二 絶望と愛



 ようやく見つけた坂道を下って、谷底へと降りてゆく。川に十分な深さがあることを確認した勇者はホッと安堵の息をついて視線を巡らせた。しかし川岸に見慣れた黒いマントの人影が倒れていることに気づいて、慌てて駆け寄るとずぶ濡れの肩を抱き起こす。


「賢者……! そんな、嘘だろ! 賢者!」


 虚ろに開かれた灰色の瞳は、もう何も映していなかった。死してなお強く握り締められたその拳には、無残に千切れた魔法使いのマントが握られている。とその時、どこからが吟遊詩人の声が響いてきてハッと顔を上げる。


「──勇者、勇者!」


 目を覚ますと、吟遊詩人が心配そうにこちらを覗き込んでいた。起き上がると、焚き火の前で鍋を覗き込んでいた賢者が呆れた顔で勇者を見ている。


うなされるにしても、もう少し静かに呻きなさい。魔法使いが怯えていたぞ」

「え、あ、ごめん……」


 謝った拍子に、ぽろりと涙が零れた。神官が驚いたように目を瞬いて、「そんなに怖い夢だったのですか」と──





 目を覚ますと、崖の上の小さな洞窟の中だった。魔術の焚き火の赤い炎が小さく揺れていて、外には雪がしんしんと降り続いている。洞窟は狭いのになぜかどうしようもなくがらんと広く見えて、勇者はどうしようもなく、ひとりぼっちだった。


 ぎゅっと膝を抱え、マントに顔を埋めると咽び泣いた。段々と呼吸が浅くなって、息の音がひゅうひゅうと途切れ始める。このままだと息が詰まって倒れてしまうのがわかったので、勇者は涙を拭い、無理やり動揺を引っ込めると焚き火を消して立ち上がった。


 それから三日三晩、ただがむしゃらに川下に向かって走り続けた。あの夢を見て以来、眠るのはやめた。とにかく崖の下に降りられるところを探して、探して、ちっとも見つからなくて、それでも進み続けた。切り立った崖はどこもかしこもつるつるに凍っていて、岩の出っ張りはあっても、どこにも体重をかけられる場所がない。手のひらの熱で氷を溶かそうとしても──ああ、表面がほんの少し潤むだけで却って滑りが良くなってしまう。


 使命のことなど頭から吹き飛んでいた。今の自分は勇者シダルではなく、ただのアレンだった。ただ友を探し続けているだけの一人の人間で、世界を救うことなど全て忘れた、ただの弱くて孤独な狼だった。


 そして四日目の日が暮れ、真夜中を過ぎた頃──といっても、この雪山の明るさはずっと薄暗いまま変わらないので、体感でしかないが──勇者はついに力尽きて雪の中に膝をついた。そろそろ体を休めて何か食べないと、体力が保ちそうもなかった。しかし、今の彼にそんな気力はない。仲間達を失った自分など、もう死んでもいいような気分になっていた。段々と視界の端が暗くなって、もう寒さもあまり感じない──


「シダル! ようやく見つけました……」


 その時天使のような声が聞こえて、勇者は勢い良く顔を上げた。見ると、マントに雪を分厚く積もらせ、唇を真っ青にしてガタガタ震えているハイロが、ふらふらとこちらに駆け寄ってくるところだった。


「……ハイロ」

 掠れた声で呟き、さっと彼女を抱き上げると少し前に通り過ぎた洞窟へと運び込んだ。その重さと熱と、星色の瞳に、夢ではないと少しずつ実感が湧いてくる。守るべきものを得た狼の腹の中に、火が灯るのがわかった。


 火を熾し、冷えきって濡れているハイロと自分の服を乾かすために魔法陣を立ち上げる。教えるのが上手い賢者のおかげで、魔術にもだいぶ慣れてきていた。星型紋も花型紋も使い心地はあまり変わらず、迷った末に父と同じ花型紋を選んだ。初めは鳩くらいだったホボロボーロも、今は勇者が自分で調整して鷹くらいの大きさになっている。


「フルム=シル=ファルマファム」


 あかがね色の紋様が地面に浮かび上がって、重くなったマントが蒸気を上げながら乾いた。しかしほかほかと温まるはずのこの術は、今は少しも体を温めてくれない。やはりこの蜃気楼の中の世界は、何かがおかしかった。


「魔術、お上手なのですね」

 少し拗ねたようにハイロが呟いて、勇者は五日ぶりに微笑んだ。その顔を見上げて不思議そうにしたハイロが小さな声で「皆様はどうしたのです?」と尋ねる。勇者が声を詰まらせながら途切れ途切れに話した内容を聞いて、ハイロは驚いたように目を見開いた。


