第二章 秋の森

一 海から陸へ



 大陸が見えたと聞かされて甲板に出た。肉眼ではまだ遠くに青っぽく霞んだ陸地があるだけだったが、マストに登って望遠鏡を覗くと、赤いレンガで作られた可愛らしい港町が見えた。満足するまでじっくり眺めると、呆れ顔で笑っている見張りのロージャに場所を譲って礼を言う。副船長の娘だという彼女はこの海賊船の紅一点で、船長の息子ともう百五十年ほど恋人として付き合っているらしい。神官が婚姻の司式をしましょうかと申し出ていたが、夫婦めおとになったら幸せのあまり天の国に行ってしまいそうだと断っていた。


「この船はね、竜鯨りゅうくじら……ああ、鎧みたいな鱗を持ってる肉食の鯨なんだけど、それと戦って一度沈んだんだよ。あたし達はその時にみんないっぺんに死んで……粉々になった船の破片からなんとか人魚像だけ引きずって陸に戻ってさ、あの幽霊街の造船所で元のファントースム号そっくりに作り直してもらって……だからあの化け鯨を倒してあいつが守ってる島のお宝を手に入れるまで、あたし達は冒険を続けるんだよ。でもさ、ルードラと、けっ、結婚して、あいつの奧さんになったら……あたし絶対に何もかもどうでもよくなって天の国に行っちまうって思うんだ」

「わかる……幸福の極みだよな」


 勇者が腕を組んで深々と頷くと、ロージャは「お、うちの野郎どもと違って話がわかるじゃん」と嬉しそうに笑った。


「でもさ、まさか死んで幽霊になったあたし達の結婚式を挙げるって言ってくれる神官さんがいるとは思わなかったから、すっごい嬉しかった。だからさ、あんた達が生きてる間に絶対あいつを倒すんだ。そしたらあたしのもうひとつの夢、叶えにきてよ」

「おう、楽しみにしてる。その時はさ、吟遊詩人にとっておきの歌を作ってもらおうぜ。贈り物は天の国まで持ってけるものの方ががいいだろ?」

「……うん、ありがとね」


 そう彼女が可愛らしい顔で照れ笑いをしたからか、マストを降りると滑り寄ってきたルードラに凄い形相で胸ぐらを掴まれそうになって、そのまま拳がスカッと突き抜けた。顔の真ん中を斜めに走る傷跡も手伝ってだいぶ凶悪な顔をしていたが、ニヤリとした勇者が「妬くなって。お前との惚気話を聞かされてたんだよ」と囁いてやると、途端にぱあっと顔を輝かせて「ロージャ!」と叫び、驚く恋人を抱き上げてぐるぐると回す。


「あの人達、本当に百五十年も付き合ってるのかな……それにしちゃ浮かれすぎじゃない?」

「はは、確かに──あれ? 吟遊詩人、その目隠し」

「あ、うん。いいでしょ」


 マストの下から肉眼で街を見ていた吟遊詩人は、見慣れない薄い緑色の呪布を巻いていた。一体いつの間にと尋ねると、どうやら昨日の晩に賢者が刺繍したらしい。真ん中に丸い魔法陣がドンと縫い取られていただけの以前のものと違って、術の中身を読み取らせないためとかで、少しずつ色を変えた緑色の糸を何色も使って上から花と蔓草が刺されている。


「賢者が花の刺繍とか最高に似合わなかったけどさ、めっちゃくちゃ手際いいの。なんか魔法陣の中身もいじったみたいで、前はこう……三つの魔法陣を重ねる感じで長いのをぐるぐる巻いてたんだけど、それも一重になって涼しいし、布巻くと少し紗がかかったように見えてたのもなくなってるし、目が疲れにくくなった」

「良かったな」

「うん。でも神官がね、『私が作ってあげるはずでしたのに』ってちょっと拗ねちゃったの。今度髪を結うリボンに何か刺繍してくれるって」

「そうか」


 嬉しさを噛みしめるように笑う吟遊詩人へ微笑みながら、自分も満ち足りた気持ちで胸元に下げた時計をちょっと触った。そう、賢者がおじさんの前に並べていた魔導具からいくつか引っ込めているなと思ったら、なんと勇者と吟遊詩人の分の懐中時計だったらしいのだ。


