番外編 狼を待つ仲間達 後編
初めての転移が賢者様と白のお方の術だなんて贅沢過ぎる、と思いながら吟遊詩人は月の塔の広間から賢者の塔へと飛んだ。
くらっとする浮遊感が引いて、呪布越しに眩しい光が見えなくなってから目を開ける。天井の高い本だらけの部屋が目に入って、そして目の前に転移の反対側を維持していた術者と思われる人が立っていた。たぶんこの人が「神官」のファーリアス猊下だ。
「──おかえりなさい、賢者。そして待っていましたよ、魔法使いに吟遊詩人」
折れそうに線の細い、物凄く優しそうなお兄さんだった。琥珀のようにほんのり甘い茶色の瞳をふわっと細め、声もまるで子守歌のようにとびきり柔らかくてあたたかい。吟遊詩人は一目でこの人と仲良くなりたくなって、思わず笑顔になった。
賢者も魔法使いもそれぞれ魅力的ではあったが、彼らはどちらかというと「怖いけれど憧れてしまう」という類の人達で、初対面で親しみを持つのは少し難しい。魔法使いも特別優しい性格ではあると思うのだが、いかんせんこの世のものならぬ妖精的な気配が強過ぎて、どこか近寄り難いのだ。その点彼は人間らしい柔らかな気配に満ちていて、見ているだけで安心する。
「吟遊詩人、です。よろしくね、神官」
目元は布で覆われているので口角をはっきり上げて微笑むと、神官もこちらに向き直って丁寧ににっこりした。いかにも聖職者らしい整えられた笑顔だが、それでもそこには演技や我慢が全く見えない。
「よろしくお願いします、吟遊詩人。やはり綺麗な声をしていますね」
「ありがとう」
挨拶を交わした後は軽く体調を確認され、吟遊詩人が元気だと分かると部屋を移動して紅茶を飲みながら色々な事情を教えてもらった。神殿がそこまでおかしな状態になっているとは露知らず、しかもこの神官が神殿の宝物庫に忍び込んで聖剣を盗み出してきたなんて想像もつかず、目隠しの下で目を白黒させる。
そしてここまで聞いてしまった以上はもう後戻りはできないと、吟遊詩人はそう思って小さく唇を噛んだ。神官が「不安にさせてしまいましたか」と眉を下げるのに首を振って、一度大きく息を吸って、吐く。
「僕……僕ね、血の呪い子なんだ。ねえ、そんな過酷になりそうな旅へ、僕を連れて行って大丈夫?」
「何かの病ですか」
優しそうな顔から真剣な医師の顔になって神官が問う。すると賢者が「鷲族の中でも血を恐れる気質の者だ」と口を挟んだ。
「呪い子って……どうしてそんな言い方を。人が血を恐れるのはごく自然な感情ですよ。私だって初めて重症患者の手術を見た時は貧血で倒れましたし、悪夢に魘されました」
「それでも、今は大丈夫なんでしょう? 血の呪い子はどんなに訓練しても、それにずっと慣れないんだ。僕だけはいつまで経っても執拗に血が流されるのを恐れるから、つまり怪我をさせるのが怖くて侵入者と戦ったりできないから、塔ではおじいちゃん達のお世話係だったんだ……ねえ、もしかして僕の従兄弟か誰かと勘違いしてない? 有能な鷲族の中でも音楽の才能がある子はいる。きっと僕じゃなくて──」
「いえ、そこは間違いありません」
吟遊詩人の言葉を遮って神官がきっぱり首を振った。しかし信じきれず、言葉を続ける。
「本当に? ねえ、神託ってどういう風に告げられるの? 顔かな、名前かな、その日その場所にいるって条件かな? 他に該当する子がいないか調べてみようよ。だって僕は忌み子で、役立たずで、仲間の傷の手当てだってろくにできない弱虫で、音楽だって──」
「お黙りなさい!」
神官が突然大きな声を出したので、びくっとして口をつぐむ。しかし魔法使いはそれ以上に驚いたらしく、息を呑むと椅子ごと後ろにひっくり返って床に倒れた。
「それ以上あなたが使命に相応しくないという発言をすれば、神への冒涜の罰として……晩御飯抜きにいたしますよ!」
「えっ、優しい」
思わず言いながら、怒った顔の神官と、ため息をついて涙目の妖精が起き上がるのに手を貸してやっている賢者を交互に見る。
「……僕でいいの?」
「あなたがいいんです。たとえ弱くとも、わかりやすく役に立つ人間でなくとも……あなたでなければならない理由があるからこそ、神はあなたを選ばれたのですよ、吟遊詩人」
「……うん」
