八 空の街 後編



 神官が倒れるまでの経緯を説明した途端に賢者が顔色を変えて部屋を出て行ったので、勇者はそれを追いかけながら気が気ではなかった。


 賢者は床に倒れたままの神官の頬を叩いて声をかけ、彼がふにゃふにゃとした声で返事をしたのを確かめると、はあと大きく疲れたようなため息をついて勇者を睨んだ。

「……こやつをソファへ座らせろ。叩き起こせるようならば水を飲ませる」


 勇者が抱え上げると、神官は薄っすら目を開けて「なんですか、もう。せっかくふわふわのお布団で寝ていたのに」と呟く。

「それは絨毯だ」

 ソファに座らせ水差しから杯に水を注いで持たせると、彼は少し目を覚ました様子で大人しく口をつけ、そして顔を上げてにっこりと勇者に微笑みかけた。


「ねえ、あまいものが食べたいです、勇者」

「あ、ああ……ええと、街に買いに行けばいいのか?」


 困惑しながら急に我儘になった神官の相手をしていると、騒ぎを聞いてやってきた吟遊詩人がそんな勇者の言葉を聞いて深刻そうな顔で尋ねた。

「ね、街ってことはご飯を食べるにもお金を払わなきゃいけないんだよね? 僕、お金なんて持ってない……というかそもそもお金って触ったことないんだけど、買い物ってそんな簡単にできるもの?」

「俺はわからんぞ。村では全部物々交換だったからな」


 難しい顔になって顔を見合わせた二人が「困った時は」と彼を見れば、視線を集めた賢者は僅かに首を傾げて肩を竦めた。

「ある程度の路銀は用意してあるが、あまり期待はしてくれるな。私も市井での買物は経験がない」

「え、嘘……魔法使いと神官は?」


 少しずつ焦った顔になってきた吟遊詩人が問うと、酒でぼんやりとしている神官と素面で同じくらいぼんやりしている魔法使いが、揃って左右に首を振った。

「こ、この中の誰も街で買い物したことないってこと? ほんとに? え、どうするの? ていうかお金ってそんなに普及してない感じのものだっけ?」

「否、我々が特殊なだけだ。むしろこの中で経験があるならば吟遊詩人かと思っていたが」


 賢者の言葉に吟遊詩人が力なく首を振る。

「うちはさ。一応集落に商人は来るんだけど、支払いは纏めて族長がしてくれるんだよね」

「ふむ、そうか。まあ、品物の対価として硬貨を渡すだけだ。そう難しくはなかろう」

 軽く頷いた賢者はさして心配していない顔で勇者が背負っていた荷物の中からじゃらりと音がする革袋を引っ張り出すと、その中から銅貨を一掴みと銀貨を数枚ずつ、小さな袋へ小分けにし始めた。


「これが各自の財布だ。銅がクファ、銀がルヴァ。こちらの形が整っていない銅銭が十枚で円形の銅貨一枚と同価値。そして銅貨十枚で銀銭一枚、銀銭五枚で銀貨一枚。十二ルヴァ五十六クファならば銀貨二枚に銀銭二枚、銅貨五枚に銅銭──」

「待って待って! そんな一度に覚えきれないよ……買い物はしばらく賢者についてくことにする」

「では、今日のところは部屋で神官の様子を見ておきなさい。私と勇者で買い出しに出る」

「えっ、俺?」


 急に指名された勇者が少し笑顔になって聞き返せば、賢者は腕を組んで勇者を見下ろした。

「バンデッラーよ。その凶悪な金属の矢が入った矢筒を背負っているところを見るに、そなたには弓が必要であろう? それもそんな矢を放てるとなれば、どう考えても普通の弓ではない。まず間違いなく注文になるので行くならば早い方が良いが、武器屋は路地裏ゆえ少々治安が悪い。皆で出るのは明日まで待ちなさい」

「武器屋!」


 格好良い響きにわくわくしていると、吟遊詩人がそんな勇者にくすりと笑って頷いた。

「そうだね、僕も少し疲れたし……この状態の神官と魔法使いを二人置いてくのもちょっと心配だしね」

 賢者はそれに軽く頷き返すと、革袋の奥に手を突っ込んで目当てのものを引っ張り出し、勇者の財布にチャリンとキラキラ光る金貨を二枚加えた。

「金貨はルト。一枚で銀貨百枚分に相当する。街なかでは使うな、スリや強盗を招く」


 そして彼は、財布を見ながら段々と首の捻りが大きくなっていっている勇者を見るとつまらなさそうに目を細めて、丸くて平べったい銅貨一枚に少し歪んだ形をした銅銭三枚を手のひらに乗せた。