「ふふ、時計もお揃いだね」

「ああ」

「早く僕も数字覚えよう」


 意外なことに吟遊詩人は字が読めないそうで、時計の読み方自体は知っていたものの、それは色と針の傾き加減を見た判断であって文字盤の数字を読めていたのではなかったらしい。この機会に覚えると言うので、勇者が暇を見て文字や数字を教え……たいと思ったのだが、試しに書いて見せたものをチラッと見た賢者が「時間をかければ読める、という程度の悪筆だな」と言ったからか、いつの間にか達筆な神官が吟遊詩人に基本の読み書きを教え、その後ろで勇者と魔法使いも文字の練習をさせられることになっていた。


 そんな話を思い出しながら、蓋に嵌め込まれた空色の宝石を指先でそっと撫でる。それは少し遅れた誕生祝いなのか、特にそういう意識でもないのか、ただ一言「使いなさい」と、なんてことないような顔で無造作に手渡された。しかし小さな時計を潰さないようそっと握り込んだ勇者は、「これを、俺に?」と思わず掠れた涙声になってしまったのだった。誰かが自分のためにものを作ってくれるなど……勿論、弓の弦や矢筒の石の時も嬉しかった。しかしこんな風に必要に迫られない純粋な贈り物をもらうのは、家族をなくした勇者にとってとても大きな意味のある出来事で、本当に、泣きたくなるほど嬉しかったのだ。


 そんな彼を見た賢者は僅かに狼狽うろたえた顔をして「何か、辛い記憶を」とかとぼけたことを言っていたが、この旅を初めて幾度……悲しみや孤独ではなく、持て余すほどの幸福感に涙を流しただろうか。


 嬉しい時にも涙は出るものなのだと知識としては知っていたが、実際に体験してみるとそれは単に目頭が熱くなるだけでなく、何か心に淀んだ今までの辛い記憶が全て洗われるような、表からは見えない閉ざされた深い部分に光が差し込むような、そんな感じがするのだ。


 留め金を爪で弾いて蓋を開けると、かすかに白く光る貝を使った文字盤に細い線で緻密な顕現陣が刻まれていて──賢者曰く、本来魔法陣で描かれるそれを意匠デザイン上どうしても蔓草模様の顕現陣にしたかったらしく、その開発に苦労したそうだ──早朝の今はその紋様が淡い金色に染まっている。そんな文字盤の上には長さの違う繊細な銀細工の針が三本あしらわれていて、秒針が小さくカチカチと音を立てて回る様子はいくら見ていても飽きない。勇者が持つには少し繊細すぎる意匠な気もしたが、そんなことはおかまいなしで自分好みに作った物を迷いなく渡してくるあたり、賢者らしいではないか。


 首に掛ける紐は魔法使いが船室の床で育てた花から編んだもので、よく見ると編み目にばらつきがあるが、光に当てるとしっとりした艶のある白に光って美しい。その光をぼんやり眺めながら、勇者は「一度にふたつも宝物ができてしまってどうしよう」という幸せな悩みにしばし酔いしれた。


 さて、先程見張り台から眺めた赤煉瓦の港町がそろそろ勇者の肉眼にも見えようかという頃になると、船は大きく舵を切ってその港を避けるように進み始めた。まあ当たり前なのだが、ぼんやりと霧を纏った幽霊船で、しかも海賊船であるファントースム号が普通の港に入れるわけがない。どうも人里から離れた崖沿いに停泊することになるらしく、大陸に着いたらまずは森だと気づいた魔法使いが嬉しげに耳を動かしていた。