「四日間、ずっと走り続けているのですか? 下流へ向かって?」

「降りられるところがないかと思って」

 そう呟くように言うと、彼女はきっぱりと首を横に振った。てっきり、休みなく走り続けた勇者の体力に驚いているのかと思ったが、どうやら違うようだ。


「伝令鳥は」

「出したけど、その辺りをうろうろして戻ってくるだけだった」

「宛先が妖精の国の場合、伝令鳥は異界との境を越えられぬと考えた方がいいでしょう。レフルスとルーウェンにも出しましたか」

「うん。でも……見つけられないって顔で、俺の頭の上を旋回した、だけで」


 勇者の顔がどんどん青褪めていくのを見たハイロが、少し慌てたように彼の肩を叩くとローブのポケットから魔石の嵌まった小さな丸い板を取り出した。


「大丈夫です。ほら、私の持っている方位魔導石は方角を示すことができませんでした。伝令鳥に使われているのはこの術の応用ですから、見つけられなくて当然なのです。念のためお聞きしただけで、その」

「うん、ありがとう。ちょっと安心した」

 勇者が微笑んで見せると、ハイロはホッと息をついて先を続けた。

「ともかく、シダルは進みすぎです。来た道を戻りませんと……まずは居場所の見当がつきやすく危険性の高いレフルス達から探すことにしたのは正解ですが、この地形で簡単に降りられるところなどありません。少し難しいですがおそらく風の魔法で降りられますから、まずはお二人の場所を特定します」


「できるのか!」

 ちらりと見えた希望に勇者が縋りつくと、ハイロは「私に見つけられぬものなどありません」と自信ありげな表情を浮かべた。


「魔力の気配がして、水中へ落下した音が聞こえたのですね? 落下の衝撃を殺していることは当然として……ルーウェンの魔法はちょっと想像がつきませんが、おそらくレフルスならば、落下後すぐに岩壁を掴むために吸着の術式を展開させます。彼であれば発動時間の考慮はいりません。溺れて意識を失っていなければ、それほど流されてはいないでしょう」

「賢者も魔法使いも、泳げないけど」

「川に落ちた場合、泳げるか否かはあまり関係がありません。大切なのは息を止めて水を飲まないことと、術を展開するための冷静さを失わないことです。その点において、少なくともあの賢者様トルムセージに関しては心配無用かと思います。いきなり放り出されたならまだしも、そこまで考えた上で飛び降りたのでしょうから」


 淡々と理屈を並べる賢者のような物言いに勇者が目をぱちくりとさせていると、ハイロは畳みかけるように考察を続けた。


「岩棚や洞窟などを見つけてそこで暖をとり、崖の上へ戻る魔力と体力の回復を待っていると考えるのが妥当です。といいますか、それ以外に生き残る術は考えつきません。まず捜索するとすれば、落下地点まで戻りながら崖下に身体を休められるような場所がないか探すのが良い」

「……うん」

「水音が届くということは、音で探ることができるということです。まずは術で音波を放ち、反射した音を分析します。ここは様々な術が効果をなさない場所のようですが、貴方を発見したのは私の顕現祈ですから、同じ術ならば問題ないでしょう」


 ハイロはそこまで話すと今すぐ術を使おうと立ち上がり、そしてふらりとよろめくと倒れ込んだ。慌てて受け止めると、ぼんやりした瞳を覗き込んで首筋に手を当てる。体が氷のように冷え切っていて、脈が弱い。


「ハイロ……もうすぐ夜明けだ、せめて朝までは休め。お前が無理して倒れたら見つかるものも見つからない」

「貴方がそれを仰いますか」

 ハイロの言葉は尤もだったが、しかし今はそれに同意するよりも彼女を温める方が重要だった。


「……ごめんな。ここだと魔術で温まらないから」

 ハイロのマントを脱がせて地面に敷くと、その上に彼女を座らせて勇者のマントの中に入れ込んだ。胸元に寄りかからせるようにするとハイロが驚いたように目を瞬き、居心地悪そうにもぞりとする。


「……本当に温かいのですね。そういえば、フラノもいつも手が熱かった気がします」

「ああ、そうだろうな。俺は内炎体質だから、普通の火持ちよりも熱いかもって賢者が言ってた。それに右手以外の肌に経路がないから、外の環境に魔力が影響されにくいらしい」

「なるほど」


 ふっと、沈黙が落ちた。外はとても静かだったが、ほんの少しだけ、谷底を流れる水の音が響いてくる。


「……お前が来てくれて良かった。俺ひとりじゃ何もできなかった。ハイロ……ありがとう、愛してる」


 華奢で繊細な彼女の心を壊さないように、そうっとそうっと腕の中にハイロを閉じ込めた。腕を回した背がひんやりしていて、少しでもあたたまるようにとマントをかき合わせる。しかしその時、抱き寄せられたハイロが泣きそうな顔をしていることに気づいた勇者は、びっくりしてさっと腕を外した。


