第五章 蜃気楼の世界

一 喪失



 切り立った崖の上の方にある、細い岩棚のような場所だった。よく、物語の中で主人公が岩壁に張りついてそろそろと進んでいるような細い道──ああいう感じよりはもう少し幅があって、もう少し傾斜がきついような形に岩が割れていて、崖の上まで繋がっている様子だった。


 薄暗くてよく見えないが、崖の下には谷川が流れているようだ。水音は静かで、粉雪が音もなく降りしきっている。あっという間にマントのフードが雪で真っ白になったが、幸いなことに風はなかった。


「どこだ……ここ」

「太陽の位置はわかるか、勇者」


 丸い金属の板のような魔導具を回したり傾けたりしながら、賢者が言った。磨かれた魔石の中を小さな光の点が泳ぐような不思議な道具は何度か見たことがあったが、どうやら方角を確認するためのものだったらしい。以前は回しても一定の方向を指していた青白い光が、今はふらふらと迷うように動き、明滅して、そしてふつりと消えた。


「いや……わからない。まるで太陽がなくなっちまったみたいな感じだ。腹の底が寒くて……空はちょっと明るいのに」


 灰色の空は、雪の日の夜明けくらいの明るさだった。薄暗くて遠くまでは見えないが、足元が見えないほど真っ暗でもない。気温は砂漠の夜よりもずっと低く、ただ青黒い世界にさらさらとした粉雪が舞っている。 


「ねえ……遠くが、全然見えないんだけど」

 呪布を解いた吟遊詩人が、か細い声で言った。賢者が「気の神域と同じように、魔力視が封じられているのか」と尋ねると、小さく頷く。


「見えないのは同じだけど……あんな風に『夜だから目を休めておきなさい』って感じじゃなくて、なんかもっと、不安な感じ」

「ふむ」


「時計が止まっていますね……」

 神官がそっと言った。この異常な空間の中でも落ち着いている優しい声を聞いて、吟遊詩人の表情が少し和らぐ。


「魔力を注いでも動きません。壊れてしまったのか、あるいは時間が止まっているとか」

「時を止めれば雪は降らぬし、川も流れぬ。魔導具とこの空間で、魔力的な波長の相性が悪いと考える方が妥当だろう。マントの魔法陣も半分と機能しておらぬ」


 賢者が自分の時計を確認しながら言った。言われてみれば、内部を温めるはずのマントがほとんど機能していない。賢者が唇を青くしているので勇者のマントの内側に入れてやろうとしたが、鬱陶しそうに手で払い除けられた。


「ここが北に近いエシェンの大地の何処いずこかなのか、妖精の国のような異空間であるのか、現時点では判断がつかぬ──ふむ、鞄は見当たらぬな。天幕も食料も無いとなれば、どこか寒さを凌げる場所を探すのが先決だ」

「うん。ここ、けっこう危ないしな。三回寝返り打ったら落ちそうだ」

「寝返りって、勇者……」

 吟遊詩人が少し気が紛れたように苦笑して、賢者が呆れた顔をした。


「洞窟を探しながら、崖の上へ向かう。勇者が殿が良かろうな。足を滑らせた場合に受け止められるのはそなただけだ……魔法使い? どうした」

「少し……眠いよ」

 台詞こそいつも通りの魔法使いだったが、表情がおかしかった。半分閉じた氷色の目が怖いくらい虚ろで、ふらついてこそいないが、ぐったりと萎れた花のように生気を感じない。


「温めてやりなさい、勇者」

「お、おう」

 賢者の指示に頷いた勇者がマントを広げて妖精を内側に匿うと、ぞわぞわを振りまきながら腹に抱きついてきた魔法使いが少しだけ目を覚ましたような顔になった。


「大丈夫か」

「うん……春になれば、また起きるよ。ここは寒すぎるから、花は眠ってしまう」

「お前、そんなに寒がりじゃないだろ? 冬は雪の中を跳ねまわってたじゃないか」

「そうだね……でもここの寒さは、何か違う。気温の低さではなくて、何か……わからないけれど」


 賢者を見たが、首を振られた。何か妖精にしか感じ取れないものがあるのかもしれなかったが、しかしいつまでもこうして崖っぷちにじっとしているわにもいかない。こまめに休憩をとって魔法使いを温めながら、崖の上へと向かうことになった。


「俺が最後尾だろ? 魔法使いを真ん中に入れたいから……吟遊詩人が先頭、その後ろを魔法使い、賢者、神官、俺の順で行く。それでいいよな?」

「うん、任せてよ」

 先頭を任された吟遊詩人が少し嬉しそうに笑った。狭い道を足を滑らせないように慎重に進んで──そして早速転んだ神官を危なげなく抱きとめた。


「ご、ごめんなさい勇者」

「いや、そのためのこの順番だから。でも気をつけろよ? 一番危ないのはお前なんだから」

「は、はい」


 そうやってじわじわと急な斜面を登り、神官がもう一度転んだのを支え、天候が吹雪でなくて良かったと勇者が小さくため息をついた時──唐突に、谷底から吹き上げるような突風が仲間達を襲った。深い谷間ではよくあることで、切り立った崖など故郷で遊び慣れている勇者は、反射的にマントで顔を覆うと身を低くして風を避けた。