それならどうにかなるかな、と吟遊詩人が少し前向きに微笑んだところで、話はひとまず終わりになった。どうやら肝心の勇者がまだ到着していないらしく、一人で転移の魔法陣を発現させられるだけの魔力を持った魔法使いが、この後もうすぐ彼を迎えに出るのだそうだ。その打ち合わせがあるからと食事の時間まで休むように言われ、旅立つまでの間自室として使っていいという部屋に案内された。
「綺麗な部屋だね……それに、大きな本棚」
狭いながらも漆喰の壁の風合いが美しく、ガラス窓から傾き始めた金色の日差しが差し込んでいた。壁いっぱいの本棚には半分ほど空きがあり、好きな本を持ってきて並べて良いと言われる。
「僕、文字読めない」
「画集の類は十八階だ」
さらっとそう返された。この人はどうか知らないが、歴代の賢者様は大抵叡智の神の神殿で、国一番の高等教育を受けてきている。
「……画集って何?」
「挿絵画家の作品集が多いな」
「……ええと」
「文字を読むのではなく絵を眺めるために作られた本だ。尋ねる前に自分で確かめなさい」
「は、はい」
厳しい教師のような声に背筋を伸ばしたが、賢者はそんな吟遊詩人の殊勝な態度になどまるで興味がなさそうに話を続ける。
「五階より下には降りるな。一階には商人や魔術師が出入りする場合があるが、どんな状況であれ、来訪者に存在を悟られてはならぬ。緊急事態と判断した場合は音を立てずに私を呼びなさい」
「うん……ちなみにこの塔って何階建てなの?」
上から下まで視線を巡らせながら尋ねてみる。月の塔に比べればとても小さいが、それでもかなりの高さはありそうだ。
「二十五階だ。ここは二十二階。屋上に温室、最上階に先程転移陣を置いた多目的広間、その下に研究室と実験室、更にその下三階分が個人の部屋や食堂、厨房、浴室などの生活空間になっている」
この真下が厨房と食堂で、その向かいに浴室や洗面所などの水回り関係が集まっているらしい。わざわざ高い場所に水を汲み上げるのは大変だろうにと思ったが、叡智の祝福持ち、つまりある程度魔力の強い賢者と賢者候補しか住む予定のないこの塔は、月の塔と同じように全てが魔導式なようだ。井戸もなければ上下水道もない。
賢者と別れた後そんな風に塔の中を見て回っている間に、勇者の村まで行商に行くという商人が塔を訪れて、休む間も無く魔法使いが旅立った。一階には降りるなと言われているので、見送りは神官と並んで階段のところからこっそり手を振るくらいだ。遠くに見えるやたら元気な声の男性はいかにも密命といった感じにフードで顔を隠していて、夜中に馬で山の陰まで行ってから別の乗り物に乗り換えるらしい。
もしかして有角馬の山岳馬車だろうかと考えて、吟遊詩人は心を躍らせた。山岳馬車は車輪の上に組み込まれたばねがどうとかで、かなりでこぼこした道でも進めるらしい。一度乗ってみたい憧れの乗り物だ。魔法使いが去った後、神官相手にそんな話をしながら画集を何冊か抱えて階段を上る。と、通りすがりに本棚をちらりと見た神官が立ち止まった。
「おや、楽譜はこの辺りみたいですよ。お部屋で読みます?」
「え、ああ、うん……何冊か借りて行こうかな」
にこっと作り笑いをして、薄そうなものをぱらぱらと捲ってから数冊選ぶ。そして再び上へとゆっくり歩きながら、「それ」をいつ言いだそうか考え始めた。
血の恐怖について比較的すんなり話せたのは、彼が戦士ではなく「吟遊詩人」だったからこそだ。それとは別にもっと大きな秘密を隠していた。彼は確かに歌が得意だが、楽譜も読めなければ楽器も一切できないのだ。少なくとも神官に役立たずと罵られることは無さそうだが、それでもやはり自分の無能さをこれ以上曝け出すのが恐ろしくて仕方がなかった。剣の仲間から追い出されることが怖いのではない。神官達はそんな事しないだろうが、しかし彼を受け入れつつも心の底で価値がないと思われるのが怖いのだ。
◇
そして夕食の後、吟遊詩人は広い浴槽をゆっくり楽しんでからふかふかの寝台に入ったが、真夜中になってもちっとも眠れなかった。彼がハープなんか触れたこともないと知ったら仲間達が何と言うか──優しく「大丈夫ですよ」と言いながら瞳の奥でひっそり落胆する神官を想像して震え、そして魔法使いが連れ帰ってくる勇者の人柄を想像してまた震えた。勇者というくらいなのだから勇敢な人なのだろう。怪我をした小鳥を見るだけでふらふらしてしまう吟遊詩人の弱さを知ったら、きっと軟弱者と蔑むだろう。役立たずだと思うだろう。果たして旅のなかで「吟遊詩人」に何ができるのかわからないが、彼はその吟遊詩人の仕事すら満足に遂行できないのだ。
