三 谷底 前編(魔法使い視点)
薄く薄く幾重にも重ねるように、全てが失速してゆく場所だ。思考も、魔力も、口調も、歩みも……何もかもが重く歩みを遅くして、深まる闇に埋もれてしまう──
魔法使いは霞みがかった寝起きの頭でぼんやりとそう考えながら寝返りを打ち、もう一眠りしようと淀んだ闇を避けて柔らかな布地に鼻を埋めた。勇者の魔力がぼんやりと光りながら洞窟を浄化している以外はどこもかしこも真っ暗なので、時間はさっぱりわからない。しかし少しだけ頭を上げて周囲を見回せば、勇者は転がってきた神官に脚を乗せられて苦しそうにしながらも起きる様子はない。いつも小鳥のように早起きの彼がそうならば、まだ夜は明けていないのだろう。少なくとも二度寝をしても怒られない時間であることは確かだった。
目を閉じる。
洞窟の外を、微かな風が吹いている。
厳密に言えば空気の流れとは違う、人の耳には拾えない風に似た小さな音なのだが、エルフの耳はそれを確かに聞き取っていた。淀みが少しずつ少しずつ動いて北を目指している、低く緩やかで恐ろしい音だ。
谷から淀みが吹き出している──そう勇者は竜の背からこの地を見下ろして呟いたが、それは違う。谷から吹き出しているのではなく、細い川がいくつも合流して大きな川になるように濃く集まりながら谷へと流れ込んでいるのだ。世界中から集められてきた人の恨み、憎しみ、
思えば、ずっと群れに仇なす敵として警戒していた神殿の長を
きっとそれは大きな誤りだった。武器を振りかざす明確な敵がいなくなった今、仲間達が戦わなければならないのは己自身の心だ。深い絶望に晒されても決して自分を失わず、勇気を取りこぼさず、目を凝らしても見えぬ希望の光を目指し続ける。それは神殿長の胸を槍で貫くよりも、もしかするとずっと難しいことだ。
でも、今は特別に幸せ……。
そう心で呟いて、気持ちを切り替えるため息をひとつつく。どうせ起こるべきことは何を思ったって起こってしまうのだから、あまり大変なことばかり考えていてもいけない。
ひとまずは幸福に身を浸そうとあたたかな胸元に額を押しつけると、静かな気配が少し身じろぎをして、黒い目が薄っすら開かれた。澄んだ影の色がぼうっとこちらを見下ろして、ほうと息を漏らすと頭に手のひらが乗せられる。撫でようとしてそのまま寝入ったらしく、途中で腕から力が抜けてくたりと抱き寄せられるような感じになった。堪らなく嬉しくて、少し眩しいくらいにたくさんの花が咲いてしまう。
そう、本当に本音を言えば魔法使いだってこの汚れた闇色の谷が恐ろしくて仕方なかったが、しかしこんな場所だからこそ、愛する人が自分から同じ毛布に包まって眠るように言ってくれたのだ──
◇
ふと目を開けると、毛布の中で丸まっているのは魔法使い一人だけだった。何か幸せな考え事をしていたはずなのだが、いつの間にかぐっすり眠っていたらしい。覚えていないが甘い感じの夢を見たなと考えながら肘をついて上体を起こすと、洞窟にはよく煮込まれたスープの香りが立ち込めていて、朝食の準備も出立の準備もほとんどが終わっていた。
「あ、起きた」
指先で魔法使いの肩をツンツンとつついていた緑の瞳の妖精が、小さな声で言ってにっこりした。いつもなら朝起きて金の髪を編んだらすぐに目隠しを巻いている彼だが、ここでは少しでも仲間達の魔力の光を感じていたいからと良すぎる視力を抑えることはせず、宝石色の目を晒したままにしている。彼が人間らしく振る舞うのをやめてもっと妖精の本能に忠実になれば、布なんて巻かずとも見たいものを見たいように見られると思うのだが……きっと恥ずかしがりの彼にはもう少し時間が必要なのだろう。