 それは足場が悪く滑りやすい凍てついた崖の上において実に的確な判断であったが、しかし勇者にその判断力が無ければ、或いは間に合ったかもしれなかった。


 神官の悲鳴に顔を上げた時には既に、マントを大きく風に煽られた魔法使いが足を滑らせていた。 背を下にして虚空へと投げ出された仲間へ、真後ろにいた賢者がすぐさま手を伸ばす。


 彼は間に合った。魔法使いの手首は黒い手袋を嵌めた手にしっかりと掴まれていた。 しかし賢者は落下する人間を足場の悪い崖っぷちで支えられるほど、勇者ほど、屈強ではなかった。


 時の流れが遅くなったかのように、全てがはっきりと、残酷なほど鮮明に見えた。


 ぐらりと体勢を崩した愛する人へ視線を向けた魔法使いが、その腕からバチンと大きな火花を飛ばしてその手を振り払った。賢者は弾き飛ばされるように崖の上へと押し戻され、地面を転がった。


「──ふざけるな!」

 風の音を切り裂く大声で賢者が怒鳴った。


 彼はばねのように素早く跳ね起きると、止める間もなく地を蹴って、灰色のマントを翻しながら空中へと身を躍らせた。


 勇者は神官の頭上を一息に飛び越え、崖から片手でぶら下がって手を伸ばしたが、その手は指先を僅かに賢者のマントの端へ掠らせ、空気を掴んだ。


 二人の影が暗闇に吸い込まれて見えなくなるまで、ほんの数秒だった。


 そして更に数秒後、どぼんと、何か大きいものが水に落ちる音が静かな谷間に響いた。


「──魔法使い! 賢者!!」


「なりません!!」

 喉が裂けるような悲鳴を上げ、後を追って跳ぼうとした勇者の腕を神官が両手で掴んだ。


「離してくれ! 二人が、ふたりが!!」

「彼らは大丈夫です!!」


 瞬間的に強い内炎魔法を巡らせた神官が、勇者を細い道まで引きずり上げると腹の上に馬乗りになった。


「賢者は、彼はそう簡単に仲間と心中するような人間ではありません! 何か、きっと何か魔法使いを助ける見込みがあったからこそ、後を追ったのです! 谷底には川もある。ですから、貴方は決して飛び込んではなりません!」


 涙声で叫んだ神官の気迫に気圧されて、勇者は口を閉じた。魔力的に相性の悪い内炎魔法を爆発的な力で使った神官の口元からは血が滴っている。勇者の肩を押さえつけた両手はガタガタと震え、その瞳は恐怖一色に染まっていた。


 勇者が少し落ち着きを取り戻したのを感じ取った神官が、腹の上から降りてふらふらと地面に座り込んだ。這いつくばって谷底へ大声で呼びかけていた吟遊詩人が真っ青な顔で戻ってくると、震える神官の肩を引き寄せてぎゅっと抱く。


「返事はないけど……大きな魔力の気配がしたから、魔法使いか賢者か、どちらかは術を使ってるはずだ。神官の言う通り、賢者が付いてれば大丈夫だよ。確かこの道は下へはそう長く伸びてなかった。一度崖の上まで上がってから、川下の方に向かって降りられる場所がないか探そう」


 少年の手は痛々しいほど震えていたが、声は少しも震えていなかった。緩やかな山の傾斜を見て川下の方を指差し、勇者を励ますように力強く頷いてみせる。


 宝石のように輝く真っ直ぐな瞳に勇気づけられて勇者は頷いた。そしてゆっくりと地面に手をついたかと思うと、次の瞬間、驚愕に目を見開いて飛び上がるように立ち上がった。その視線にすかさず振り返った吟遊詩人が、ビクッとして神官を引っ張り起こすと、慌てて勇者の後ろに駆け込んでくる。


 目の前の空間に、虹色に輝く亀裂が入っていた。薄暗い雪の谷には場違いなほど鮮やかにきらめく光が少しずつ広がって──そしてそこから突然、ひょこっと小さな子供の頭が出てきた。


「あれ? 君だれ? おかしいなあ……確かにいたと思ったんだけど……あ! いるじゃん! やっぱりね!」


 ずぼっと穴から出てきた子供の背中にキラキラと透き通った緑色に輝く虫の翅が生えているのを、勇者は目を剥いて見つめた。


妖精フェアリ……?」

「うん? そうそう。フェアリだよ。ていうか君だれ?」

「し、シダル」

「へえ。まあどうでもいいや。僕は同胞を迎えに来ただけだから」


 そう言うと妖精は翅をはためかせ、光の粉を撒き散らしながらすいっと飛んで勇者の後ろに回り込み、そして自分よりも頭一つ背の高い金髪の少年を見つめた。


「さあ、迎えに来たよ! なあに、人間なんかにぎゅっと抱きついて? その子がお気に入りなのかな? 変わった趣味だね……でもまあいっか! 水の神のお墨付きなら清潔だろうし、持ってきてもいいよ」


 妖精はそう声変わり前の少年の声で早口に喋ると、にこっと笑って吟遊詩人の腕を掴んだ。


「じゃ、早く帰ろう! 僕らの国へ」


 その瞬間虹色の裂け目がふわっと大きな光を放ち、暗闇にすっかり目が慣れていた勇者は眩しさに一瞬だけ瞼を閉じた。


 再び目を開けると、そこにはただ雪の上に足跡だけが残っていて、仲間の姿はどこにもなかった。





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