三 氷の谷 前編(魔法使い視点)
「うっ……」
強く首が締まって、魔法使いは呻いた。自分を追いかけて跳んだ賢者が、手を伸ばして魔法使いのマントを掴むと力任せに引っ張ったのだ。彼はそのまま魔法使いを手繰り寄せると腰に腕を回して抱き寄せ、左手を伸ばして鋭く「フルム=スクラ!」と唱えた。
果たして一瞬の間もなくこの複雑な顕現陣を裏表逆に描ける術者が、世界にどれだけいることだろうか。ふと気づくと、魔法使い達は回廊陣と名付けられた筒状の顕現陣の中を滑り降りていた。魔竜の蹴りをも数度は凌ぐ強固な盾を裏返しで、滑るよりも速く先へ先へと鏡文字に描き足して、坂道を滑り降りるように下へと向かっている。
初めは川下に向かって緩やかな傾斜で滑っていたが、賢者が次々に握っては捨てている魔石が尽きると、ぐっと顔をしかめて角度をきつく描き始めた。急に速度が上がったのが恐ろしくて身を固くすると、抱える腕に力を込めてくれる。
途中で何度か、筒に仕切りを作るように描かれた魔法陣の中を通った。分厚い空気の層を通り抜けるような感じがして、その度に速度が少し落ちる。速度を落とす程度ならば魔法使いが魔法を使えば良いのだが、寒さと恐怖で冷え切った体では上手く魔力が動かず、ただ賢者にしがみついていることしかできなかった。
「私に掴まって、息を止めなさい!」
賢者が絞り出すように言った瞬間、彼の魔力が尽きた。水面まで後少しというところで回廊陣が消え失せ、二人は空中に投げ出された。賢者が何かしたのかほんの一瞬火傷しそうなくらい全身が熱くなり、次いで氷のように冷たい水の中に放り込まれる。
どぼんと水中に落ちた魔法使いは、あまりの恐怖に身を竦ませた。息ができない。流される。そんなのは些細なことだった。氷河の水は恐ろしいほどの冷えと眠気を魔法使いに叩きつけ、妖精の力を奪ってゆく。
魔力が少しも動かなかった。こんなことは初めてで、悲鳴を上げたいのに体が動かない。しかし魔法使いは、ぎゅうと抱きしめた賢者の体だけは決して離さなかった。今彼が手を離せば永遠に愛する人と分かたれてしまうのだと、本能が言っていた。
押し流されていた体ががくんと揺れるように止まって、顔が水の上に引き上げられた。目を開けると、賢者が必死な顔で岩を──いや、水面に落ちる岩の影を掴んでいる。どうやら賢者は魔法使いと違って流されながらちゃんと周囲を見ていたらしく、目の前に大きな洞窟が口を開けていた。
「手を離しても掴まっていられるか」
賢者が息も絶え絶えに言った。魔法使いが抱きしめていなくても、離れ離れにならないように、賢者がしっかりと彼を捕まえていてくれたのだ。
「……うん」
ほんの小さな声しか出なかったが、ぎゅっと腕に力を込めたので意志は伝わったらしく、賢者が頷いて魔法使いを引き寄せていた腕を離した。そのまま影を両手で掴んで岩をよじ登り、洞窟の入り口に倒れ込む。
「……ルーフルー」
「許さぬぞ」
灰色になった彼の瞳がこんなに鋭く見えたのは初めてではなかろうか。両の
「そなたがひとり犠牲になろうとしたことを、私は決して許さない。二度と、同じことはさせぬ!」
彼はそのまま返事も待たずに魔法使いを立たせ、動かない体を引きずるようにして洞窟の中まで歩かせた。洞窟は不思議なことに岩というよりは氷できているような感じで、床も天井も白っぽい半透明だ。谷から吹き込む風の当たらない岩陰、いや氷陰へ崩れるように座り込む。
「服を乾かす。魔力を分けなさい」
冷えきったエルフが魔法を使えないことをわかっているらしい賢者が、しかめっ面で言った。まだ怒っている顔におずおずとなりながら震える片手を差し出すと「それでは足りぬ」と押しのけられ、そしてあっという間に肩を引き寄せられて抱きしめられた。
「る、ルーフルー……」
「黙れ」
口調は乱暴だったが、氷細工の蝶に触れるような優しい優しい抱擁だった。しかし魔法使いの魔力は、触れ合った頬からしか奪われていない。賢者の言う通り、触れる面積が広い方が多くの魔力を渡すのに効率が良いのは確かなのだが、しかし魔力は素肌が触れていないとなかなか上手く移動しないものなのだ。服の上から抱きしめるくらいなら、直接手を握った方がまだ効率が良いように思う。つまり彼は単なる治療目的でなくこうしてくれているわけで──愛する人の腕に包まれるのが嬉しくはあったが、同時に魔法使いの行動がどれだけ賢者を傷つけたのかはっきりとわかって辛かった。
「ごめんね、賢者」
「もう二度とせぬと誓え」
「……誓います」
「ふん」
赦しの言葉はかったが、触れる空気が優しくなった。愛を込めて頰ずりすれば、賢者が少しずつ森の気配を帯びる。空になった魔力経路に、花の魔力が満たされているのだ。
妖精のような気配を纏った賢者は、いつもは闇のような黒色をしている瞳をやわらかな銀色に光らせていて、綺麗な顔立ちと合わさると到底人間のようには見えなかった。その姿になんだか嬉しくなって微笑むと、不可解そうな視線が返される。
