五 地上へ



 一歩一歩、歩みを進める程に空へ近づいてゆく。


 長い時をかけて少しずつ補修を重ねられてきたらしく、人工の水晶でできているという階段の踏み板は一枚一枚に個性があった。皆の足に踏まれて中央が滑らかに磨り減ったもの、傷が入り始めてきらりと複雑に光るもの、まだ新しく妖精の作った氷のように透き通って、遥か下が見えるもの。


 段と段、段と手摺を繋ぐ細い柱のようなものはあったが、それはあくまでもこの大階段を美しく装飾する水晶細工でしかなく、階段自体を支えているのは大掛かりな魔術なのだそうだ。





 勇者達は細かな傷を癒し火傷に包帯を巻くと、森の入り口で倒れ伏していた騎士団を──どうやら「審判」の途中で姿を消したと思っていた気の審問官ハイロに眠らされていたらしい──揺り起こして別れの挨拶を交わし、地上へ繋がる階段を上り始めていた。敵を退けた時の状況を考えればそれほど慌てて発たねばならぬという程でもなかったが、それでも今日のうちに街を出た方が良いだろうというのが彼らの判断だった。


「ああ、綺麗だなあ。空へ続く水晶の階段とそこに咲いた透明な花、きらめく髪をなびかせた妖精エルフに宝石色の夕日が降り注ぐ……うーん、歌というよりは絵に残したいような……ほらルーウェン、こっちを向いて? ああ、素敵だなあ──」


 先を行く魔法使いをひたすら絶賛し続ける吟遊詩人の声に、段々と賢者の顔が煩わしそうになってきていた。とはいえその感動は勇者から見れば決して大げさではなく、藤の木を育てた時に施された魔術を吹き飛ばしたらしい彼はキラキラした花と星を纏わりつかせていて、このおとぎ話から抜き出したような大階段を歩くのがすこぶる似合っている。


「次の休憩所で宿を取るぞ、もうひと上がりは不可能であろう」

 杖に縋って息切れしている神官を視界に入れて賢者が言う。長い木の杖はもう体力のない聖職者へ譲ってやることにしたようだが、階段では手摺りを使えとむしり取るように取り上げて、持ってやるのかと思いきや流れるように勇者に押しつけた。


「すみま、せん……また私、だけ、こんな」

「いや、初めの頃に比べたら体力ついてきてるぞ。もう少し頑張れるか? 抱えてやろうか?」

「いえ、まだ……歩けます」


 上り切るのに三日かかるという階段は一部を岩壁に接していて──人工天の魔術があるのでかなり近づかなければ見えないが、その壁面を棚のように削って作られた足場や深く掘られた岩窟に、宿屋や飲食店、野営地などが設けられていた。そうやって、上り下りする人々が途中で休めるようになっているのだ。


「や、宿……」

「……おい、大丈夫か?」


 見上げれば、このところずっとどこか落ち着かなげだった魔法使いが、宿を取るという賢者の言葉にへたりと萎れてしまっていた。あまりにかわいそうなので勇者が声をかけると、縋るように耳を倒して見つめてくる。人里へ入り、宿の寝台で眠るようになって神官や賢者は随分と顔色が良くなったが、反対に森の生き物らしい月光色のエルフは四角い石の建物と賑やかな街の声に囲まれて、わかりにくいが少しずつ疲労を溜めていたようだった。


「……なあみんな、今日は野営にしないか? 俺もそろそろ魔法使いの作る飯が食いたいし」

 そんな声に振り返った仲間達は特に渋ることもなくそれで構わないと頷いたが、しかし勇者が魔法使いを心配しているのには不思議そうに目を瞬かせた。耳が倒れてかわいそうだと言えば、吟遊詩人と神官がぴったり声を揃えて「耳?」と言いながら首を傾げる。