「これでパン一つ分だ」

 勇者は賢者の手のひらの銅貨と財布の中に見えている金貨を見比べて山積みのパンを想像したが、価値の大きさはよくわからなかった。





 騎士の案内で歩いた宿までの道はやはり少し緊張していたのか、賢者と二人で街へ出ると先程より周囲の様子がずっと気になった。


「なあ、あの屋台──屋台だよな? あれは何の店だろう」

「果物の菓子だ」

「あ、甘いものか! 帰りに神官に買って帰ろう……じゃああれは?」

「パンに肉と野菜を挟んだ軽食」

「へえ、吟遊詩人が好きそうな食い物だな。あれは?」


 賢者は非常に面倒そうな顔をしながら勇者が指差した通りの向こうの屋台を睨むと、深々とため息をついてベルトに下げている小さな鞄に手をやった。そこから薄いガラスの板が針金で繋いであるようなものを取り出すと、それを耳と鼻で引っ掛けるようにして顔に取りつける。


「何だ、それ?」

「眼鏡」

「めがね?」

「視力の補正器具」

「うん?」

「私は目が悪いのだが、これを掛けると遠くが見えるようになる」


 いかにもやる気のなさそうな声で返された説明に勇者は首を傾げた。

「目が悪い? いつもそんなのなくても普通にしてるよな?」

「歩くのには支障ないが、看板の文字を読むには少々心もとない」

「でも、薬作ったりしてるときもしてないじゃないか」

「近くは見える」


 神官ならばこんな時「よくお似合いですよ」とか言うのだろうが、針金細工のようなそれがあまりに見慣れない形をしていて似合っているのかどうかさっぱりわからなかったので、勇者はとりあえずその性能に関心だけしておいた。


「ふうん……にしてもやっぱり魔導具?って凄いんだな」

「魔導具ではない、ただのレンズだ」

「レンズ……豆にはとても見えないが、魔術で透明にしてるのか? ガラスかと思った」


 傾げた首を更に斜めにしながら勇者が言うと、一瞬立ち止まって信じられないという顔で振り返った賢者が、顔にかかった髪を耳に掛けながら囁いた。

「豆ではない……貴様は馬鹿か?」

「おい、そんな溜めて言わなくたっていいだろ? 大きさも厚みも丁度じゃないか。レンズ豆じゃないなら何なんだよ」

「大きさも? そなたの故郷のレンズ豆とは……いや、その話は後だ、長くなる。ほら、あの屋台は串焼きだぞ」

 あからさまに億劫になって話を逸らした顔だったが、眼鏡とやらよりも屋台の方が面白かったので勇者はそれで良しとした。


 その屋台に目を遣った勇者は、細い串に肉を刺して焼いているという串焼きが気になったので買ってみることにした。が、まずは賢者のやり方を見て買い物を覚えようと思っていた勇者の計画は、残念ながら全く上手くいかなかった。


「なっ、ななな何本でも持ってってください! お代なんていりませ……ひぃ!」


 ある意味予想通りというかなんというか、屋台の店主は賢者の顔を見るなり腰を抜かして声にならない声で叫び、財布を取り出しかけていた賢者は一瞬呆然とした顔になるとフードを目深に下ろして勇者の後ろに回り、すっかり黙り込んでしまったのだ。


「……すまないな、驚かせて。ちゃんと払うから、二本もらえるか?」

「え、あ……あ、お兄さん旦那の連れですかい? ……ええと、二本で十六クファです」

 勇者がちらりと背後を振り返ると、黒いフードの向こうから「銅貨一枚、銅銭六枚」と呟く声がした。


「……どっちがどっちだっけ?」小声で尋ねる。

「円形の方が銅貨」

「ん、わかった──はい、十六な。ここに刺さってるやつ抜いていいのか?」

「あ、はい。ありがとうございました……」


 呆然とした店主を残して屋台を後にすると、勇者は賢者に串焼きを一本渡してやりながら苦笑した。

「たぶんだが、買い物は俺がした方が良さそうだな……お、これ美味いぞ」

「そのようだな」

 感情のない声で答えた賢者は機嫌を損ねた顔をしていると思ったが、フードの中を覗き込んでみれば意外にも手にした串焼きを眺めて少し困った顔をしているだけだった。


「あー、どっか座るか? ほら、あそこの噴水……あれが噴水か、凄いな……いや、あそこ座れそうだぞ」

「……ああ」


 歩きながらものを食べるなどできないらしい賢者が噴水の縁に腰掛けて不器用に肉を齧るのを確かめると、小さな串焼き一本などとうに食べ終わっている勇者は腰に手を当てて大きな噴水のある広場を見渡した。


 広場に面した真っ白な建物には軒並み窓ガラスが嵌められていて、それが空を映して青くキラキラと輝いている。空を見上げれば、昼を過ぎて熱ささえ感じる日差しが一層強く光っていて、太陽を直接見ているわけでもないのに眩しさを感じた勇者は目を細めた。