さて、それはともかく朝に寝過ごすのはこれでもう……何日連続だっただろうか? 早朝の光で花開くタンポポと同じで、魔法使いは仲間達の中でも特別朝日に照らされないと起きられない体質のようだった。谷に入って今日で三日だが、花の妖精の朝寝坊がひどくなったのはそれよりも前からだ。どうやらここまで真っ暗でなくとも、黒ずんだ弱い朝日では全然足りないらしい。魔法使いは少しだけ困ったなあと思ったが、しかし代わる代わる仲間につつかれたり揺すられたり撫でられたりしながら目覚めるのは悪くなかったので、これでよしとした。
「……外は暗く闇に包まれているけれど、淡い早朝色の輝きが希望をもたらす朝だね」
エルフ語で目覚めの挨拶をすると、吟遊詩人も周囲を覆う淡い浄化の分界を見上げながらエルフ語で返した。
「そうだね。この空色があるから、僕はこの深い闇の中でも朝の色を忘れずにいられるんだ」
「炎の形をしていても美しいですが、こんな風に頭上でふわっと輝いていると空色らしさが際立ちますね」
いつの間にか少しずつエルフ語を聞き取れるようになってきているらしい神官が、焚き火の前に座った魔法使い達にスープの椀を渡してくれながらヴェルトルート語で言った。少し無理をして疲労と不安を隠しているような吟遊詩人と違って、こちらは心から朝食を楽しみにしている顔でにこにこしている。癒しの力が常に身の内を巡っている彼は体の傷の治りも早いが、内面もよほどのことがなければ濁らないし傷つかない、澄んだ泉の水のような心を持っているのだ。そして自分が恐れないだけでなく、彼はその落ち着いた態度でいつだって周囲を安心させてくれる。このどんぐり色の毛並みを持つ生き物は、勇者がもたらす「強いものに守られている」という安心感とはまた違う、隣にいるだけで理由もなく心が安らぐような優しくて清廉な気配を持っていた。
椀と匙が全員に行き渡ると、皆が胸の前に拳を握って祈りの姿勢をとる。魔法使いはそんな風に跪いて祈る文化を持たなかったので、エルフが神の愛を受け取る時の作法に則って、愛しい人に体を寄せながらうっとり目を閉じた。気づいた賢者が、人間式の姿勢を崩さない程度に少しだけこちらにもたれかかってくれる。ああ、なんて幸せなんだろう。
神々よ、ここにあたたかなスープがあります
肉も野菜も塩も入った、美味しいスープです
この果てに近い淀みの底で
これほど優しい食卓を囲めた剣の仲間が
果たして嘗て存在したでしょうか
神々よ、恵みに感謝いたします
あなたがたは我らに命の糧を与えてくださった
我らにこれほどの仲間を与えてくださった
この先で今も滅びの時を待っている果ての王も
我らならばきっと救えるでしょう
その道をどうか見守り、祝福してください
神官の祈りの言葉が響く。無意識なのか彼の体から水の魔力がふわふわと広がって乾いた空気をしっとり湿らせ、心の奥深くにも潤いが生まれたような優しい気分になった。不安そうだった金の子犬が思わず滲んでしまったような微笑を浮かべ、仲間達の希望の象徴である勇者の瞳をちらりと見て笑みを深めている。昨日と同じように淀みの中へ踏み出せばまた少し怖くなってしまうのだろうが、こうして食事の度、休憩の度に神官が──目を閉じていても笑顔だとわかる明るくて優しい声で祈ってくれるので、吟遊詩人は繊細な心を持ちながらも泣き出さずに頑張り続けていられるのだと思う。
食事を終えると軽く身支度をして荷物を背負い、忘れ物がないか丁寧に確かめた勇者が槍を引き抜く。どうやらこの術は普通の魔法陣と違って槍自体も発現の条件に含まれているようで、聖剣と同じように地面に突き刺している間だけ分界が現れるのだ。もしかするとそれが渦の術の特性なのかもしれないと、賢者が興味深そうにしていたのが印象に残っている。
「なんでこんな術が、魔術なんて全然縁のないアサの村に残ってたんだろうな……」
術が消えた瞬間に身の毛のよだつような気配を伴って周囲が暗くなったが、勇者はもう慣れてしまったのか平気そうに槍を背中の剣帯の間にねじ込み、代わりに聖剣を抜いて光らせながら首を傾げた。賢者がその明かりを少しホッとしたように見ながら口を開く。
