五 崩壊



──もしかして、北の果てまで来たんだろうか


 シダルがそう判断した理由を「いかにも『果て』っぽい景色だから」と賢者に話したら、馬鹿にされるだろうか。もっと周囲を見渡してその空気を感じたいのに、ラサは真っ直ぐ前を見るばかりであまりよそ見をしない。これでは仲間に満足ゆく報告ができないじゃないかと、彼は内心で少し唇を尖らせた。


「すごい瘴気だ……」

「そうね……ここまで強い気配だと、ちょっと怖い」

 ラサの言葉に、妹のレヌが答えた。瘴気というのは、確か淀みと同じものを指すんだったか。


 この勇者は妖精の目を持っていないらしく、北の果ての地にも黒い靄が見えることはない。そしてそれが気配として感じられるほど、この体は感覚が強くなかった。どこか物語を読んでいるように、というかそのまま物語なのだが、彼らが恐れているほど異様な雰囲気は感じられない。


「これも……魔獣なのか?」

 ふっと時間が飛んで、目の前に大きな黒いもこもこの塊が見えた。おそらく、先程遠くに見えていた丘のようなものの正体だろう。いつだったか妖精が愛でていた丸い毛虫を馬鹿でかくしたような、勇者の村の家よりだいぶ大きい毛玉がのっそりと歩いている。丸い瞳は赤い色をしていたが、そこに威嚇の色はなく、ただ何を食べるでもなく穏やかに口をもぐもぐさせているばかりだ。


──魔法使いが好きそうな動物だな……


 大人しそうなのでちょっと撫でてみたいと思ったが、ラサ達の誰もそれを触ろうとはしなかった。あちこちにいる毛玉を不気味そうに眺め、襲ってこないのを見るとすぐに魔王の城はどこだと探し始める。


──もう帰れないんだから……もっと楽しめばいいのに


 国に帰ったらどうしたいではなく、どうして今を楽しむ話をしないのだろう。これから魔王に負けて全滅するのであろう勇者達が哀れでならず、シダルはすっかり気落ちしていた。しかしその時、腹の辺りにぞわっとした感触が走って思わず笑ってしまう。


──そういえば向こうはそろそろ真夜中か……あいつ、俺の腹を枕にして寝る気だな?


 いつもは気持ち悪くて身をよじってしまう花の魔力だが、今はこのぞわぞわが愛おしかった。できればそろそろ終盤に差し掛かったこの物語が終わるまで、彼にはそこで眠っていて欲しい。仲間の気配に触れていると目の前の彼らが遥か過去の物語だと実感できて、ほんの少し悲しさが和らぐのだ。


 ラサ達は地図を慎重に確認しながら更に北を目指して歩き、魔王の城を見つけ出そうと頑張っていた。しかし見渡す限り地平の彼方まで見事に何もなく、段々と不安が強くなってきたようだ。


「瘴気の濃い方へ向かえばいい。そう信じよう……レヌ、大丈夫か?」

「少しキツいかも……ファナ、浄化してくれる?」


 どうやら勇者の妹で花持ちのレヌが、軽い淀瘴にかかったようだった。騎士に背負われ、神官に浄化されながら頑張って顔を上げているが、相当顔色が悪い。人間が花の魔力を持つことなんてあるのだろうかと思ったが、シダルやラサが渦持ちなのと同じようなものかと考えて納得する。

「少し休もう。このまま進み続けてもいつ辿り着くかわからん」

 妹を心配した彼がそう言った時だった。


「──勇者! 勇者だね!? ああよく、よく来たね!」

 突然背後から焦りに焦ったような男の声が聞こえて、ラサ達は飛び上がった。聖剣を抜きながら振り返ると、人に似ているが人ではない、エルフでもない、不思議な容姿の人物がこちらに駆けてくる。灰色の肌に灰色の髪、エルフより短い尖った耳、フラノに似た金の瞳、伸ばした手には鋭い金の爪──何の種族だろうか。

「魔族……か?」


──ああ、魔族。なるほどな……いやしかし、それにしちゃえらく友好的だが


「もちろん、そうだとも。さあ早く、魔王様はこっちだ! 急いで、もう二日と保たない。ああ、本当に良かった、神よ感謝します!」


──あ、ほんとに魔族だった


 魔族だという灰色の痩せて小柄な男がさっと腕を振ると、くらりと場面が変わって暗い洞窟の中にいた。

「転移の魔法じゃと? そのような、絵空事でしかない術を簡単に……」

 場面が飛んだのかと思ったが、どうやら違うらしい。今はちゃんと彼本人らしいバローグが動揺した声で言う。それを聞いた勇者は一度心の中でふふんと笑って賢者の自慢話を考え始めたが、しかし物語が大変良いところなので、いやいやそんな場合ではないとそちらに意識を戻す。

「さあ、玉座はこっちだ。早く、早くその聖剣で魔王様を討ってくれ!」


──魔王を、討ってくれ?