 いつもの勇者ならばこの辺りで泣くところだが、帰りもまたこの船に乗せてくれと約束したのと──「崖沿い」というのが本当に遥か頭上まで垂直にそそり立つ崖だったのに呆気に取られたのも加わって、海賊達との別れはそれほど寂しく感じなかった。船長と感触のない握手を交わすと、勇者が賢者を下から補助しながら一度崖の上まで登り、大量の魔石を使って神官が甲板に描いた魔法陣と繋ぎ合わせる。


「ロ・アダル=ヴェルトル=リドメール」


 転移のあちらとこちらでは、どうも呪文が違うらしい。低い声で朗々と詠唱されるそれに耳を傾けながら目を凝らすと、淡い水色の魔法陣に魔法使いが手をかざして魔力を注ぎ込んでいるのが見える。水色から銀色に変わった魔法陣の淵から緑色の光が立ち昇り、カッと光ったと思うと今度は目の前の魔法陣から凄まじい光が吹き出して、緻密な紋様で構成された円の中に三人の仲間達と馬達がぎゅうぎゅう詰めになって現れた。


 あの一瞬で酔ったらしく片手で口を覆って座り込んだ神官以外は、もちろん内臓が潰れることもなく無事に転移したようだ。ほっとしながら海の方を見ると、白い霧に包まれた幽霊船がゆっくりと崖を離れていくところだった。船上から見ている分には気にならなかったが、やはり遠目に見るといかにもな感じで周りがもやもやしている。皆で崖の上から手を振りながら見送っていると突然びゅうと強い風が吹き──思わず閉じた目を開くと、まだすぐ近くにあったはずの船影が跡形もなく消えている。


「き、消えた……」


 ぞっとして二の腕をさすりながらこの恐怖を共有するために仲間達を振り返ると、こちらではついさっき転移を確認した魔法使いと馬達が消え失せていたので勇者は慌てふためいた。


「ま、魔法使いと──」

「走ってったよ」

 目を閉じて深々とため息をついた吟遊詩人が、親指で森の方をクイっと指した。

「あ、そう……」


 有角馬達は騎馬として牧場できちんと調教されているはずなのだが、自由極まりない一角獣と鹿、あと妖精のせいで最近はすっかり野生に戻ってしまっている。それぞれ乗り手と仲が良いのでそれほど困ってはいないが、元々普通の馬よりも気性が荒いらしい彼らは、もう街へ連れて行って宿の厩に預けるのは難しいだろう。たぶん気に入らない世話係がいたら蹴ると思う。


 馬達がみな花畑を目指して走り去ったので、徒歩でゆっくりと森を進む。青く美しい海の上で船とともに揺られているのも楽しかったが、数週間ぶりの陸地と森はやはり深い安心感があった。


 赤く染まった木の葉がはらはらと舞う秋の森は、海を渡ったからか、フォーレスやマレテの森とはまた雰囲気が違っていた。薮をかき分けて道を作らないと進めなかった向こうと違って、それこそ馬達が楽に駆け回れるくらいに地面は落ち葉と丈の低い草、柔らかな苔ばかりだ。冷えた空気も爽やかで、湿り気が少ないように感じる。


 木々の向こうにレタの派手な尻尾が揺れていた。ようやく追いついたと苦笑しながら見れば、魔法使いが鹿と頰を寄せ合って斜面沿いの洞窟の中を覗き込み、瞳をキラキラさせている。


「今日は……ここで、寝ようね」

「ああ。中は広そうだし、いいんじゃないか……なんか汚いな、この洞窟」

「綺麗にすれば、いいよ」


 なんだかゴミだらけの洞窟の中を魔法使いが浄化魔法で一掃する。細かい土や虫の死骸がなくなれば居心地の良さそうな場所で、勇者は歩きながら拾っていた薪を石の床に降ろすと岩の一つに腰掛けて一息ついた。


「はあ……なんかさ、洞窟って落ち着くよな……」

「ほらあなの、いきものなのだね……」

「は? ……ああ、そうか。ヴェルトルート人ってそういやみんな洞穴生まれなんだよな」


 洞窟に住んでいるという意識はなかったものの、こうしてみると音の響き方や空気の温度、湿り具合などはやはり地上とは違っていて、こういう少し天井の高い洞窟に入ると心が安らぐ感じがした。勇者の後を追って入ってきた仲間達もそれぞれ腰を下ろし、何やら地図を指差しながら小さな声で話し合いを始めている。静かな声が岩の壁にやわらかく反響するのが心地良い。


