていた西の空がすっと暗くなっている。少し不穏な気配がする風がざわざわと木々を揺らすなか、重く下がってくる黒い雲に届きそうな灰色の石の塔が森の向こうにそびえ立っていた。


 遠くで小さく雷の音が聞こえる。嵐の気配がするが、近づいてくる嵐ではなく、あれは遠ざかってゆく嵐だ。勇者はただ静かな思いでその激しさを含んだ空を眺め、そしてそんな光景に堅牢な静寂を添えている賢者の塔を眺めた。

 高い建物を見たことがなかった勇者にとってそれはとても不思議な景色だったが──しかしどんなに不思議でも、彼らの冒険はあそこから始まったのだ。


 傾いてきた日の方向から見当をつけて振り返ったが、対岸の梢に隠れてあの白亜の神殿は見えなかった。見えない神殿がそのまま姿の見えない敵を表しているように思え、勇者はその向こうを透かし見るように目を細める。


 さて、そうしてそのまましばらく森を眺めていた勇者だが、敵ばかり意識するにはこの川辺がどうにも清らかで、彼はいつの間にか川の流れる音に耳を傾け──そして夕食は魚にしようかなどと考え始めた頃、勇者はふと木立の向こうが見えているかのようにニヤリと笑ったのだった。


「……よし、夕の獲物はあいつにしよう。御誂え向きにこっちへ走ってくるし、魚より食べ応えがあるぞ」

 そして楽しげなその声に、木立の向こうを本当に見ることのできる吟遊詩人が、ずらした呪布に手を添えたまま呆然とこう言った。


「いや、あれ魔獣じゃん……」





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