「番みたいだね」
「……何だと?」
「エルフが肌から直接愛を分け与えるのはね、愛する人と子供達だけなんだよ」
「……それは、知ら、なかった」
無知を誤魔化すようにそっぽを向いて呪文を唱え始めた賢者の足元に、美しい銀色の魔法陣が描かれる。常の影のようなそれと違って光を発する紋様を興味深く眺めていると、ふわっと立ち昇った熱が二人の服を乾かした。
「イフラ=アーヴァ」
賢者が唱えると、魔力を節約しているのかいつもより小さな、すずめくらいの大きさをした銀色のウールが現れた。
「──我々は無事だ。ルーウェンを魔法が使える状態まで温めてからそちらへ戻る。崖の上まで登り、安全を確保した上で待っていなさい」
そう言ってウールを飛び立たせたが、彼女はふらふらと困ったように洞窟の中を飛び回ってから、魔法使いの頭の上に舞い降りた。
「やはりこうなるか」
「道がわからないの?」
「そのようだな」
「少し飛べば見えるような場所なのに?」
「そうだな……勇者が騒ぐだろうが、まあ神官がなんとかするだろう」
心配そうな顔でため息をついた賢者が、天幕と同じ柄の魔法陣を半球状に立ち上げた。魔法使いはその中央に手を当てて魔力を流そうとしたが、やはり魔力が動かない。
「賢者にあげるから……やってくれる?」
少しもじもじしながら手を差し出すと、何度かためらった後に賢者が魔法使いの手を握った。ぐっと吸い出される感覚があまりに幸福で陶然とすると、眠ろうとしているように見えたのか「起きなさい」と肩を揺すられた。
「起きているよ……でも、もう少し温められたいかもしれない」
この中で焚き火をしたら危ないだろうかと考えながら呟くと、賢者が大きなため息をついて身を寄せてきたので、魔法使いはびっくりして硬直した。
「だ、抱っこするの?」
「魔法陣を重ねたところで、おそらく断熱以上の効果は得られぬ。体温で温める方が効果的だ」
魔法陣に覆われた氷の塊に寄りかかり、立てた膝の間に挟むようにして腕を回された。マントの中に入れられると、冷えているようで微かに甘い魔法使いの大好きな匂いがして、うっとりと灰色のローブに頰を寄せる。
「賢者も、冷えているね」
「今は冷たいが、しばらくこうしていれば温まる。我慢しなさい」
「そうではないよ。僕も君を温めたいと、思っているんだよ」
自分のためにはちっとも動かなかった魔力が、賢者を温めようと思った瞬間にざわりと揺れた。その感情に従って熱を広げれば、冷え切っていた賢者の体温が上昇するのがわかった。薄い唇に色が戻り、ひどい震えが嘘のように止まる。
「そなたの魔法でなくば崖の上まで戻れぬのだ。己の回復を優先させなさい」
「できれば僕も温まりたいけれど……君のためにしか、魔力が動かないよ」
赤みの戻った頰をそっと撫でて、銀色の瞳を覗き込む。花の魔力は愛の力だ。愛する人のために不可能を可能にするための力だ。考えてみれば、ただ冷やし眠らせるだけのこの世界の理などに、花の力が負けるはずがなかった。
愛の言葉を告げようとしたが、言えなかった。ここで言い淀むなど、まるで人間のように自分の気持ちを隠すなど……人里で育ったからか、魔法使いは怖がりで恥ずかしがりの出来損ないのエルフだった。
ああ、でも、知りたくてたまらない──
愛しい人が自分の愛に応えてくれるのか、自分をどう思っているのか、知りたい。愛の歌を聴いてからの賢者が、以前と違って、見つめれば見つめ返してくれるようになった理由を知りたい。そこに幽かにでも恋情が混ざるのか、人である彼がエルフのルーウェンにも愛を与えてくれるのか、尋ねてしまいたい──
「
外を流れる谷川の水音に紛れるように、彼に絶対聞こえないように、こっそりと囁いた。リファール・エルフが使う言葉の中で唯一歌うような節のない、唯一濁った強い音を出す、本当に本当に特別な言葉だった。
「何だ、聞こえない」
やわらかい声が
「ルーフルー、すき」
ヴェルトルート語で甘えるように言うと、賢者は困ったように微笑んで氷にもたれかかり直し、布の端を握った手で抱くようにして魔法使いを己のマントでしっかり包み込んだ。愛の魔法でほかほかになった賢者の体温が更に魔法使いを温めて、ぼんやりとあたたかい眠気がやってくる。
「眠るな、体温が下がる。もう少し温まったら氷の少ない場所を探すので、それまで我慢しなさい」
こちらを見下ろす銀の瞳に一瞬だけ、常の冷静さとは違う何かがよぎった気がしたのは、そうであって欲しいと魔法使いがあまりに強く思っていたからだろうか。
しかし暖かく心地良い今は、そのどちらでも良かった。一番のたからものに身を寄せていられる今がこの上なく幸せで、早く勇者達の元に戻ってやらねばと思うのに、罪深くもこの時間が一秒でも長く続いて欲しいと、そう思ってしまうのだった。
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