二 黒竜 前編



 竜の住まうという伝説の地を前に気持ちははやるが、一行は険しい岩山の道のりを慎重に慎重に休息を取りながら進んだ。例えどんなに性能が良くても、流石に義足の賢者に無理はさせられないからだ。彼は春の間にかなり歩き慣れて走ったり木に登ったりもできるようになったものの、エルフの森の柔らかい草の地面とこの岩場では、歩き方も疲れ方も痛め方も何もかもが違う。また一から少しずつ、時間を掛けて丁寧に慣らしてゆく必要があった。


 我らが癒し手殿も同じように考えたらしく、彼は勇者が声をかけずとも「勇者、疲れました!」とにこにこ顔で頻繁に言っては休憩の時間を作ってくれた。しかし彼がこまめに時計を取り出して歩いた時間を計っていたのがどうやらばれていたらしく、三回目のあたりで「下手な嘘ではなく、医師として休むよう指示すればよかろう」と呆れた顔で言われてしまっている。


「そんなに見下した顔をしないでくださいな……貴方の強がりたい気持ちを汲んで差し上げようかと思っていましたのに」

 簡単に演技を見抜かれふてくされた顔で神官が言う。すると賢者は深々とため息をついた後、本当に珍しくテントウムシ一匹分くらいは口角が上がっている優しい感じの苦笑になって答えた。

「岩山なぞで無理をすれば早々に背負われることになると、私とて把握している。加えて……そなたらが頻繁な休息を必要とする私を少しも重荷と思わぬことも、わかっているつもりだ」


「わ、賢者が懐いた──痛い! 耳は痛いって!」

 賢者も随分丸くなったなと思った勇者が口を開く前に、ぎゅっと耳を引っ張られてしまった吟遊詩人が翅をバタバタさせて暴れた。


 それは口に出せば怒るだろうにと笑っていると、慌てた様子で空中に逃げ出した妖精が賢者に向かって怒った顔をして見せてからこちらを向いた。腕を出すとぶうんと小さな羽音を立てながら飛んできて腰掛ける。鳥みたいでちょっと可愛い。


「酷いよ、ほんとのことなのに」

 頬を膨らませて拗ねている少年の耳がちょっと赤くなっているのを見て、大人げなさすぎだろうと勇者は吟遊詩人に少しだけ味方することにした。

「まあ確かに、旅立ったばっかりの頃と比べると考えられないくらい懐いたよな……賢者は、痛い! 痛いって!」


 間髪入れずに勇者まで耳を捻り上げられた。慌てて飛び退って耳を押さえると、賢者は先程までの笑顔が嘘のようにすっかり心を閉ざした顔になってしまっている。やってしまったと思った勇者の視線を追いかけた神官が、こちらに向き直ると子供を叱るような顔になって腕を組んだ。


「ほら……あなた達が意地悪をするから、また賢者が殻に籠ってしまいました」

「……ごめんなさい」


 吟遊詩人がちょっと笑いを堪えきれていない顔で謝ると、賢者は神官を鋭い視線で睨みながら顎を上げて尊大に「許す」と言った。すると事態の収束を感じ取ったらしい魔法使いが「お昼寝の時間だよ」と言って、賢者の手を取ると木陰まで引っ張った。大人しく連れて行かれた賢者が本を取り出しながら木の下に腰を下ろすと、魔法使いがその膝に頭を乗せて横になり、空が淀んで薄暗いとはいえいつもの昼下がりの穏やかな光景が──と思ったその時、幸せそうに昼寝を始めようとしていた魔法使いがぴょんと飛び起きて勇者のところまで風のように走ってきた。


「どうした」

「何か大きなものが飛んでいる音がする」


 さっと耳を澄ませたが何も聞こえない。警戒心の滲むエルフの囁き声に、吟遊詩人が素早く目隠しを首元まで押し下げて顔を上げた。鋭い目で周囲をぐるりと見回し、北西の空──つまり竜の山の方角へ視線を向けた瞬間、ビッと震え上がるように翅を緊張させた。


「何が見えた」

「竜が来る。大きい……流石に海竜ほどじゃないけど、体長が魔竜の数倍はある。たぶんファントースム号と変わらないくらいだ。飛ぶのも速くて、ここまで来るのにもう数分しかない」