 罠を張っているような顔には見えない。ラサも相当に困惑しているようだが、この勇者は敵意を見せない相手に斬りかかるような男ではない。難しい顔のまま魔族の後をついて歩き、そして洞窟の壁を削って作られた玉座の間を訪れた。


 そこは美しい部屋だった。壁は高く四角く整えられているが、天井には鍾乳石が残ったままだ。灰色の石の壁面に金色の線で美しい紋様が描かれ、上から金色の旗のような細長い布が何本も垂れ下がって床にまで届いている。


 そしてその最奥に据えられた灰色の玉座に、魔王が座っていた。


「よく来ましたね、勇者。さあ、私をお討ちなさい。聖剣に魔力を込めて……心臓はここです。この真上に、真っ直ぐ突き立てて。恐れることはありません、もう痛みなど感じない体になっていますから、早く私を楽にしてくださいな」


 長い灰色の髪が滝のように流れ落ちる、たおやかな女性だ。ほっそりした腕をラサに向かって差し伸べ、そして己の胸にそっと手を当てる。その表情には安堵が滲んでいて──とても、世界を滅ぼそうとする邪悪な魔王には見えない。


 ぞっと、嫌な予感がシダルの背を駆け上った。今まで、ラサ達が弱くて魔王に力及ばなかったのだと思い込んでいたが、これは、これはもしかして……これから何が起きるのか、ラサの身に、そしてシダルの身に、どんな試練が訪れるのか。とても、とても嫌な予感がした。


「どういうことだ。己を討てとは、貴女は本当に魔王なのか?」

 ラサが厳しく問うた。頼む、違うと言ってくれとシダルは心で呻いたが、無情にも灰色の女性は微笑んで頷いた。


「ええ、魔王です。人が作り出す淀みを集めるために生まれ、世界の贄となるために育ち、あなたに討たれるために生きている、魔族の王です」


 そこから先は、賢者でなくとも話の予想がついた。淀みは魔獣が生み出しているものでも何でもなく、人間が憎しみ恨み妬むたびにその淀んだ心から生まれ、そして世界を穢していっているのだと魔王は語った。そして世界を滅ぼす力を持ったそれをひとところに──その強大な渦の魔力でもって魔王が己の身の内に集積させる。それを光と闇の神が鍛えさせた聖剣によって、それも淀みを生み出した人間の手によって刺し貫くことで、人は人の罪を許され世界は存続するのだと、彼女は語った。


「貴女を殺すなんて、そんなことできない……だって貴女は何も悪くないじゃないか。人に殺されるような悪いことを、何もしていないじゃないか。そんなの不条理だ、決してあってはならないことだ」

 そしてシダルの予想通り、ラサはそう言った。魔王は困った顔をして、懸命に彼の説得を試みた。しかしラサは決して首を縦に振らず、彼の仲間達も「勇者の言う通りだ、何か他に方法があるはずだ」と彼を強固に支持した。魔王はそれ以外に方法などないと、何度もなんども言った。自分が勇者に刺されなければ世界が滅びるのだと、もう時間がないのだと泣いて懇願した。


 決着のつかぬまま一晩が経って、そして、崩壊が訪れた。


 淀みの見えないはずのラサの目に、真っ黒な奔流が見えた。魔王の胸から吹き出すそれはあっという間に彼女の胸に穴を開け、しかし一滴の血も吹き出さず、その穴を広げるようにぼろぼろと、色のない灰になって崩れ落ちてゆく。魔王の濃い金色の瞳が悔しげに眇められ、苦しげに瞬き、そして諦めたように淡く微笑んで閉ざされた。


 その時シダルの精神に寄り添っていた水の気配が痛いほど強くなって、賢者が介入しようとしている気配を感じた。しかし心の蓋が閉められたように、彼を受け入れることができない。手を伸ばすこともできない悲哀や苦痛と同時に、これを彼に触れさせてはならないという強い思いが、救いを遠ざけた。


 悲鳴が聞こえて振り返ると、仲間達が死んでゆくところだった。身を守るようにかざした腕から色が抜け、崩れ、風に流される。友が、妹が、恋人が──ラサは発狂した。彼の身は渦の魔力によって守られ、未だ形を保っていた。しかし重篤な淀瘴汚染で、既に正気ではない。


「レヌ! ロノ! ルフラ! ……ファナ、ファナ!」

 仲間に駆け寄って灰を抱く勇者に、崩れゆく恋人がそっと身を寄せた。喉の崩壊が始まり、ひゅうひゅうと声にならない声で甘く語りかける。

「ラサ……大丈夫、少しも痛くありません。ああ、良かった……あなたが無事で。ねえ、天の国へ行けばもう私達の間には何のしがらみもありません。いつまでも待っていますから、あなたはゆっくりおいでなさいね」


 そうして儚く笑んだファナがざあっと崩れ落ち──もう何もわからなくなったラサに、声をかける者がいた。ラサ達をここに案内した魔族の男だ。彼は吹き出す黒に苦しそうにしながらも、魔王の灰をそっと撫でながら涙を流していた。


「淀みは……普段は人を醜く争わせるくらいだけど、あんまり濃いとこうして身を滅ぼしてしまうんだ。ここは爆心地だからね、渦を持っていない君の仲間がこうなるのは仕方ない……君のせいじゃないよ、勇者。こうなってしまった以上はもう思い詰めなくていい。人の世界は崩れてしまうから、君は魔族の集落に住むといいよ。大丈夫、人さえいなくなれば淀みはいつか消えてなくなるから、本当に世界が滅びるわけじゃないさ」


 それを聞いているのか聞いていないのかわからないラサは、しかしじっと、主君の灰をそっと手のひらに掬い上げて唇を落とす魔族を見ていた。そして自分の手の中の灰を見下ろし──そして背負った聖剣を慣れた動作で引き抜くと、黒く淀んだ魔力を込めて自分の胸に突き立てた。


 熱い衝撃と共に視界が真っ暗になって、どこかへ落ちていくような感覚がした。





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