「──でも魔法使いの耳っていつも寝てるというか垂れてるというか、そんな感じだよね? 動いてるって、それ本当? ねえ妖精さん、ちょっと動かしてみてよ」

 今夜は野営に決まって安堵した様子の魔法使いがピンと耳を立てて見せると、吟遊詩人が「ほんとだ」と驚いて口を開けた。


「すごくちょっとしか動いてないのに、よく気づいたなあ……そういえば賢者の顔も勇者には無表情に見えてないみたいだし、人のことよく見てるよね」

 その言葉に同意するように妖精が耳を動かすと、「また動いた! なにこれ、ちょっと可愛いんだけど」と少年が華やいだ声を出す。


  そんな彼らの後ろをゆっくりと上りながら、勇者はというとこっそり口元に手の甲を当てて照れていた。吟遊詩人は人当たりも良く、五つも年上の自分よりずっと気の利いた言葉を選べる人間で、そんな彼に人との関わり方を褒められるのはかなりくすぐったかった。しかしまだまだ誰かと仲良くすることに慣れていないと思っていた自分にも、そうやって仲間のことが見えている部分があるならば……それは素直に嬉しい。


「あ、ほら、野営地が見えてきましたよ」

 疲れ切った声をほっと緩ませながら神官が指差した先には、岩壁を削って作られた狭い土地に雑木林のように木が植えられ、旅人達が好きに焚き火をしたりできるようになっていた。


「勇者、勇者、僕らはここにしよう! この、ふふっ、針葉樹シダールの根元がいいと思う」

 水晶の階段からぴょんと飛び降りて吟遊詩人が、一本の木の方へ駆けていったかと思うと細い葉を茂らせた梢を指差し、口元を耐えきれないようにむずむずと笑みの形に歪ませて言った。賢者も勇者に意地悪を言いながらどこか楽しげにしている節があるが、この少年も悪戯を仕掛けたりからかうようなことを言う時はキラキラと特別嬉しそうに笑うのだ。寄ってたかって何なんだとは思わないでもないが、しかし仲間の笑顔を見ているのが幸せで、勇者はついついそんな彼らを許してしまうのだった。


 綺麗に雑草のむしられた野営地は隅の方に水回りなども完備してあるらしく、かなり整っていて清潔感があった。意外と利用者は多いようで、あちらこちらで火が焚かれているのが見える。


「こうして見ると、俺達みたいな旅人って結構多いんだな」

 マントを着て腰に剣を佩き、数人で連れ立って薪を運んだりしている人々を目で追いながら勇者が言うと、賢者が木陰に腰を下ろしながら軽く頷いた。

「他国から訪れた冒険家だな」

「ぼ、冒険家?」

 何だその格好良さげな職業は、と思いながら身を乗り出すと、賢者が、ああ──例の意地悪な笑顔になって小さく手招きをし、顔を近づけた勇者に声をひそめて囁きかける。


「未知の文化や民族、知られざる遺跡、竜の秘宝や未踏の島などを求めて旅する人間を指すが──ヴェルトルートへ訪れる冒険家の半数は『伝説の秘境アサ』を探し求めている。故に面倒ごとを避けたければ、彼らへそなたの出身を悟られないようにしなさい。焚き火を囲んで踊る奇妙な儀式もやめておくように」

「……奇妙な儀式?」

 つい声を弾ませてしまった態度を嘲笑われるものとばかり思っていた勇者は思わぬ言葉にぽかんとなって、火を熾したら使おうと布を巻いている途中だった即席の松明をだらりと下ろした。


「……いやちょっと待て。これ、奇妙なのか?」

「うわあ、やっと突っ込んでくれた……何の儀式なのかずっと気になってたんだけど、怖くて聞けなかったんだよね……」


 吟遊詩人が先程までの楽しげな笑い声を引っ込めて興味深げにじっと勇者へ顔を向けた。ああ、またこの感じか。嫌な予感がする──それはつまり、一夜とは言え生活の場となる土地を整える祈りの儀式を……彼らは必要ないと、そういうことを言っているのだろうか?