「全員そこの岩陰に隠れろ! 荷物はそのままでいい。魔法使いは擬態をかけて、呼吸の音と匂いを隠せ」


 押し殺した声で指示を飛ばすと、皆がさっと立ち上がって勇者の示した岩陰に走った。勇者が最後に皆を庇える位置に滑り込むと、ゆらりと空気が揺らいで全員の姿がかき消える。賢者が小さく呪文を唱える声がして、鐘の音がぐるぐると渦を巻くような変な鳴り方で鳴った。おそらく不器用な魔法使いの代わりに音や空気が外に漏れないようにしたのだろう。魔石を取り出す暇も惜しんだのか、手を握られてしまったエルフが「そんな……僕、僕」と顔を赤くして呟いている。


 それから体感で三分も経たないうちに、切り立った岩山の向こうから鳥肌が立つような気配が現れた。まだ遠くに小さく竜の形が見えるくらいの距離なのに、ビリビリと威嚇するような強大な魔力が感じられる。勇者は思わず息を殺して気配を消しかけ、気配の扱いなんて微塵も知らない背後の仲間達を思い出し、ぐっと体内に内炎魔法巡らせた。万が一魔法が見破られた時は、自分が一番目立たなければならない。ここからでもわかる。あれは人間の敵う相手ではないが、それでも守りきらねばならない。


 それは巨大な黒竜だった。炎を吐く赤いワイバーンや凍てつく魔法を使う氷色の竜と違って、黒い竜は酸の息を吐くらしい。岩をも溶かすというそれに、果たして術の盾は保つのだろうか。魔獣ではないのだから、浄化の炎では消し去れない。魔法を弾くという竜の鱗に、青い炎の力はどの程度効くのだろうか……いや、ぐんぐん近づいてくるあいつは見るからに魔法使いよりも魔力が多い。あんな生物に勇者程度の魔法なんて効くはずがない。


 ならば、どうしたらいい? 勝つのは無理だ。どうしたら退けられる? 本当にこの程度の擬態で見つからずに済むのか? 匂いは本当に隠せているか? 逃げ切れるのか──?


 考えても結論が出ないまま、巨大な影が空を覆った。目測だが、胴体だけで海賊船と同じだけの大きさがある。つまり両翼と尻尾を入れるとその比ではなかった。鷲のような金色の瞳がぎょろりと地上を睥睨し、ああ、勇者達の隠れている岩場のすぐそばに舞い降りようと翼を大きくはためかせ始めた。地上に吹き下ろすその風で、置いてあった荷物がころころと遠くへ飛ばされてゆくのが見える。吟遊詩人の手がぎゅっと勇者の腕を握った。小さく震えているその手を上から握って、大丈夫だと虚勢を張った視線を送る。


 竜は大きな地響きを立てて地面に舞い降り、散らばる荷物に見向きもせず、漆黒の翼を畳みながらまっすぐにこちらを見つめた。その瞳は縄張りへの侵入者を軽くどかしてやろうという、警戒でも敵意でもない、ただ掃除でもしておこうかというごく軽い意思しか見えない。竜はゆっくりと巨大なあぎとを開いて、その中にずらりと並ぶ牙はおそらく一本一本が吟遊詩人の身長を超えていた。ダメだ、これは敵わない。どうやったら、どうやったら仲間達を逃がせる?


──また『冒険家』とやらか……全く、人間如きに我が宝は決して奪えぬと、何ゆえ覚えない


 唐突に、低い低い唸り声混ざって頭の中に直接意思のようなものが轟いた。竜が一歩こちらに踏み出してちらりと視線を投げると、勇者達の周りを覆っていた魔法が全て引き剥がされて砕け散る。勇者が仲間達を守ろうと聖剣を抜いて立ち塞がり、金色の巨大な瞳がそれをじっと見た。


──ふむ、脆弱なれど、己が群れを守ろうという気概はあるようだ


 話が、通じるかもしれない。


 そう思った勇者は、この巨大な竜に何と言葉をかけるべきか必死で考えを巡らせた。しかし焦るあまり考えが纏まらず、そのことに更に焦ってどんどん悪循環に陥ってゆく。段々と内炎魔法の巡りが早くなって、爪先が深く地面を抉った。


 とその時、背中を誰かの手が優しくポンと叩いて、勇者は息をすることを思い出したようにハッと我に返った。


「……宝物を、とったりしないよ」

 魔法使いが勇者の背中から少し顔を出して、震える声で竜に囁きかけた。すると竜が魔法使いに視線を向け、それを遮るように勇者が間へ入り、賢者がさっとエルフを抱き寄せてマントの中に隠す。


