四 氷の谷 後編(魔法使い視点)



 体を温めて少し体力の戻った二人は、氷の洞窟の中を奥へ奥へ、氷が途切れて岩が露出する場所を探して歩いていた。


 魔法使いと賢者の間に言葉はなかった。進めば進むほど足元の氷が平らに磨き上げられ、壁と天井が丸く整えられてゆくのを、二人とも息を呑んで見回していたのだ。


「誰か……住んでいるのかな」

 キラキラ輝く氷の階段と竜の彫刻が美しい一対の門柱が目の前に現れた時、ついに魔法使いは口を開いた。


「そのように、見えるな」

 恐れるように、しかし好奇心をくすぐられるように、賢者が囁いた。瞳を輝かせながらもさりげなく前へ出て、いつでも魔法使いを庇えるように立ち回っている。しかし表情を見ている限りそれはほとんど無意識に行われていて、こういうところを見ると勇者の血縁なのだなあと思う。否、血筋と気質に関連性は無いのかもしれないが、期間は短くともアレイという優しい魔術師に育てられた二人は、やはり容姿以外にもどこか似通っている部分が多い。


 そんなことを考えていると、不意に門の向こうの氷の廊下の奥から大きな魔力を感じて、魔法使いは顔を上げた。賢者もそれを感じ取ったらしく、腰の鞄に手を添えて身構えている。


「悪いものではないと思うよ。とても澄んでいて綺麗な気配だから」

「いや」

 エルフ語で言うと、廊下の向こうをじっと睨んだままエルフ語で返された。魔力が戻り始めて左目だけがぼんやりけぶるように黒く、ますます人間からかけ離れている。


「そなたが人をいとうように、美しく善良だからといって排他的でないとは限らぬだろう」

「……ぼく、かわいい?」

「ああ」


 賢者は上の空で頷いてから、すぐに目を丸くするとぱあっと頰を薔薇色にして、慌てたように「いや、今のは、あまり深く考えず」と呟いた。


「思いつくまま、自然と可愛がってしまったの?」

「なっ……」

「──楽しそうだね、金のエルフ」


 すぐ側で低い低い声がしたので、驚いて小さく悲鳴を上げた。気をつけていれば足音がしたはずなのに、愛する人との会話に夢中になっていて気づかなかったのだ。見上げると、賢者よりもずっと背の高い……何かエルフに似た形の生き物が、おかしそうに微笑みながらこちらを覗き込んでいる。


「ようこそ私の巣へ。久方ぶりの客人だ、歓迎しよう」

「君は……エルフにしては冷えすぎているね。何の生き物なの?」

「私は──」


 真っ白い肌に銀髪、銀色の瞳に尖った耳をした背の高い何かは、轟くような響きの言葉で何か言った。賢者を見ると、小さく首を振られる。彼も知らない言葉のようなので首を傾げて見せると、不思議な生き物は唸るような訛りのあるエルフ語に戻って言った。


「聞き取れないのならば、ルアグルと呼びなさい。私は妖精達が氷の竜と呼ぶ生き物だよ、小さな子。して、隣のその子は何の生き物だね?」

「木陰に佇んでいるものだよ。林檎の花の影と同じ匂いがするの」

「そうかそうか。木陰の子も、よく来たね」


 その言葉に賢者がなんとも言えない複雑な表情を浮かべたが、特に何も言わず丁寧に頭を下げた。一見人間流の挨拶のように見えるが、姿勢を低くして首筋を見せるのは竜にとっても敵意がないことを示す仕草だ。心のこもった礼を見て、ルアグルが満足そうな顔をした。


「……竜?」

 しかし魔法使いは首を傾げて、ルアグルをあっちこっちから眺めた。竜だと言う割に鱗の一枚も見当たらないし、翼も牙も尻尾もない。


「ふふ、私が竜に見えなくて不思議かい? もう少し広い場所に行ったら、本当の姿を見せてあげようね。ああ、エルフの子供は本当に可愛い。歳はいくつだい?」

「二十より大きくて、三十に満たないくらいだよ」

 魔法使いがそう答えると、ルアグルは二人を廊下の奥へと導きながら目を丸くした。縦長の瞳孔が丸くなって、怖いけれど少し可愛い感じの顔になる。


「おや、その歳ならばもう背は伸びないだろう。君はとても小さなエルフなのだね」

「……僕は自分の他に三人のエルフしか見たことがないけれど、彼らが大きいのではなくて、僕が小さいの?」


 きょとんとしてルアグルと賢者を見比べると、氷竜は「そうだね、エルフは私のこの姿と同じくらいの背丈がある生き物だ。しかし私は君くらい小さな方が、可愛らしくて好ましい」と言い、賢者はあっけらかんとした顔で「気づいていなかったのか。魔力量といい、金髪といい……知性あるものにこの表現は相応しくないやも知れぬが、そなたはエルフの突然変異個体だぞ」と言った。


