二 でかいムカデとでかいカラス



 黒々と光る巨大な頭に、太くて長い触覚。牙のような形をした、いかにも強そうな顎……いや前脚だろうか? それともやっぱり顎? 大きな瞳が雪原を映してキラッとしたが、いかんせん虫の顔なので敵意の有無はわからない。


「賢者……でかいけど、頭を落とせばいいよな? 生態は普通のムカデと一緒か?」

 勇者が気を取り直して表情を引き締めながら問うと、背後から少し遅れて「……地走りだ。毒がある」と静かな声が聞こえた。


「弱点はあるか」

 目の前のムカデは今のところ、大きな目でこちらを見るばかりで穴から出てくる様子はない。それをじりじりと睨みながら賢者に重ねて問う。しかしどうしたことだろう、いつものように間髪入れない的確な助言が返ってこない。


「おい、賢者?」

 勇者は視線だけをちらっと背後に向け、そしてすぐに目を丸くして肩からしっかり振り返った。賢者がローブの袖で口元を覆い、巨大ムカデのもぞもぞ不気味に動く顎をじっと見つめながら、心なしか顔色を悪くして後ずさっている。


「賢者、どうした? これ、そんなにやばい奴なのか?」

「……いや」

「ねえ、前からちょっと思ってたんだけどさ……賢者って虫が怖いんじゃない?」


 吟遊詩人が少し面白がるような声で言った。常の彼ならば怒るか皮肉を返すかするような質問だが、賢者は見開いた視線を貼りつけたように地走りというらしい虫に固定したまま、上の空で小さく頷いた。


「あれ、素直だね」

 少年が拍子抜けしたように言う。巨大な虫はむしろ好きであろう魔法使いがさり気なく賢者の前に出てその視線を遮ろうとしたが、賢者の方が頭ひとつ背が高く、さして効果はないようだった。


「おや、意外な弱点ですね」

「あれ、神官は大丈夫なの?」

「虫は、群れていなければ平気ですね」

「あー、うじゃうじゃいるのは僕もやだな」

「……とりあえず、ただのでかいムカデだと思って戦うぞ」


 呑気に雑談を始めた仲間達に呆れながら勇者が言ったが、しかしその時賢者が凍りついたような視線をそっと勇者に向け、掠れた声で「……逃げよう」と囁いた。

「戦わずとも……脚はそう速くない。こちらを獲物と思う前に、逃げよう」


 その高い知能でもって不利を悟った、わけではなさそうだった。今だけは賢者より愚者に近いかもしれない男が、顔を真っ青にして勇者を縋るように見る。


「あー、わかった。じゃあ魔法使い、あいつの前に氷の壁を作れ。雪を溶かせるレタが先頭。次が賢者、最後がお前だ。いいな?」

「……うん」


 事が起きたのは、魔法使いが手を振り上げて氷の壁を育て始めた時のことだった。勇者もちょっと驚くくらい唐突に、強い魔力の気配に反応したらしいムカデが一気に穴から這い出て、わじゃわじゃとたくさんある脚を波打つように動かしながら氷の壁を駆け登ってきたのだ。


「うわあっ!」


 賢者が聞いたことのない裏返った声で悲鳴を上げて飛び上がった。こいつはもうダメだと思いながら、勇者は飛び出して襲いかかってきた巨大な顎を受け止める。が、剣や槍と違ってがぶりと四方から咬める形をした顎はがっしりと聖剣を掴むと、いとも簡単にばきりとその先端を折り取ってしまった。


「げっ!」

 透明なオリハルコンの破片がキラキラと光りながら雪の上に落ちる。そういえば、切れ味が良い代わりに恐ろしく砕けやすい剣なのだった。先端が無いと突き刺せないなと思いつつ、しかし毒があるので腕で掴んだりするわけにもいかない。


