七 帰還(神官視点)
衣擦れの音に目を覚ましたが、神官は息を殺して寝たふりをした。吟遊詩人がつんつんと肩をつついてきたので、半分寝言のような声で「なんですか……もう起きるのですか」と呟く。
「ううん、まだ寝てて。僕もちょっと起きちゃっただけだから」
「わかりました……」
そうして吟遊詩人がそうっと寝床を離れて部屋の真ん中に移動し、振り返って神官が眠ったかどうか確認するのをやり過ごす。すると吟遊詩人は羽織っていたマントを脱いで、そうっと薄暗い部屋の中で淡く光る翅を広げた。それからぶうんと小さな音を響かせて細かく翅を震わせると、ちょっとだけ背伸びをして、背中と足元を交互に見つめる。
はあ、可愛い……。
魔法使いを眺める吟遊詩人のような感想を抱いて、神官はクッションの影でこっそり微笑んだ。
確かに最初こそ、この妖精はいかにも虫らしく高速で羽ばたく自分の翅を気持ち悪そうにしていた。しかし今日を入れてこの三日、なんと彼は早朝にひとり寝床を抜け出して、こっそりと翅を使って飛ぶ練習をしているのだ。なんて、なんて愛らしいのだろう。
「……あっ」
その時小さく小さく驚く声が聞こえてきて、神官は薄目を開けてそうっと吟遊詩人の様子を確かめる。と、彼の足が少しだけ床を離れているのに気づいた神官はがばりと起き上がって、ついにやり遂げた友へ向かって大きく「わあ! 飛べました!」と声を上げた。
「えっ! あ、うわ!」
音がする勢いで振り返った吟遊詩人が空中で翅を閉じようと慌て、よろめきながら落下してたたらを踏んだ。
「神官! い、い、いつから」
「あ、いえ……見てません。寝てました」
「うそつけ! もしかしなくても、昨日も一昨日もずっと見てたんでしょ! ひどいよ!」
「ご、ごめんなさい」
「ほらやっぱり!」
「あっ」
さて、すっかり顔を赤くしてご機嫌斜めになった妖精は、その後の朝食で非情にも神官から甘いものを全部奪い取ってしまった。
「もう許してください……」
「ダメだよ! こっそり覗き見るなんて、神様に言いつけるからね!」
「え、そんな。内緒にしてください……」
「ふん、知らない……ねえ、今日は帰してもらえるかな?」
神官をいじめるのに飽きたのか唐突に話題を変え、奪った苺を食べながら吟遊詩人が物憂げに言った。翅が生えたら元の雪山に戻してくれると言っていたルプフィルだが、せっかく仲良くなった吟遊詩人と離れるのが寂しいらしく、何かと理由をつけて帰り道を作ってくれないのだ。
「そうですね……今日頼んでダメでしたら、最後の手段を使いましょうか」
「最後の手段?」
「賢者やハイロが使っている術で洗脳して道を開かせます」
「……えっ? そ、そんなの使えるの?」
青くなった吟遊詩人が少し仰け反って、小さな声で尋ねた。
「神殿で基礎を教わりました。苦手ですから成功はお約束できませんけどね、可哀想ですが仕方ありません」
「あ、うん……昨日と同じでまずは僕が説得するから、早まらないでね」
急に機嫌を取るように「落ち着いて……まずはお茶でも飲もう」とカップを渡してくれる少年に礼を言って、すっかり飲み慣れた花の香りのお茶に口をつける。その温かさにほうとため息をつき──可愛いもので溢れているこの世界を見たら魔法使いが喜ぶだろうにとうっかり考えて、切なくて堪らなくなった。
「ねえ、神官……」
その時、内緒話をするように囁いた吟遊詩人が集中して何か聴いているような顔をして、そして訝しげに眉をひそめた。神官も一緒に耳を澄ませてみたが、特に何も聞こえない。
「どうしました?」
「なんか……さ。『苺飴と蜂蜜があるから一緒に遊ぼ』みたいな詩に節をつけて唱えてるのが、賢者の声で聞こえるんだけど……幻聴かな?」
「おやまあ、かわいそうに。少し横になりなさい、片付けは私がやっておきますから」
「幻聴じゃないと思うよ……」
「あ、ルプフィル」