「珍しいな、地図なんて広げて」

 世の中に存在する地図の大半を記憶しているらしい賢者がいるために、剣の仲間達が紙の上でで道のりを確認することは滅多になかった。何か、行き先を相談したい場所でもあるのだろうか。


「この場所は聖泉メルに近いのだ。いや、むしろ次に立ち寄る学問の国リオーテ=ヴァラはそれが理由でこの土地に作られた国だが……折角の機会だ、街へ入る前に気の神域へ行ってはみないか」

「え、メルってあれだろ? 叡智が湧き出す泉ってやつ。行きたいよそんなの! 当たり前じゃないか」


 勇者が好奇心に瞳を輝かせて身を乗り出すと、賢者が満足げに口の端を持ち上げて頷いた。

「聖泉……ミルル」

「魔法使い、いい加減にしないとそろそろ本気で怒られるよ」

「……メル」


 吟遊詩人にたしなめられたエルフが不満そうに唇をむずむずさせながら言い直すと、寝そべってくつろいでいる鹿にそっと寄りかかった。そのままごろんと仰向けになると、なぜか天井を見上げてふにゃっと嬉しげに微笑む。その笑みに一瞬頭がくらりとしたが、少しずつ耐性がついているおかげで初めて倒れずに踏みとどまることができた。


 そして、天井に蛾でもいるのかと思って上を見上げた勇者は──狩りで鍛えられた精神力を総動員し、どうにか目を見開いて全身を強張らせただけで耐えた。が、その様子を見て彼の視線を追った少年の方はそうもいかなかったらしい。


「うわあああ!!」


 吟遊詩人が裏返った声で叫ぶと、天井にびっしりぶら下がってこちらを見ていた数百匹のコウモリが一斉にそこらじゅうをばさばさと飛び回った。あまりに混み合っていて顔にも背中にもぶつかってくるので、慌ててマントを広げて少年を内側に匿うと、そのまま洞窟の外へと走る。


「道理で……お前が木の上じゃなく洞窟で寝たいなんて珍しいと思ったんだ。あれがいたからだったんだな」

「たくさん、いたね」


 這々の体で洞窟から逃げ出した仲間達が、最後尾をゆったり歩いて出てきたエルフの頭や背中に黒いコウモリが何匹もしがみついているのを見て顔を引きつらせている。


「よしよし……かわいい、かわいい」

 彼が胸に抱えた一匹の頭を撫で回すと、コウモリは大きな黒い目をうっとりと閉じて眠たそうにし始めた。


「確かに……こうして見ると可愛いかもしれません」

 どうも正気じゃなさそうな目をした神官が妖精の肩に乗っている一匹にそろそろと手を伸ばし、触れる前に飛んで逃げられてがっくりと肩を落としている。


 魔法使いはもう少しコウモリ達が落ち着いたら洞窟に戻ろうと言っていたが、吟遊詩人と賢者が絶対に嫌だと首を振って譲らなかったので、その日の野営はいつも通り森の中になった。勇者は彼らほど強い嫌悪感はなかったが、食べかけの虫を落とされたら嫌だと思っていたので少しホッとする。


 焚き火に追加の薪を放り込んだ手で、足元から赤くなった木の葉を拾い上げて夕日に透かし見た。木々が美しく紅葉するにはやはり本物の陽光が必要なのだろうか、それとも爽やかに冷えたこの空気が重要なのだろうか、今までに見たどんな葉よりも鮮やかな赤色をしている。


 次の朝日が昇ったら、その紅葉の森を抜けて気の神域へと向かうのだ。そう思うと、勇者は胸が期待と好奇心に高鳴るのを感じた。海を越えたこの土地でも、面白い光景がたくさん見られそうだった。





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