 白い街に青い空、青い旗。そしてそこへ鮮やかにさんざめく人々の黄色や緑の服、店先に積まれた果物の熟れた赤色。命を感じる色がそこにあふれていた。


「きっとこんな良い天気だけじゃなくて、曇りの日も雨の日も、この街は綺麗なんだろうな──下の方の肉は歯で挟んで引き抜くんだよ」

「ああ」

 何に対して返事をしたのかわからない賢者は、周囲の町並みに目を遣ると手元に視線を戻し、串の下の方に残った肉を咥えて引っ張った。


「お前、何でも知ってるのに串焼きの食べ方は予測つかないのな」

「そうではない。どのように食しても口の端に脂が付着すると思っていただけだ」

「こんだけ旅してきて、まだそんなこと言ってるのか?」


 灰色のハンカチで丁寧に指先と口元を拭っている男に呆れた目を向けると、賢者は不愉快そうに目線を返して「そろそろ武器屋へゆくぞ」と立ち上がった。

「あ、おう」

 歩き出した賢者がちょっぴり困り顔で食べ終えた串を持っているので、苦笑いで取り上げてボロ布に包むと腰の鞄に入れる。


「……勇者」

「宿で捨てるから」

「……ああ」

 ほとんど無表情な中に「助かった」みたいな色が見えたので少し笑う。そのままぽつぽつと街の景色や何かについて話しながら歩いていたが、いい機会なのであの後色々あって訊けなかった質問を投げかけた。


「なあ、賢者」


 返事はないが、フードの下からちらっと視線を向けられる。

「吟遊詩人と話してたんだが……魔法使いが男か女かって、お前知ってるか?」

「知らぬ」

 簡単な答えが返ってきた。


「お前でも見分けつかないのか?」

「エルフは人と違い、性徴期に体格差が生まれぬ。つまり男性は変声せず、筋肉量も増さず、体毛にも変化が現れぬ。女性も曲線的な体型になることはなく、乳房が膨らむのは多くの哺乳類と同じく臨月から授乳期にかけてのみだ」

「つまり脱がなきゃわからないってことか?」

 そう尋ねると、凄まじく嫌そうな顔をして無言で頷いた。


「ふうん……じゃあやっぱり本人に訊くしかないのか」

「エルフに性を尋ねるのは失礼にあたる」

「……うん?」

 間髪入れずに忠告の声が降ってきて、首を捻る。


「エルフには社会的な性役割というものが存在しないそうだ。つまり彼らにとって性別とは共に子をなす伴侶にしか関わりのない情報で、尋ねるのは非常に私的で下品な質問とされる」

「えっ……なら、うん、気にしないことにする。吟遊詩人にも言っとく」

「そうしなさい」


 ルーウェンにしてみればとても不愉快な推測をしていたのだと教えられて恥ずかしくなった勇者に、賢者がおざなりな感じで「……本人ではなく私に尋ねたのは正解だったのではないか」と呟いた。


 気まずさで無言になったまま建物の間の細い道を通って路地裏へ入ると、どことなく空気が変わるのを感じた。壁はなんとなく薄汚れて灰色がかっていたし、何をするでもなく積み上げた木箱に腰掛けていたりする人の身なりも、よく見ればみすぼらしい。目つきが荒んでいる人間もちらほらいる。


 ほがらかな表通りと違って品定めしているような視線があちこちから突き刺さって勇者が少し身を固くすると、隣を歩いていた賢者が被っていたフードをストンと背中へ落とした。その途端に鋭い視線が一斉に逸らされて、道を塞ぐように座り込んでいた若者がさっと道を開ける。


「確かにここはちょっと……吟遊詩人や魔法使いは連れてきたくないな」

「ふん」

 あからさまに避けられて不機嫌そうになった賢者が鼻を鳴らすと、向こうの角からこちらを窺っていた数人の子供がさっと逃げていった。


「武器屋はこの先だ。偏屈なドワーフが営んでいる店だが、腕は王都の鍛冶屋より上だ」

「ドワーフ!」

 エルフに続いて本の挿絵でした目にしたことのない種族に胸を高鳴らせると、細い道の突き当たりに小さな灰色の家が見えた。看板は無かったが、木の扉に乱暴な筆遣いで剣の絵が描き殴ってある。


「あれか」

「左様。良いか、良い弓を手に入れたければ決して奴の髭を馬鹿にするな」

「いや、そんなことしないよ」

「ならば良い、入るぞ」


 そう言って賢者が武器屋の扉を開けると、内側に取り付けられていた妙に重たい音の響くベルがガランガランと鳴る。


 勇者がおそるおそる薄暗い店内に踏み込むと、工房だろうか、火の匂いがする奥の方から「何だ、客か? 今いいところだってのに」としゃがれた声が聞こえてきた。





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