小さな声に振り返ると、なんだかしゅんとした様子のルプフィルが巣穴の入り口に腰掛けていた。
「それさ、妖精を呼び出す呪文だよ。レフルスって子は博識なんだね、もうすっかり忘れ去られたと思ってたのに……あーあ、フィルルと遊べるのも今日までかあ」
緑の翅をへにゃっとさせた妖精が、気の進まない様子でぽつぽつ教えてくれる。
「声に向かって『いいよ、遊ぼう』って答えるんだよ。そしたら誘ってくれた人のところに繋がる……ねえ、また遊びに来るよね?」
「うん、だって友達だもの」
目を白黒させていた吟遊詩人が気持ちを切り替えてにこっとすると、ルプフィルは淡い薔薇色の瞳をうるうるさせてぎゅっと緑柱石の妖精に抱きついた。可愛い同胞を抱き返したルシナルがそっと彼の肩を押して自分から遠ざけ、虚空を見つめて「いいよ、遊ぼう賢者!」と華やかな声を上げる。
すると空中に大きな虹色の円が描かれて、神官と手を繋いだ吟遊詩人がちょんと指先でそれに触れると、中に薄暗い洞窟の光景が描かれた。いかにも妖精が身近だった古代の術式らしいそれに思わず目を奪われる。
そして次の瞬間、その円の中から凄まじい勢いで、勇者の上半身が飛び出してきた。
「ルシナル! ロサラス……!」
たぶん、そう言ったのだと思う。しかし涙であやふやになった声で叫んで両腕を伸ばす勇者を見て、吟遊詩人が安堵で泣きそうになりながらも少しだけ怯んだ顔をした。
なので、とりあえず神官がその腕の中に飛び込んでみた。
「おわっ! おお、神官……珍しいな。懐いたか?」
「ええ、懐きました」
軽々と抱き上げられて、穴の向こうに降ろされる。勇者が目を丸くしてぎゅっと抱きしめてきたので、にっこりして焚き火の匂いがする背中に腕を回す。とても温かく、安心感があってなかなか心地良い。北の果てでは妖精達に混ざって彼のマントに入れてもらおうと神官はこっそり頷いた。ちらりと見ると、吟遊詩人はルプフィルに手を振ってから自分で穴を抜けたようだ。ようやく仲間達の元へ戻れて、安堵のあまり目眩がした。どうやら、自分で思っていた以上に気を張っていたらしい。
「賢者……魔法使い」
吟遊詩人が涙を浮かべて、賢者と魔法使いの手を片方ずつ握っていた。
「……ご無事だと信じていましたよ」
「当然だ」
微笑みかけると、賢者が珍しくやわらかい表情で微笑み返してきた。と、神官を解放した勇者が吟遊詩人を抱きしめに走り、少年がビクッとして背を庇うように後ずさる。
「おい、どうした? ほら、来い」
「いや……今は手を、手を握りたいかな」
「吟遊詩人、そう長く内緒にしておけるものではありませんよ」
「……でも」
呆れて声をかけると、吟遊詩人が不安げに首を振った。すると賢者が訝しそうな顔をして、少し首を傾けると吟遊詩人の背後を覗き込むようにする。
「何を隠している?」
「いや、ちょっと、今は見られたくなくて……」
背に隠すようにマントの下でかたく畳まれた翅を覗かれそうになり、吟遊詩人は慌ててくるりと体の向きを変えた。 こういう言い方をすれは賢者が引き下がるとよくわかっているらしく、案の定賢者は首を元に戻したが、しかし反対に呆れた顔になった。
「大方、翅に寝癖でもついたのだろう。そなたは少々容姿を気にしすぎではないか?」
「……へ?」
「違うのか。では何だ、色が気に入らぬのか? 言わねばわからぬ」
「翅のこと……教えたの?」
わなわなと震えながら、吟遊詩人が神官を責めるように見た。神官が首を振って見せると、どういうことだと賢者へ視線を戻す。少年の混乱の全容をおおよそ把握したらしい賢者が、意外そうに目を瞬いて説明してやった。
「いや。しかし妖精の国へ行っていたのだろう。そなたは妖精混じりなのだから、当然生えているものと思ったが」
「と、当然? ……僕に妖精の血が入ってるって、なんで知ってたの?」
