六 酔っ払った賢者



 あっと思った勇者が腰を浮かせて賢者に手を伸ばす前に、大きく目を見開いた魔法使いが見たことのない速さで王子の手から酒瓶をむしり取った。潮の香りを消し去る勢いで森の気配と花の香りが溢れ、人魚達がギョッとした顔でこちらを振り返る。


 群れの仲間に危害を加えられたと思ったらしい氷色の人魚は明らかに怒っていたが、賢者がふらっとテーブルに肘をついて顔を覆うと、途端に威嚇の気配を消して泣きそうな顔になった。


「ルーフルー……」

 消え入りそうな声でそっと背をさすってやると、さっと席を立って泳いできていた神官がにこりとして魔法使いの肩を叩き、「大丈夫ですよ、私がいますからね」とゆったり声をかけた。


 少し別室で休ませたいと言う神官に、ヴァーラが「じゃあ、お部屋に案内するねえ。必要なお薬があれば、医務室に寄って行こう」とのんびり言ってふわっと席を立つ。そして広間の入り口の方へ泳ぎ始めながら、振り返って兄にチクリと釘を刺した。


「……ガジュ兄様。魔女様は人間さんを『完全に』人魚にするんじゃないんだよう? 肌の色だって、私達みたいな緑色が感じられないでしょ? 遊ぶのもいいけど、そういうところはちゃあんと聞いておかなくちゃ」

「す、すまぬ……」

「ルシナルちゃんもおいで。疲れた顔してる……後で夜食を持っていくから、今日はもうお部屋に下がるといいよ」


 吟遊詩人が不安そうに見上げてきたので「賢者達を頼む」と笑ってやると、仲間達はよろよろとヴァーラの後について食堂を退出していった。


「……悪いことをしたな。こうして言葉を交わせる人間の友は初めて故に、私も浮かれていたようだ」

 ガジュラがあまりに申し訳なさそうに言うので、勇者はちょっとおかしくなって微笑んだ。

「いや、まあびっくりしたろうが、ロサラスが付いてれば問題ないよ。次から少し遠慮してやってくれれば大丈夫だ──俺以外にはな!」


 できるだけ不敵な顔でニヤッとして賢者の飲み残した酒瓶の中身を一気に煽ってみせると、戸惑ったように静まり返っていた宴の席が再びわっと盛り上がり、ようやく王子にも笑顔が戻った。こういうところは村の男達と少し価値観が似ていて扱いやすい。よし、とりあえず一仕事終えただろうか?


「……シダル、私はひとつ思い違いをしていたようだ」

「ん?」


 勇者が魚の丸焼きをかじりながら首を傾げてみせると、ガジュラが酒杯を傾けながらニッと笑った。

「なかなかどうして、内に秘めた情熱のある仲間達ではないか。我らが重んじるような肉体の強さは持たぬが……友を守るという最も大切な心は持ち合わせているらしい。レフルスが岩を割って見せたのも、年若いルシナルが泣いておったからであろう? あの緑鱗の少年も……そなたがあれだけ大切にしているのだ、一見しては見えぬ強さがあるのだろうな。真の強さとは豪胆と同義にあらず……そなたらはこの人魚の国に、何か新しい風を吹き込んでくれたように思う」


 あんなに暑苦しいのだからものの見方も強固に偏っているのだろうと思っていたが、王子は流石王族といったところか、意外に柔軟な頭脳を持ち合わせているようだった。アサの村出身の勇者は彼らの価値観も少しわかるところがあるだけに、勇者は彼の言葉に感心し、そして嬉しくなった。


「……うん。俺なんかよりずっと強くて優しい仲間達だよ。ガジュラは本当に気持ちのいい男だから、君みたいな人魚が俺の大事な仲間の良さをわかってくれたなら嬉しい」

「はは、本当に仲が良いのだな! とはいえ、あの虚弱さはやはり不安に思う。そなたから見て無理のない範囲でかまわぬから、少し鍛えてゆくと良い」

「あ、うーん……それは、うん。相談してみるよ」

「そうしろそうしろ!」


 そうしてしばらく宴を楽しんでいたが、どうやらこのどんちゃん騒ぎは夜通し続きそうだと判断した勇者は、賢者の様子が見たいからと声をかけて、夜食を取りに戻ってきていたヴァーラの案内で部屋に下がらせてもらった。


「ごめんね、シダルちゃん。ガジュ兄様達、うるさいでしょう……私もこのまま逃げちゃおう」

「いや。俺は好きだよ、ああいう人達。今日はありがとな、楽しかった」

「なら良かった……いつもはあんなに盛り上がらないんだよう。たぶん人間さんで岩に銛を刺したのが初めてだったから、頭が振り切れちゃってるんだねえ」


 苦い顔で笑ったヴァーラとは、夜の挨拶をして部屋の前で別れた。そして賢者の具合は良くなったろうかと扉を開け──勇者はぽかんとなってその場に立ち尽くした。


「賢者……お前、どうした?」

「おかえり、シダル。すまぬな、後始末を押しつけてしまった」


 何が何だかよくわからないが、水の中でふわふわと広がる魔法使いの髪を丁寧に編んでやっていた賢者が、顔を上げて勇者に向かって優しく灰色の目を細めた。後ろ手にそろそろと扉を閉めて彼らの方へ泳いでゆくと、「ここへかけると良い」とクッションを引き寄せて座る場所を作ってくれる。


 目の前の光景が信じられずにおろおろと仲間を見回すと、魔法使いは髪をいじられながらブラッシングされる犬のようにうっとりと目を閉じていて、吟遊詩人は部屋の隅でビタンビタンと尾を跳ねさせながら息も絶え絶えに笑っている。一人落ち着いた様子の神官に目を向けると、彼はちょっと楽しそうに微笑んで言った。