「ど、どうした! 怖かったか? ごめん、ええと、大丈夫だ。もうこれ以上触れないから」

「いえ……あまりに、あたたかかったので。すみません、このような時に」


 うるうると朝露に星を閉じ込めたようになった淡い金色の瞳が、ぱちりと瞬く。その拍子に涙の粒が転がり落ちて、勇者はそれをそうっと指の背で拭った。


「ずっと寒かったんだな」

 もう一度そっと、先程よりもほんの少しだけ強く抱きしめ直す。ハイロは首を縦にも横にも振らなかったが、返事がなくとも答えはわかりきっていた。


「なあ……神殿を出て、俺の家族にならないか」


 そんな言葉を口に出した勇者は、仲間のいないこの状況があまりに心細いからか、全く冷静ではなかった。否、ずっと彼女とそうなることを夢見ていたのには変わりないのだが、何も今こんな時に、そうでなくても彼女がもう少し勇者に恋するようなそぶりを見せてからでも──つまり、ついぽろっと、口から零れるように言ってしまったのだった。


「愛してるんだ。お前がずっとずっと幸せに笑ってられるように、一番側で守ってやりたい。泣いてるお前は綺麗だが、この温かさがなんでもない当たり前になるくらい、ずっと抱きしめてたい。なあ、そんな風に思うのはハイロだけだ。命より大事な、一番の宝物なんだ」


 勇者が静かな声でそう言って、そしてハイロはぽろぽろと宝石のような涙を流しながら、なんと勇者の背に腕を回してぎゅっと抱きつき──そして小さく、首を横に振った。


「この身がもし……神のものでなかったら、私はきっと貴方を愛したでしょう、シダル。ですが私は、やはり神に仕える人間なのです。私が自らの意志で神へ捧げたこの命を、神から取り戻して貴方へと譲るわけにはゆきません」


 わかっていた答えだった。少し、いや、かなり残念だったが、しかし勇者にとって今一番大切なのは、辛そうに申し訳なさそうに涙を流すハイロを慰めてやることだった。


「わかった。……大丈夫だから、泣くな」


 拭っても拭っても、星色の瞳から朝露のような涙が次から次にこぼれ落ちる。ハイロは泣きながら彼の胸に手をついて、勇者のマントの中から出ようとしていた。それに苦笑すると、勇者は彼女の頭の後ろに手をやって、そっと胸元に白い額を押しつけた。


「離れなくていい。今お前を抱きしめてるのは、凍えたお前を温めるためだ。ハイロが俺の愛する人でなくとも、仲間であれば誰だって俺はこうしたよ。……なあ、愛っていうのはさ、色々あるんだ。俺とロサラスが友達になったみたいに、お前の信仰と両立できる友愛を抱えきれないくらい、必ず渡してやるから……それまで少しだけ、待っててくれ」


 その言葉に息を詰まらせ、ハイロは苦しむように首を横に振って勇者の胸に額をこすりつけた。逃れようと突っ張っていた腕が再び背に回され、泣きながら胸元に頰を寄せてもたれ掛かってくる。


 このか弱い人は、何だってこんなにも安心した様子で俺の腕の中に収まっているんだろう──


 それを見下ろしながら、勇者は考えた。


 こんなに細くて華奢な女の子なんて、どうにでもできてしまうのに。俺に愛されていると彼女は知っているのに、どうして一言大丈夫だと言うだけで、こんなに──


 そう考えて、そういえばこの人は魔力をちょっぴり乗せて一言「動くな」と囁くだけで勇者を地面に打ち倒せるのだと思い出して、少しだけ苦笑した。


「シダル……アレン、アレグレン。どうして貴方はそんなに、優しくしてくださるのですか」


 ハイロが言う。涙声というのは大体鼻が詰まって汚く掠れているものなのに、彼女のそれはどうしてこんなに可憐なのだろうか。


勇者シダルだからだよ。俺を選んで、俺に大事な仲間と愛する人を与えてくれた神様に、誇れるような自分でありたいんだ……」


 シダルとハイロは、それから離れ難いようにぎゅっと抱き合って少しだけ泣いた。寒くて寒くてどうしようもなかったが、今まで生きてきた中で一番強い温もりを感じた夜だった。





 そして次の日の朝、勇者は崖の上に立って風の術を使うハイロの後ろ姿を見つめていた。


 か細いが美しい歌声が谷間に響き、小さな声なのに、なぜか勇者が叫ぶよりもずっとずっと遠くまで響くような不思議な魔力のこもった風が、どこまでも広がってゆく。今までこうして勇者達の居場所を探っていたならば、それは逃げ切れないだろうと納得した。


「……教えて、花の魔力の場所を」

 囁くような声がそう尋ねた。見えないだけで実は風の精霊か何かがそこにいるのではないかと思うような、優しい声だ。


 そして、しばらくの間じっと目を閉じて集中していたハイロが、静かに勇者を振り返って言った。


「見つけました。花と風、おふたりとも生きています」





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