「鷲族は妖精を祖先に持つことで名を馳せた一族だろう。そうでなくとも、小柄で軽い体に光る千里眼、魅了に強く血を恐れる気質……一目瞭然ではないか。何だ、もしやそなたは気づいていなかったのか? 最低限、己の体のことくらいは学んでおきなさい」
「最低限……?」
信じられないというような顔をしていた吟遊詩人が、その時、目をキラキラさせながら彼のマントを捲り上げようとした勇者から驚いた猫のように毛を逆立てて飛び退った。ルプフィルも似たようなことを言っていたが、どうやらこの子犬は機嫌を損ねると猫のようになるらしい。
「なあ妖精って……お前、もしかして妖精の羽が生えたのか? ちょっと、ちょっと見せてみろよ……なあ、飛べるのか?」
「見ないで!!」
「……ご、ごめん」
神官はもう慣れていたが、彼らは殆ど初めて聞いただろう半分恐慌に陥った吟遊詩人の叫び声を聞いて、勇者がさっと両手を上げて数歩下がった。しかしそれが拒絶に見えて苦しかったらしく、吟遊詩人が顔をくしゃくしゃにしてうずくまる。
「ごめんルシナル、ごめんって……絶対綺麗だと思って、その」
「絶対見せたくない。大きい虫の翅だよ? 賢者とか……絶対、絶対気持ち悪いって」
「いや、大丈夫だろ……こいつが怖がってるのは虫の胴体部分だし」
「黙れ」
「ルーフルーは、かわいい虫なら好きだよ──痛い! 耳はだめ!」
魔法使いの耳を引っ張り勇者の頭を引っ叩いた賢者は、恐れるような吟遊詩人の視線を受けて困ったように眉を寄せた。
「……妖精は虫ではなかろう」
「気持ち悪くない? 絶対気持ち悪いって言わない?」
「言わない」
「本当?」
「何度聞こうと同じだ。繰り返し問うな」
「……わかった、約束だよ」
おそるおそるマントを外して翅を広げた吟遊詩人を見て息を呑んだのは、勇者だけではなかった。まるで暗い洞窟で光る宝石を見つけたような目で皆に見つめられ、吟遊詩人の瞳から少しずつ恐怖の色が抜けてゆく。
「なあ、飛べるのか? なあ、それ、飛べるのか!?」
「……勇者、さっきからそればっかりだね」
はしゃいで問いかける勇者に小さく頷いて、吟遊詩人が翅を震わせるとふわりと空中に浮かび上がる。そのまま少しよろめきながら洞窟の中を一周すると、美しい緑色の光の粉が雨のように降った。いつの間に合流したのかハイロが瞳をキラキラさせながらその光に手を伸ばし、それを見てしまった勇者が真っ赤になって目を逸らしている。
着地に手間取った彼を魔法使いが抱きとめて、そのままぎゅっと抱きしめた。翅の上から腕を回すのでハラハラしたが、意外と柔軟性があるようで割れたりしない。
「可愛い」
どうやら宝石の妖精だったらしいフェアリを抱えて、花の妖精は胸に染みるような優しい声で言った。
「大丈夫だよ。フェアリはとても
それを聞いた吟遊詩人の瞳に深い深い安堵が宿ったのが見えて、神官はようやく心からほっと息をついた。
息をついた拍子にぐらっと目眩に襲われて、ふっと明かりを落とすように目の前が暗くなると意識が途絶えた。
◇
目を覚ますと、どこかで無くしたはずの天幕の中だった。もしや全てが夢だったのではと思いながら起き上がると、魔法使いの隣で料理を手伝っている吟遊詩人の背中にはしっかり翅がある。ならばこの状況は何なのだろうとぼんやりした頭で考えて、彼が目覚めたのに気づいたらしい賢者に顔を向けた。
「氷竜の助けを借りて砂漠へ戻った。荷物は……どうやら砂漠に取り残されていたらしく、ファールが巣に持ち込んでいるのを吟遊詩人が発見した。それなりの距離を戻る羽目になったが、まあ、仕方あるまい。それと、竜用の鞄は譲ってやることになった」
「ファール……氷竜? ええと、先程ハイロがいたような気がするですが、彼女は……」
「先に火の山へ向かった。砂竜ではなく野生の飛竜を捕獲して砂漠を渡っていたらしい。どこかのオアシスで休んでいたのを、歌で呼び寄せて飛んで行った」