 まさか自分がそんなに変わった生き物だったとは思っても見なかった魔法使いは少し驚いたが、突然変異個体ともなれば賢者はきっと自分に興味津々に違いないと思って、深く満足した。


 気分が良くなって鼻歌を歌いながら、凍った地底湖を渡るように掛けられた氷の階段を上る。反響して美しく響く足音を聴きながら見上げたその先に、まるで人間の作る城のような美しい氷の建物が見えてきた。賢者がキラキラと輝く透き通った城にどこかうっとりと見入る。それを嬉しそうに観察しているルアグルに「人の作るお城のようだね」と言うと、彼は「そうなのだ。私は人間の作り出す細やかな造形がとても好きでね。こういうものを壊さず扱うためにエルフの姿をしているのだよ」とはしゃいだ調子で言った。その言葉の通り確かに氷の城はとても繊細で美しかったが、しかしこの場所は氷の洞窟よりもずっと寒い。遠のきかけていた重たい眠気が再び襲ってきて、魔法使いは困ってしまった。


「どこか体を温められる場所はないだろうか」

 その時賢者が心配そうにそう言ってくれて、魔法使いは幸せな気持ちになった。彼の言葉を聞いたルアグルが頷いて「こちらだ」と言いながら氷のシャンデリアが輝く大広間へ歩み入り、そして振り返って首を傾げる。


「そういえば、エルフは春の生き物だったね。ならば私の世界はとても厳しいのではないかい? 深く深く冷えるように作ってあるからね」

「とても……眠くなるよ。この雪の世界は、君が作ったの?」

 眠気と戦いながら尋ねると、氷竜は頷いた。


「私は竜でありながら幻獣でもある存在だから、妖精達と同じようにこうして大きな世界の切れ目に小さな世界を作って、そこに巣を作るのだよ」

「それはとても……素敵だね」

「そうだろう。さあ、寝室に着いた。ここにはふかふかの羽布団があるからね、中へ潜ればきっとあたたかいだろう。少しお休み、何か果物を探しておくから、目が覚める頃に迎えに来よう」


 優しく言ったルアグルにもごもごと礼を言うと、魔法使いは氷の寝台に乗っている分厚いもこもこの間に潜り込んだ。ふわふわの感触と鳥の羽の匂いに眠気が押し寄せ、すぐに丸くなって目を閉じる。賢者が何か言っている声が聞こえたが、あまりに眠くてよくわからなかった。





 目を覚ますと、何か温かいものに抱きついていて、魔法使いは首を傾げながらそれに擦り寄った。温かいものがもぞりと逃げるように動くので、ぎゅっと抱きしめて無理やり頭をこすりつける。


「やめなさい、魔法使い」

「賢者」


 眠たそうな顔の賢者が、横たわったまま肩越しに振り返って迷惑そうにしていた。どうやら彼の背中にひっついて昼寝をしていたらしいことに気づいて、ふんわりとした幸福感が生まれる。


「はじめて、一緒に寝たね」

「……はしたない言い方をするな」


 何を言っているのだろうと思ったが、そういえば人間は伴侶か親子でなければ同じ巣で寝ないのだったと思い出した。そう思うと途端に特別なことをしている気分になって、いつの間にか黒いローブに着替えている賢者の背中にべったりひっつく。


「番みたい?」

「違う……仕方あるまい、ルアグルに『ふかふかはひとつしか無いよ』と言われたのだ。氷の上に座っていたのでは私も凍える」

「でも、番みたい?」

「断じて違う」

「目覚めたようだね」


 もこもこの中でひっついているところを見られた賢者が、この世の終わりのような顔で振り返った。しかしルアグルは人ではないので、群れの仲間で寄り添って眠っているのを見たところでどうも思わない。それに賢者も気づいたらしく、ほっと胸を撫で下ろして体を起こした。


「随分と長い間眠っているから、少し心配したよ。雪苺しか見当たらなかったけれど、食事の準備ができているからね」

「随分と? 具体的にどの程度だ」


 きっと泣いているだろう勇者を心配したらしい賢者がさっと青褪めたが、ルアグルは「さあ、私は人間と違って太陽の動きを数えたりしないからね」と言うばかりだった。起き上がると少し空腹でふらりとする。時間も方角も全てが狂っているような場所だからだろうか、眠っていたのは少なくとも一晩ではないだろう。

「仲間がいると言っていただろう? 遠くにいた人間達がこちらに向かっているのを見つけたから、起こしに行こうと思っていたんだ」

 けれどルアグルが続けてそう言ったのを聞いて、賢者は少し安心したようだった。彼は「感謝する」と堅苦しく礼を言って寝台を降り、まだ眠たかった魔法使いも苺と聞いて仕方なく食堂へ向かう竜の後に続いた。