「酔いを覚まして差し上げようかと思ったのですが……特に悪酔いはしていないようでしたので、そのままにしています」

「ああ、うん……」

 強烈な違和感に何とも言えず、上の空で頷く。


「こうして穏やかにしていると、少し勇者と笑い方が似ていますね。この人はいつもあれこれ考えて神経を尖らせていますから、たまにはこうして考え過ぎない時間を作って差し上げるのも良いのやもしれません」

「……うん」


 似ていると言われてみれば、学者然とした彼が穏やかに微笑んでいると、少し亡くなった父親を──おそらく当時の父は今の賢者とそう変わらないくらいの歳だ──思い出すような感じがした。丁度、人魚達と関わる仲間達を見て自分も暑苦しくしないよう気をつけねばと思っていたところだったので、神官から見てこういう風に笑っていることもあるのなら嬉しい。


 そうしてしばらく賢者は……嬉しそうに尻尾をくっつけてみる魔法使いを「どうした?」とか言いながらひたひたと灰色の尾鰭を揺らしてあやしてやったりしていて、まあだいぶ背筋がぞわぞわするような違和感を振り撒いていた。が、小一時間もすると段々と酔いが醒めてきたらしく、次第に口数が減り、弧を描いていた唇が真一文字に戻り……恐ろしいことに一切の記憶は失っていないらしく、最終的には暗黒色に戻った瞳を絶望に染めて部屋の隅から動かなくなった。


 それを見た吟遊詩人が大きく息を吸い込んで止めると、「ちょっと……その辺を、散歩、してくる」とひゅうひゅう掠れた声で言いながら、話し相手にするのか神官の腕を引っ張って部屋を出ていった。


 こういうときに頼りになりそうな二人が出て行ってしまって勇者はどうしたもんかなと思ったが、まあ大人なのだからそのうち立ち直るだろうとほったらかすことにして、とりあえず後ろから這うように忍び寄って賢者の頭を撫でようとしている魔法使いの腕を掴んで捕まえる。


「あ、離して……ルーフルーを、僕も触りたい」

「神官の真似してもダメだ。全く、あいつは猫じゃないんだぞ……ほら、飯を持ってきたから食え。さっきほとんど食べてなかったろ? 陸の果物もいくつか貰ってきたから」

「果物……」

「賢者も体調が落ち着いたら食っとけよ? 空きっ腹に酒だけだと明日だるくなるぞ」

「……ああ」


 そうして仲間達が、おそらく存分に笑い終えて戻ってきた吟遊詩人達も加えて夜食に手を伸ばし始めたのを見届けると、先程広間でしっかり食べてきた勇者は部屋中に山ほど転がっているクッションをもうひとつふたつ引き寄せ、ごろりと寝転がって大きな魚の尾に並んでいる空色の鱗を眺めた。


 脚ならば膝があるあたりをぺたりと触る。鱗の上は感覚がないわけではないが、踵の皮膚が厚い部分のような感じで少し鈍く感じる。表面はつるりとしていて、薄いのに皮膚の色が透けて見えない……というかこれはもしかして鱗自体は透明で、皮膚の色が青いのだろうか。


 首を傾げた勇者が一枚剥がしてみようかと縁に爪を立てたところで、夜食の果物を放り出した吟遊詩人が慌てて泳いでくるとその腕にしがみついた。

「ちょっと、やめてよ勇者まで!」

 何のことだと眉をひそめると、むすっとした吟遊詩人が親指で背後を指す。すると向こうで、薄っすら灰色の鱗を一枚指で摘んだ賢者が神官に怒られながら腰のあたりを治療されていた。


「……賢者、鱗は灰色みたいだが、皮膚はどうだった?」

「銀色に近い光沢のある灰色をしていた。この尾の色は、鱗の色と肌の色の混色であるらしい」

「そうか」


 賢者がそんなことを確かめるくらい元気になったなら良かったと思いながら頷くと、隣から吟遊詩人にポコンと頭を叩かれた。が、水の抵抗で勢いが落ちていて全然痛くない。


「どうだっていいでしょそんなこと! 鱗を剥がしたら血が出るんだから、変なことしないでよ!」

「いや、剥がしたのは賢者だろ」

「君もやろうとしてたんだから同罪だよ! それに勇者は叩いても叩き返さないじゃん!」

「ええ? まあそうかもしれんが……」


 それからしばらくだらだらと意味のないやりとりをしているうちに、琥珀の窓の外はすっかり暗くなっていた。大抵一つ二つは大きな月が出ている陸の夜よりも、水に光を遮られる海の夜の方がずっと暗い。部屋の中には魔石のランプがいくつもあったので明るかったが、そういう夜の雰囲気も相まって、昼間は気にならなかった海の中の音が急によく聞こえてくる感じがした。湖に潜った時に聞こえる静かで少し怖くなるような音とはまた違う、水面を撫でる波の音が混ざった音だ。


 陸では水の音に聞こえていた波の音は、水中から聞くとぼんやりと遠く風の音に聞こえた。目の前の水を切るように尾で掻くと、コポコポと心を落ち着けるような音がやわらかく反響する。水中という……いつもとは全てが違う環境だというのに、どうしてか今夜はぐっすり眠れそうな気がした。


 ゆらゆらと揺れる青い光に、優しい響きの水音──こんなに心が穏やかになる環境に住んでいて、なぜ人魚達はあんな風な性格をしているのだろう──


 そんなことを思いながら目を閉じた眠りの始まりは穏やかだったのに、結局勇者は雄叫びを上げる人魚達に囲まれながら馬鹿でかい鮫に追いかけられる夢を見て、夜の時間の大半をうなされながら過ごしたのだった。





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