でも、変わりたい──
そう考えて気力を絞り出した。寝台を抜け出して下の階へ降り、楽譜の読み方や楽器の始め方といった類の本をこっそり探す。何か絵が多くて、字が読めなくてもわかりそうな本。
するとすぐに頭上で扉の開く音がして、青白い光が見えた。見上げると賢者が回廊から身を乗り出してランタンを掲げており、吟遊詩人の姿を確認するとこちらへ下りてくる。
え、どうしよう……どうしよう、どうごまかせば──
そう考えて、そんな軟弱な自分を変えたかったのではないかと首を振った。正直に言おうと覚悟を決めて、賢者を待ち構える。
「……眠れぬのならば、薬草茶を調合するが」
思っていたのと全然違う言葉がかけられた。
「あ、え……ううん、大丈夫。一晩くらい寝なくても……」
「そうか。しかし飲んでおきなさい」
そう言って厨房の方へ歩いて行こうとするので、思わず焦って白状した。
「──僕、楽譜が読めないんだ! だから読み方の本、探してて。昼間神官に讃歌の楽譜を勧められたけど、読めないって言えなくて」
「……ふむ」
黒いガウンの裾を翻して賢者が振り返った。無言で吟遊詩人にランタンを渡し、向こうの方から梯子をスライドさせてくると、慣れた様子で登って上の方の本を何冊かパラパラ捲る。あっという間にひと抱え手に取って降りてくると、どさっと吟遊詩人に渡した。
「ある程度の字を知らねば読めぬだろうが、参考程度に眺めておきなさい。本格的な学習は旅路がある程度安定してからだ。今は忙しい」
ランタンの光に照らされても相変わらず光を吸い込んでいるように真っ黒な瞳は、全てを知っているようだった。
「賢者、僕……」
言葉が続かない。散々悩んだ挙句、小さな声で「みんなには言わないで」と呟いた。
「お望みとあらば」
興味のなさそうな顔で肩を竦められる。「勇気を出せたら、ちゃんと自分で言うから」と弁明すると、やはりどうでも良さそうに「そうか」と返される。
「楽器は少し待ちなさい。そなたには標準規格よりも四分の三の方が良かろうな……幾らか修理と調整が必要だ」
そしてその無関心な顔のまま、賢者はぶつぶつと何か言いながら去って行った。しかしその無関心さが心のつかえの大部分を取り除いてくれたのを感じて、吟遊詩人は少しだけ明るい笑みの形に口の端を持ち上げたのだった。
◇
そして傷だらけで現れた勇者は、筋骨隆々とは言わないまでも無駄なく引き締まった体をした、見るからに強そうな青年だった。全身に血染めの包帯を巻かれてこれ以上なく具合が悪そうにしながらも、駆け寄った神官を警戒して素早く体を起こす。その視線があまりに鋭くて、傍から見ていた吟遊詩人まで縮み上がった。
しかし彼はそんな外見にそぐわず、とても純粋で優しい人でもあった。話してみれば心がものすごく強いという感じでもなく、彼は戦う力を持たない仲間達を自分一人で守り切れるだろうかと、とても不安そうに綺麗な青色の瞳を揺らしていた。
そんな彼の気質にかなりホッとして、そして当たり前のように「守る」という言葉を口にできる内炎体質の彼を羨ましく思う。
吟遊詩人も、本来ならば「守る側」の人間として育てられるはずだったのだ。それを己の精神の弱さで免除されている今の状況が今まで以上に不甲斐ない。しかしそれと同時に、優しくて好奇心旺盛で少し気の弱い勇者と話していると不思議なくらい、自分の弱さを突きつけられるこの状況から「逃げたい」ではなく、「自分もいつか強くなって彼を支えたい」という明るい勇気が湧き上がってくるのだった。
彼は未だ音楽に長けていない自分を隠していたが、しかし遠くない未来──下手をすれば数日のうちに、それを皆の前で言ってしまえるような予感がした。そして彼がそうしたらきっと、あの感情を微塵も隠せそうにない勇者様は少し難しい顔をしてから「……まあ、歌が歌えるならそれでいいんじゃないか?」とか、そんなことを言うのだろう。そう思うと笑えてきて、何も怖いことなんてないという気がした。
シダル 信念の勇者と親愛なる偏奇な仲間達 綿野 明 @aki_wata
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