「え、いや……え? 野営するときは……やるだろ? え、もしかしてこれも『普通じゃない』のか?」

 そんな言い方をすればまた「そんなの秘境だけだ」とか言われてしまうのかもしれないと思ったが、しかし賢者は予想に反して真面目な顔で首を傾げた。


「そも、そなたのそれは何の儀式なのだ? 歌の内容からは意図が読めぬ上、足踏みで浄化の術式、つまり水の顕現陣に近いものを構築しているように見えるが、槍に近い長さの松明を振り回している。水の儀式なのか、火の儀式なのか、どちらなのだ」

「ええと……土地を清めて、眠りを守る儀式って言われてるけど」

「ふむ、つまり水と火のどちらでもあるということか。興味深いが、無謀なことを考えたものだ。陣が完全なものならば爆発が起きかねないが……まあそれは良い。ならば浄化の術と火の分界ぶんかいで代用すれば良いかね? 無論、文化とは尊重されるべきものであり、そなたにはこの提案を断る権利があるが……しかし、この場ではあまりに目立つ。妥協できるものであるならば検討してくれたまえ」


 分界とは、円形の板状をしている盾の術を膨らませるようにして半球状にし、盾の中に入って閉じこもれるようにしたもののことだ。野営地の近くを大きな獣がうろついている時など、特別周囲を警戒しなければならない時に使っている。


「いや、そんな真面目に言われると恥ずかしいんだが……別にいいよ、何もしなくても。俺はあれが必要だと思ってただけで、別に好きでやってるわけじゃないし……賢者がなくて大丈夫だと思うんなら、たぶん大丈夫なんだろ」


 別に世の中の「普通」へ近づきたいとも思わなかったが、勇者にとって村の文化はそれほどこだわって大切にしたいものでもなかった。彼にとっては既に村の年長者よりも賢者や神官の方が信じるに値する存在であり、彼らが要らぬと言えば顔に描いた守護紋様も浄めの儀式も、不思議と捨てがたいと思わないのだ。


 しかしそれは決して盲信ではなく、何かもっと別の──


「否、確かに私は賢者の地位を得ているが、その知識は決して完全ではない。私が知るのは神のように絶対的な世の理ではなく、人類の知識と知恵の集積でしかないのだ。理屈のない口伝というのは、時に思わぬところで真理を突いている。安易に捨てるべきではなく……我々にからかわれたとしても、それは決して価値を否定するものではない。よく考え、また直感的にでも必要であると思えば、そう述べなさい」


 そう、彼がこのような人間だから、勇者は素直に命を預けられるのだった。優しい男かと言われれば違うかもしれないが、こいつはこいつなりにきっと誠実で、やっぱりいい奴だ。


「……ねえ、眠くなったよ」

「おやおや。そういえば今日はお昼寝できませんでしたものね」

 勇者が感慨に耽っていると、側では妖精達が気の抜けるような会話を始めていた。随分手際よく組めるようになった薪を指先でつついて火を熾しながら眠たげに目をこする魔法使いに、賢者が呆れた顔で腕を組むと声をかける。

「仮眠を取るならば早めにしなさい、今夜は新月だぞ」

「……うん! 寝る、すぐ寝る!」


 するとなぜかそれを聞いたエルフが驚くほどはしゃいだ様子で木に登り始め、枝の上で丸くなって眠ってしまったので、結局その日の夕食は料理上手な妖精ではなく、無難な味のスープしか作れない勇者の担当になってしまった。


「……まあいいか、なんか楽しそうだし。なあ、なんであいつはあんなにはしゃいでたんだ?」

「あやつが星を見てみたいと……先日、新月の夜の観測を約束させられていた」

 問いかけると賢者が面倒そうな声で、しかし瞳はいつになくきらりとさせて呟く。そういえば、星の本がどうとか言っていたわりに夜にゆっくりと時間も取れていなかった。荷物から紙やペン、小さな望遠鏡、それから用途のわからない平べったい金属の道具を取り出しているのを見ると、勇者も好奇心が湧いてくる。


「なあ、それ俺も混ぜてくれないか? あと、それ何だ?」

「好きにしなさい。これは円環儀アストロラーベ、天体の位置を測定する道具だ」

「なんか、かっこいいな」

「美しい用途の道具は、大抵それ自体も美しい造形をしているな」


 賢者が肩を竦める。そしてこれは魔導式だから何かの板の入れ替えが必要なくてとか、いつになく丁寧にそれぞれの道具の使い方を説明してくれたが、さっぱりわからない。しかし賢者が「……ふうん」とおざなりに言ってみた勇者に何かバカにする言葉をかけようとした瞬間、彼は突然勢いよく身を乗り出した勇者を避けようと大きく仰け反った。