彼女の行動は賢者にとっても少々不可解だったらしく、勇者がとんでもないことをしでかした時と同じ顔をしながら説明してくれた。
そのまま集まってきた仲間達から、それぞれ別れた後の様子を聞く。吟遊詩人の羽化について詳しく纏めたものを渡すと言ったら賢者が嬉しそうな顔をして、吟遊詩人がやめてやめてと慌てながら飛んできた。
「絶対、絶対学会で発表とか、本にして出版とか、やめてよね! 絶対だからね!」
「……本人の了承なくそのようなことはせぬ。時間をかけて、そなたを説得するだけだ」
「僕は絶対認めないから!」
いつも通りのくだらない会話を聞いて笑っていると、勇者がそっと袖を引っ張ってきたので顔を向けた。
「どうしました?」
「なあ……やっぱり俺、ハイロを諦めきれない」
小声で囁かれたので、それはそうだろうと微笑み返す。
「諦める必要などありません。私が、あなたとハイロを結婚させて差し上げます」
きっぱり言うと、向こうで鍋をかき混ぜていた魔法使いの耳がピクリとして、何か耳と視線で合図してきた。よくわからないが、妖精さんも応援しているということだろうか。
「えっ……」
勇者が驚きと気恥ずかしさのせめぎ合っている顔でもじもじする。
「それは……ええと、どうやって」
「勇者。スティラ・アネスの尊ぶ神には、豊穣の女神がいらっしゃることをお忘れではありませんか? 子を産み育てる夫婦となることは、正しく信仰に則って尊ばれること。異性に快楽を求めることは許されませんが、清らかな愛を得た還俗というのはね、本来喜ばしいものなのですよ。ですから彼女が神殿の本来あるべき姿をきちんと知れば、必ずあなたの腕の中に戻ってくるはずです」
意外な話だったのか、勇者の目からすっと羞恥の色が引いて真剣な顔になる。相変わらず顔に出すぎだが、天性の聞き上手でもあるなと思って微笑んだ。
「諦めてはなりません。あなたは光と闇の神によって、彼女の運命の伴侶となるよう導かれたではありませんか」
そこまで言うと不意に、再びパッと顔を赤らめた勇者へ悪戯心が湧いた。妖精の国で毒されたのだろうか、ちょっとからかって、慌てさせてやりたい気がする。
「……司式は私でも構いませんし、あるいはフラノでも良いやもしれません。彼女の血を分けた兄ですし、あなたは火の愛し子だ。火の神殿の結婚式はね、それは華やかで美しいですよ。燃えるような美しい夏の夕焼けの日に、たくさんの火を灯して行われるのです。香を焚いて、花は赤い薔薇の花を飾ります」
「な、え、結婚式とか、そんな、まだ、俺……!」
慌てふためいた友を見て、にやりと笑う。だめだ、これは癖になりそうだ。でも神よ……今だけ、見逃してください。
「それとも気の神殿が良いでしょうか? 花嫁は黒い衣装に星を散りばめて、引き摺るほど長い透けるような灰色のヴェールを被ります。ああ、さぞ彼女に似合うでしょうね。気の
「うっ……確かに、ハイロはそっちの方が……違う、ええと──ありがとう神官。俺、その日まで頑張ってみる」
「結婚式の日まで?」
この上なく楽しそうにニヤニヤしたフェアリが、震えている勇者にさらなる攻撃を加えた。
「違う! 違うから! ……ええと、そうじゃなくて……ハイロが正しい信仰に気づく日が来たら、やっぱりどうしても愛してるって、もう一度言ってみる。だから……彼女を救うのを手伝ってくれるか?」
「勿論ですよ」
にっこり頷くと、焚き火の向こうで魔法使いが珍しくクスッと息を漏らして笑った。それを思わずじっと見つめてしまった賢者が、ハッと肩を揺らして視線を逸らす。そんな彼らを見た吟遊詩人が、振り返って宝石のような翅の縁を指先でいじりながら「ミロルは……どう思うかな」と呟いた。
神に仕える喜びを凌駕するほどではないが──初めて、美しい恋をしている彼らを少しだけ羨ましいと思った。
〈第四部 了〉
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