「あっ、そうだ! ええと、フルム=スクラ!」

 左腕に盾の術を纏わせて、その盾でとムカデの頭を殴った。平べったいので大した威力はないが、それでも所詮虫の力なので簡単に頭を仰け反らせる。その隙に首の節目を狙って折れた剣で頭を切り飛ばした。どさっと巨大な頭部が落下するが、まあムカデなので頭が千切れてもしばらく脚は動き続ける。それを見てしまった賢者が一瞬ふらっとして、慌てて寄り添った魔法使いにくたりと寄り掛かった。


「ルーフルー……」

「すまぬ……もう少し、このままで良いか」


 身を寄せられて恥ずかしがるかと思ったが、魔法使いはただ心配そうに賢者の頭をそっと撫でた。常ならばそれをすぐさま押し退ける賢者は顔を真っ青にして手のひらでしっかり口を覆い、吐き気を堪えている。


「……そんなに嫌いだったんだね、虫」

 普段冷静な賢者がただのでかい虫に怯えに怯えているのを笑っていた吟遊詩人も、流石に気の毒になってきたのか少し反省した顔で背中をさすってやっている。


 と、その時だった。さっと純白の地面に影が落ちたかと思うとバサバサと翼の音がして、勇者達は慌てて頭上を見上げた。見ればなんと、馬鹿でかいカラスのような黒い鳥こちらに向かってが舞い降りてきている。どうやら遠くの高い木から一気に急降下してきたらしく、虫と賢者に気を取られていて誰も気づいていなかった。慌てた勇者がさっと剣を構え直すが、しかし巨大カラスは彼らには目もくれず、雪の上をぴょんぴょんと歩くとまだ動いているムカデの胴体の端をぱくんと咥えた。


「あ、そっちか……」


 カラスは魔竜より小さかったが、子竜のガズゥと同じくらいの大きさはあった。がしかしそれでもムカデの胴体の方が長いくらいで、重そうにムカデの残り半分を地面の穴から引きずり出すと、暴れるように激しくくねるそれを嘴でつつき回す。


「し、神官……賢者が吐いた」

「おやおや、おかわいそうに」

 泣きそうな魔法使いの声に少し笑っている神官の声が応え、すぐに浄化の気配がした。


「はい、綺麗になりましたよ……勇者、しばらくそこで目隠しになっていてくださいな。移動は少し休んでからが良さそうです。聖剣の欠片も集めねばなりませんし」

「わかった」

「大丈夫だよ……きっとあの鳥が、虫を持って行ってくれるからね……黒いから、すずめではないけれど」

「……千年鴉だ。寿命は五十年だが」


 嘔吐した直後だからか薄っすら涙に潤んだ瞳で賢者が魔法使いを見上げ、まあかなり盲目的に解釈すれば熱い眼差しに見えなくもないそれを目にしたエルフが胸を押さえてよろめいた。


「後で……後で果物をあげようね。冬苺の気配がするから」

「頼む、ルーウェン……」


 彼はどう考えても吐いた後の口直しを欲していたが、鳥のように果物の給餌を求婚の作法としているらしいエルフは最高にときめいてしまったらしく、そのままふらっと倒れて雪の中に落ちた。思わず笑ってしまったが、よく考えると絶望的に鈍感な想い人に振り回されてばかりの妖精がそろそろ可哀想かもしれない。


 そう──勇者がそうやって仲間を見て笑っていたから、あんなことになったのだった。勇者は後になってその油断を繰り返し悔やんだが、しかし後悔先に立たず、今の彼にはどうしようもないことだった。


 吟遊詩人が「ああっ!」と叫んだのを聞いて振り返ったが、既に遅かった。でかい獲物を嘴で運ぶのは無理だと判断した巨大カラスが、満足げに一声鳴くと普通のカラスより猛禽めいた鋭い鉤爪の足でしっかりとムカデを掴み、そして「あ、嘴が空いたな」みたいな顔をする。


 その時、雪の上にきらりと光るものがあった。美しく透き通り赤金色に輝くその欠片を大きなカラスはハッとした様子で見つめ、そしてそれを巣に持ち帰って宝物にしようと素早く嘴に咥えた。