「……ジャム?」

 氷を少し溶かしてしまったらしく、下半分が食卓に埋まっている鍋を見ながら魔法使いは首を傾げた。中では苺色をしたとろとろがぐつぐつに煮えていて、そこに木の匙が二本添えてある。


「体を温めたいと言っていたから、苺も温めてみたのだけれど……思ったよりも君達が長く寝ていたから、こんなになってしまったね」

「ありがとう、とろとろの苺はとても好きだよ」

「そうかそうか、それは良かった」


 おやつだという氷の塊を美味しそうに噛み砕いているルアグルを見ながら、相当長く煮込んだらしいジャムをひと匙含む。幸せを感じる甘さが口いっぱいに広がった。特別な土地に生える苺は特別栄養豊富なのか、一口でもう飢餓感が消え、指先があたたまってきている。耳を倒して味わっていると、子供を見るような目で竜が見つめてくる。賢者は食べながらルアグルに異界の作り方について詳しく尋ねていて、どうやら細かいものを作るのが好きらしい氷竜が丁寧に答えてやっていた。


 そして食事を終えて大広間に出ると、ルアグルが竜の姿を見せてくれた。キラキラと青みがかった白に輝く鱗がとても美しくて思わず尻尾を撫でると、嬉しそうにグルグル唸って「気に入ったようだね、小さなルーウェン」と言う。ものすごく大きくて、ガズゥ達とは違って大きな翼と別に前脚がある形をしている。片方の角が折れているので彼も竜らしく戦う生き物ではあるのだろうが、今こうして接している分には穏やかで綺麗で、小さなものが好きな優しい存在だった。





 勇者達だと思われる人間が到着するのに合わせて洞窟の外に出ると、エルフ姿に戻ったルアグルが洞窟から崖の上まで繋がる長い長い氷の階段を作ってくれた。彼は「上がった先にひとつ冷えていない洞窟を作っておいたから、もう少し遊んでゆくならそこを使いなさい。帰りは私を呼べばいいからね」と優しく言う。


「美しい時間だった……これは礼だ」

 ぼそりと言った賢者が魔法陣を描くと、大きな氷の薔薇の木がするすると伸びて大輪の花をいくつも咲かせた。彼は誕生日に神官からもらった花を大変気に入ったらしく、枝や葉も見たいと思ったのか、密かに株を育てる練習していたのを魔法使いはこっそり見て知っていた。


「なんと……なんと繊細な……!」

 そんなものを贈られたルアグルは、精緻な細工にすっかり夢中になって周りが見えなくなってしまったので、魔法使い達は綺麗な銀色の髪を少し撫でてから階段を上り始めた。凝り性らしく滑らかに磨かれた手摺りがあったので、足を滑らせても落っこちる心配はない。谷を覗き込んだりしながらのんびり進んでいると、崖の向こうからものすごい速さで階段を駆け下りてくる人影が見えた。


「勇者」

 腕を広げて待っていると、前も見えないくらい泣いている勇者が飛び込むように抱きついてきた。何か言っているが、瞳が溶けそうなくらい激しく泣いているのでさっぱりわからない。


「ごめんね、心配したね」

 頭を撫でると、更に泣き声がひどくなった。勇者は泣きながら賢者のマントにも手を伸ばし、引き寄せると二人まとめて抱きしめて更に泣いた。


「わかったから、上へ戻ってからにしなさい」

 勇者の背中に腕を回してやりながら、賢者が言った。それでもまだしくしくしている彼と手を繋いで、崖の上まで上る。と、その先にハイロ一人しかいなかったので、きょとんとして勇者の顔を覗き込んだ。


「神官と吟遊詩人はどうした」

 賢者がそう尋ねると勇者が再び泣き崩れたので、ハイロの方を見る。彼女の方は事情を聞いていたらしくしっかり説明してくれたが、その内容の突拍子もなさに再びきょとんとした。


「フェアリだったのだな? そして彼らの国に行くと、妖精はそう言った。何日前だ?」

「……十日前。お前達が崖から落ちてすぐ」


 その言葉を聞いて賢者は一瞬気の毒そうに勇者を見つめたが、すぐに眉を寄せながら腕を組んだ。

「ならば一つ、試すべき術がある」


 ルアグルの作った「冷えていない」洞窟に移動して──本当にあまり寒くなくて、魔術で簡単にほかほかになった──難しい顔をした賢者が空中に水晶の欠片で大きな円を描くのをじっと見つめる。魔法使いが描くのと違って完璧に整った美しい丸の出来栄えにひとつ頷いた彼は、流暢な妖精語フィアレで歌うようにこう唱えた。



  苺の飴に鷹の羽

  薔薇の花弁と蜂の蜜

  緑柱石の妖精フィルルに

  楽しい遊びのお誘いを



 すると、不思議なことが起こった。くらっと目眩のように場の魔力が揺れて、何の紋様も描かれていない円の中がきらりと虹色に輝いたのだ。





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