「何だ!」

「それ!! それ、魔法の杖か!?」


 手元を指差して大声を出した勇者に、賢者が「これは細工用だ」と追い払うように言う。

「細工用の、魔法の杖っ!?」

「煩いぞ貴様!」


 珍しく少し荒らげた低い声で一喝され、勇者はピッと背筋を伸ばして口を閉じた。と、手の中に鉛筆くらいの短い杖が転がり込んできたので、大人しく元の位置に座り直してじっとそれを見つめた。持ち手のついた細い木の軸の先端に細いやじりのような形のキラキラした飴色の宝石が取り付けられている。よくわからないが、魔法っぽくてかっこいい。


「伝統的には『魔法の杖』だが、現代風に言うと『魔導媒介杖まどうばいかいじょう』だ。こういった小型のものは、指先から出力する魔力の量を微調整する。先端は琥珀なので、そなたが夢想するような大規模な術には耐えられぬぞ」

「琥珀で、微調整」

「植物素材は種によって伝導率が大きく異なる。ナナカマドやバラ科の樹木は力の流れを整えることで大きく増幅し、反対にオークや松の類はほとんど魔力が通らぬ。これは薔薇の木にイトスギの琥珀であるため、ある程度整えた魔力を先端でせき止め、出力を絞ることで精緻な細工が可能になるのだ。今の場合は、アストロラーベの調整に使う」

「伝導、率」

「魔力の通りやすさ」


 もっと色々聞いてみたかったが、その時調理を手伝っていた吟遊詩人が勇者を呼び戻したので、残念ながら杖の使い道について詳しい話は聞けなかった。勇者が作ったスープはやはり無難な味だったが、遅い昼寝を終えてもぞもぞと木から降りてきたエルフが寝ぼけ眼でパラパラと調味料を加えると、魔法のように舌がとろける幸せの味に作り変わる。久々に食べる妖精のスープに舌鼓を打ち、食後の片付けを終えると焚き火を消して皆で夜空を見上げた。


 今の今まで月のない夜は暗くて危険が多いとしか思っていなかったが、空が暗いとそれだけ星も美しく輝いて見えるのだと、勇者はこの夜初めて知った。頭上の大穴に丸く切り取られた空が、宝石箱のようにきらめいている。賢者が道具を使ってそんな星々を何やら計測しながら手元の紙に数値を書き込み、その片手間神官がヴェルトルート語、魔法使いがエルフ語で話しかけるのに器用に言葉を切り替えながら返事をしていた。新月の夜空と同じくらい真っ黒の瞳が星を映して真剣に見張られ、少しも笑顔ではないのに今まで見た中で一番生き生きとしている。


 勇者もはじめは星座の物語について尋ねたり星の名前を覚えたりしながら天体観測を楽しむつもりだったのだが、実際に星を眺めてみると、吟遊詩人と並んでただぽかんとそのキラキラした美しさを見上げるばかりだった。


「……綺麗だな」


 小さく言うと、吟遊詩人が泣きそうな顔をして無言で頷く。才能溢れる音楽家は星降る夜の光景をすぐにでも歌にし始めるのかと思っていたが、繊細で感受性の強い少年は呪布を外した緑の瞳を淡く光らせ、ただ言葉もなくじっと空を見つめ続けている。旅に出てから次々に出会う雄大で不思議な景色は美しかったが、しかしそれを見つめる仲間達の瞳も同じくらい美しいと勇者は思った。


 そんな幸福な勇者に、北の果てに待ち受けているらしい顔も知らない魔王を殺したいという意識は微塵もない。勇者がそれを成し遂げねばそんな美しいものが全て失われてしまうというのなら、彼はそんな……おぞましく思える使命にも立ち向かう必要があった。


 しかしまだ、何もわからない。審問官とどう向き合うか、彼は魔王に敵対心を抱くべきなのか、そんな大きなことを決めるには勇者はまだあまりにも無知だ。


 世界の姿を知りたい。もっと色々な決断ができるよう、強く、賢くなりたい──そう、地上の世界にはきっと彼らが感動するような美しいものがまだまだたくさんあるだろう。そんなものを見て、知って、そうして世界と仲間達を守れる勇者になるのだと、シダルは空を見上げて決意を固めたのだった。



〈第一部 了〉





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る