──花に、蜂に……一匹は何かわからぬが、確かに善良なものを連れておる。人の子よ、ならば何ゆえ我が領域に踏み入った


「伝説の竜王に会ってみたかったんだ!」


 咄嗟に勇者が声を上げると、竜は妖精達からこちらへ視線を移した。その目つきから、すぐに侵入者を排除しようとする意思が薄らいでいる気がする。このまま、このままなんとか逃がしてもらえるよう交渉したい。


──宝を奪いに参ったのではないと


 頭の中に響く言葉と同時に、腰が抜けそうなほど低い唸り声が轟く。仲間達は皆立てなくなってしまったのか、勇者のマントにしがみついて座り込んだまま震えていた。助言を求めて賢者に視線を投げたが、小さく頷いただけで何も言ってこない。まさか勇者の好きに話していいと、そういうことなのだろうか? しかしそんなことを言われても困る。


「見せてくれるなら見てみたいけど、欲しいとは思わない」


 とりあえず思いついたままそう言うと、巨大な黒竜は酸の匂いがする鼻息を漏らして背後のエルフに意識を向けた。


──花の幼子よ、真に無欲か?


 どうやら人間は疑わしくとも、妖精の言うことならば信じられるようだった。勇者がよしと思いながら魔法使いをちらりと振り返ると、なんということだろう、黒いマントから顔だけ出した可憐な花の精ははっきりと首を横に振るではないか。


「ううん、そんなことはないよ」

「おい!」


 何を言ってるんだと慌てふためきながら竜に向き直る。しかし竜が何か言おうと口を開きかけたのと同時に、魔法使いが言葉を続けた。


「針葉樹はね、うさぎのような女の子をひとり、とてもとても愛していて……番にしたいと願っているんだよ」

「魔法使い、今そんなことは関係ないだろ」

 急になんてことを言い出すんだ、とちょっと顔を赤くしながら抗議する。


「でも、君は無欲ではないよ。ファーロを番にしたいし、仲間を守りたいし、世界を救いたい。とても優しい欲を、たくさん持っている」

「いや、今は竜の宝の話だって」


──宝を奪って、愛する雌に貢ぐつもりなのではないか?


 疑わしげな竜の言葉が届いた。


「ほら見ろ! 疑われたじゃないか──竜よ、俺はそんなことしない!」

「うん、そうだね。ファーロはとても優しい生き物だから、誰かの宝物を略奪するような人間は愛さないもの」


──宝を奪えば、愛するものが逃げると……そう言っておるのか? 竜とは真逆の気質だ


「そう。人の子は竜ほど強さに心奪われないから、身を守る以上の力を見せることをいとう個体もいるんだよ」


 魔法使いが頷くと、どうやら竜はそれで納得したようだった。少し脅すように開きかけていた翼を完全に畳み、持ち上げていた長い尾を地面に下ろす。しかし、簡単に言葉を鵜呑みにした感じは全くしない。彼らが本心で話しているのかどうか全て見抜いた上で判断しているような、そういう感じの目をしていた。何もかも見透かしているような瞳は、灰色になった時の賢者の視線の雰囲気に少し似ているかもしれない。もしかして、繊細な月色のエルフが怯えながらも普通に竜と会話しているのはそれが理由なのだろうか。


 竜が納得した様子で再び翼を広げ、立ち去る様子を見せた。それを安堵半分、警戒半分で見守りながら、とにかく早く帰ってくれと勇者は願った。こんな生き物と友達になりたいなんてとんでもなかった。生きる世界が違う。彼らにとって人間なんて羽虫のようなものでしかないのだ。


「好奇心で縄張りに立ち入って、すまなかった」


 去りゆく竜へ、最後にそう声をかけた。竜が振り返って「それほど我と我が宝は魅力的であったか」と言うので、それには心の底から「ああ」と一言答えた。


──ふむ、そうか。それほど魅力的であったか


「え、うん」

 何やら大変満足そうに唸るので、ご機嫌取りに頷いておく。すると竜は大きな翼をばさりと広げてこう言った。


──妖精の子らよ、背に乗りなさい。特別に、我が宝を見せてやろう


「は?」

 きょとんと目を丸くした。尻尾を揺らしてちょっと嬉しそうに見えるのはもしかしなくても、実は宝を自慢したくて堪らないのだろうか。


 思いもよらない展開に喜べばいいのか怖がればいいのかわからず仲間達を振り返ると、すごく遠い目になった神官が一言「ご招待に預かったのですから、伺いましょうか」と呟いた。





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