「あ、おい!」


 大きな黒い鳥があっという間に空へ舞い上がる。巨大な虫ときらめく宝を手に入れた彼は、ご満悦で広大な森のどこかにある巣へと帰っていった。





 唖然としたまま去ってゆく鳥を見送り、そしてゆっくりと仲間達の方へ目を向けると、勇者は困惑しきった情けない声で尋ねた。

「なあ……聖剣ってさ、勇者から奪おうとすると魔力を吸われて死ぬんじゃなかったか?」


「あれは欠片ですし……それに奪おうという気がなければ、あなたの手から受け取ったりもできますから。過去にも竜に奪われて打ち直したという例がありますし、邪念のない動物には効果がないのかもしれません。例えば『神罰』は、罰を受けたことを悟れる知能を持った生き物にしか与えられないと言われていますけど……聖剣が魔力を吸うのも、その特性を考えればある種の神罰と捉えた方が自然ですからね」

「ああなるほど、それも神罰なのか……いや待て、打ち直した? これ、ラサが持ってた聖剣とは別のものなのか?」


 ぽかんとしたまま尋ねる。木々の上を超えて飛んでゆく鳥を追った方が良いのはわかっていたが、奴がふたつ山を超えたくらいで吟遊詩人の目にも追えなくなっていた。途方に暮れたまま取り敢えず残りの小さな破片を鞘に放り込み、折れた剣を上から挿す。


「ええ。少なくとも過去に三度、聖剣は失われたと言われています。滅びの勇者の代に一度、竜に奪われたのが一度、海に落としたのが一度。その度に新しいものが鍛え直されています」

「光と闇の神様が、新しいのをくれるのか?」


 あの本の夢の中で、聖剣を鍛えたのは渦神ではなく、最高神である光の創造神とその伴侶である闇の女神だと魔王が言っていた。果たしてそんなすごい神様が、そう簡単に新しい剣をくれるだろうか?


「正確に言えば違います。聖剣は神ご自身が腕を振るって鍛えられるのではなく、勇者、あなたが魔王を倒す役を与えられたように、聖剣を鍛える使命を与えられる者が現れるのです」


 要するに、聖剣が何らかの理由で失われると、ある日突然銅と水晶の混じり合った炉では決して作り出せない不思議な金属が発掘され、そしてある日突然、誰にも扱えないそれを鍛えることができる鍛冶師が神託を携えて現れるらしい。


 それは面白いなと思ったが、しかし半日鞘の中で寝かせておいた聖剣は少し短くなったもののちゃんと剣の形に戻ったので──まあ重さが変わって少々調子が狂うが、魔王と戦わなくて良いとわかった今、使命を果たすのに剣の長さは関係なかろうと、ひとまずそのまま放っておくことになった。魔法使いが悲しげに「鳥から……集めていたきらきらを、取り上げてしまうの? あの子はとても素敵な宝物を見つけた目をしていたよ」と囁き、それにすごい勢いで神官が同意したのもある。


 でもなあ……なんか、それじゃいけない気がするんだよなあ……。


 場所を変えて再び夜営のために天幕を張り、しかし一人外に出て夜の闇を眺めながら勇者はそう考えていた。


 たぶん俺にはあの長さが一番合ってて、戦いやすくて……そのことに何か意味があったような、そんな感じがする……。


 やはり朝になったら仲間に相談してみようと勇者が考えた時のことだった。突然目の前にふわりと星空のような光景が広がって──はじめは魔法使いが天幕から出てきたのかと思った。しかし辺りを見回してもそこには勇者と馬達しかいない。闇に寄り添うように優しく光る、魔法使いの星よりも少し暖かい色をした星屑のような明かりが、真っ暗な森の中に向かって一筋の美しい道を作っている。

 それを見た勇者は一瞬その幻想的な様子に見惚れ……そしてすぐに天幕の方に向かって大声を出した。


「あ、え……あっ、賢者! 賢者!」





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