「コーナとメーナでは圧倒的にコーナの方が数が多く、メーナの強く外へ発現する魔力は劣性遺伝だ。代を重ねる内に魔力持ちが減ったのだろうが、嘗てはアサにも存在したのだろう……シダルよ、ヴェルトルート国内で魔獣が頻繁に出現するのは、おそらくそなたの故郷だけであると知っているか?」
「え?」
勇者が首を傾げると、話を聞いていた神官が少し楽しそうに笑った。
「広い国といっても洞窟ですからね、中に住んでいる動植物は基本的に大穴から入ってきたものばかりです。そして大穴の周りはフォーレスが守りを固めていますから、魔獣が入り込むことなんて滅多にないんですよ」
勇者が目をぱちぱちさせ、腕を組んだ賢者が後を引き継ぐ。
「しかし、大穴を魔獣が通過したという報告がなくとも、ごく稀にだがどこからともなく魔獣は出現する。ヴェルトルートで見られる魔獣はそのほとんどが鳥類などの飛行出来る姿をしているため、『空の国』から侵入しているのではないかという伝説があるが……つまり、アサの付近に外界へ通じる穴があるのではないかというのが私の見解だ」
「……つまりさ、伝説の地アサの戦士バンデッラー達が魔獣をそこで食い止めてたから、ヴェルトルートが魔獣だらけにならずに済んでるみたいな……そういう感じだったりする?」
吟遊詩人が半ば面白がっている苦笑になって賢者に尋ねると、彼は久しぶりに結っていない黒髪を揺らしながら頷いた。
「まさに、その通りの話をしようとしていた」
「じゃあ、ええと……俺が村で魔獣を狩り続けてたのは、お前達を守ることになってたって、そう思っていいのか?」
急にもじもじと照れ臭そうにしながら元
「とても……けばけばになった」
「魔法使い……」
呆れた感じに肩を落とした勇者が手櫛で髪をどうにかすると、昨日と同じように一列に並んで崖沿いの細い道に出た。早速少し途切れている場所があったので、魔法使いが氷で道を作って進む。本当は土や石で作れればいいのだが、瞳が氷色だからか氷の魔法の方が扱いやすいのだ。神官が滑って転んで落ちないかどうか渡る度に皆が心配しているが、水持ちの彼は氷と相性が良いらしく、何か魔力を使って器用に渡っているようだった。
「まだかな……」
しばらく歩いていると、吟遊詩人が不安そうに言った。
「ああ、そろそろお昼にしましょうか」
神官が言うと、緑柱石の妖精は首を振ってキラキラと金の髪を揺らす。
「そうじゃなくて、出口、まだかな」
確かに、賢者の見立てだと三日目の今日には谷を抜けられるということだった。どうやらもう少しだと思うと待ち遠しさが堪えきれないらしく、さっきからずっと翅をそわそわさせている様子だったのはこれかと魔法使いも納得する。
「少し先で、谷幅が大きく広がっているのが見える。地図が正しければこの地形はほぼ端に近く、日暮れ前には抜けるだろう。加えて、道幅が広くなることで多少淀みが薄まると考えられる。暗さに関しては昼餐を待たずして和らぐと期待して良い」
賢者が言うと、吟遊詩人がホッとした様子で少し涙ぐんでしまった目元を袖でごしごしと拭った。その頭を少し触り、恐ろしいこの淀みが薄くなるのを喜びつつも、魔法使いは少しだけ心配になって後ろの賢者を振り返って見上げた。
「……谷を出たら、また毛布は別々?」
小さな声で神官が「ふふっ」と笑うのが聞こえた。笑い事ではないと思いながら見つめると、賢者は恥じらってしまったのかとても困った顔になって魔法使いには見えない闇の向こうをじっと見る。
「……この谷に比べれば薄くとも、果ての地は火の女神の山脈に守られていたこれまでとは違う」
呟くようなそれを聞いてすっかり幸せが戻ってきた。魔法使いはにっこりするとふわふわ浮かび上がるような軽い足取りになって「早く、闇が薄くなるところまで行こう」と皆を急かし、少し笑った勇者に「慌てると危ないからな」と諌められた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。