二 予兆



 残された十日間はあっという間に過ぎた。今日はいよいよ「最終審判」当日で、夕暮れに襲撃を計画しているという神殿長達を迎え撃つため、勇者達は白の刻、つまり昼過ぎには遺跡に移動しておくらしい。早めに昼食を済ませて荷物を纏めていると、ライがぽつりと言った。


「私は……フラノをも凌ぐ強さを持った勇者と剣の仲間がどのように戦いの支度をするのか、この十日間興味深く見守っていたのだが」

「……おう」


 なんだか嫌な予感がしながら勇者が相槌を打つと、ライは顔を上げて困った顔で優しく笑う。

幻遷げんせんの賢者を中心に、綿密な計画を練っているのかと思っていた。次の審判に向けてあらゆる可能性を想定し、対策と鍛錬を重ねているからこそ、何度も神殿最強の審問官を退けてきたのだと……しかし」


「……うん」

 とりあえず「何だこの有様は!」とかいきなり怒鳴り出したりはしなさそうだぞ、と少し安心しながら勇者は頷いた。


「君は木の枝を削って狐を作っているし、ルーウェンは蛙のおもちゃを並べて遊んでいるし、レフルスは誕生祝いだという糸の束で職人顔負けのレースを編んでいるし……なんだかその、拍子抜けしたよ」

「いや……遊んでただけじゃないって。最終審判って言ってるくらいだからたぶんオークを持ち出してくるだろうって予想してさ、みんなの背中に浄化の陣を描いたりしたろ?」

「わかっている。わかっているが……火の審問官は何もない時でも常に鍛錬の日々だからな。まさか、一緒になって蛙で遊ばされるとは思っていなかった」


「──オークの振り撒く淀瘴てんしょうは魔獣よりもずっと深く重い。淀みへの耐性とは即ち心の安定だ。術に頼りきりにならず、張り詰めた精神状態を緩和する対策をせよと言ったろう」

 今日は特別良い気分でいるためにと魔法使いの髪を綺麗に編み込んで花を飾ってやりながら賢者が言った。するとライは苦笑を一段階深めて「それには納得しているよ。しかしもっとこう、瞑想とか祈りとか、せめて散歩とか、そういうもので安らぎを得るのだと思っていたんだ」と言う。


「……まあ、言いたいことはわかるよ」

 勇者も少し苦笑いになりながら、狐が尻尾を咥えて丸くなっている意匠の木彫りの腕輪をライの腕に嵌めてやった。ライがきょとんとした様子でそれをまじまじと見つめ、わけがわからないという顔になる。


「あ、可愛い」

 吟遊詩人が横から覗き込んでにっこりした。慣れた様子の彼を、火の審問官達が不可思議そうに見る。すると人の感情に敏感な妖精が、にこっとそんな聖職者達を見回して言った。

「このくらい気が抜けてるものに触ってるとさ、ちょっと優しくてあたたかな気持ちになるでしょう? 戦況によっては僕も歌ってあげられるかわからないし、君達はもうちょっとそういう厳しくない世界にしっかり触れていた方がいいよ」


「……そうか」

 腕輪を見下ろしてライがぽつりと言った。完全に納得してはいなさそうだが、その顔からいつもよりも生真面目な緊張が抜けていることを確かめた勇者は、最後の仕上げに「もしガレの様子がおかしいと思ったら手を握ってやれ。それで絶対元に戻るから」と囁きかけた。そしてその足で何かの予習なのか魔法陣の描かれた紙を眺めているフラノに近寄ると、彼に向かってにっこりしながら拳を突き出して見せる。


「フラノ。お前も、あいつらから双子を取り戻したいんだろ? 頑張ろうな」

「……ああ」


 静かに頷いたフラノはしかし、勇者の拳を見てほんの少し首を傾げた。

「……なぜ、私を殴ろうとする」

「違うって! 拳同士をぶつけるんだよ。友達らしくていいだろ?」


「友達……」

 小さく言ったフラノの声が少し嬉しそうだったので、勇者も嬉しくなって彼が拳を持ち上げてくれるのを待った。

「……しかし、拳をぶつけることと友人関係にあることは何の関連性があるのだろうか。私にはあまり意味のない行為に思えるが」

「……うん、ならいいや」


 呆れて笑った勇者が腕を伸ばして体重をかけながらがっしり肩を組むと、フラノはびくっとして濃い金色の目をぱちくりさせ、そして勇者の背に腕を回して彼をしっかり支えた。

「どうした、具合が悪いのか」

 剣の仲間達はみんな華奢なのでこんな男友達らしいじゃれ方は彼にしかできないと思ったのだが、やはりというか、フラノもかなり世間の常識とずれているようだ。


「いや、違うよ……ハイロって立ち居振る舞いが儚げで妖精みたいだけどさ、お前もちょっとエルフっぽいよな」

「耳はそれほど尖っていないように思うが」

「外見の話じゃねえよ……あの神殿でお前が全然淀みに侵されてなかった理由がちょっとわかった」

針葉樹シダール、耳元で喋るとくすぐったい」

「そういうとこだよ」


 くすりとやわらかい笑い声が聞こえて目を向けると、ハイロがこちらを見ながら微笑んでいた。そちらを見返して困惑した顔をしているフラノに向かって「確かに少し似ていますね、仲間としか会話をしないところも」と笑いながら囁く。その耳に鮮やかな空色の宝石が揺れているのを見て、勇者は驚きで心をきゅっとさせながら尋ねた。

「お前、それ、耳飾り」


「……ああ、これですか」

 するとハイロはさっと笑顔を引っ込めて、口元をむずむずさせながら勇者の視線を避けるように目を伏せた。

「マタンの街で浄化して頂いた夜、この耳飾りを身につけていると……ある程度の淀瘴汚染を防げるとわかりましたので、予防です」

「え、そんな凄い魔導具だったのか? それ」


 びっくりして目を丸くすると、向こうの方で吟遊詩人が「鈍すぎる……」と頭を抱えた。何がだよと眉をひそめていると、ハイロが「魔導具ではありません……心の安らぎと幸福感が淀瘴を遠ざけると、先程ご自分で仰ったばかりでしょう」と呟いて、ツンとそっぽを向く。


 返事はできなかった。急激に頰に血が上ったのを感じて片手で顔を覆うと、指の隙間からそっとハイロを窺い見る。するとハイロの方も少し頰を赤くしていて、恥ずかしがらせてしまったと申し訳なく思いながらも、口説く意図もないくせにそんな台詞はずるいとじたばたしたくなった。


 絶対、絶対いつか神殿から奪って俺のハイロにしてやる──


 そう考えてもっと顔を赤くした。ライが「そろそろ時間だが、大丈夫か?」と、心なしか心配そうに勇者を見ながら言う。すると吟遊詩人が半分吹き出しながら口を挟んだ。


「大丈夫だよ。熱じゃないから、それ」

「だが、顔が赤い」

「ハイロちゃんが可愛いからのぼせ上がってるの」

「ハイロが、可愛いから」

「そう。人は恋をしても、顔が赤くなるんだよ」

「恋」


 ライの後ろでガレが「余計なことを教えるな」みたいな顔であわあわしている。それを吟遊詩人がにやりと見返していると、時計を取り出して時間を確かめていたフラノが「……始めるぞ」と呟いた。


 フラノの言葉を聞いた異端審問官達がさっと背筋を伸ばすと、槍を手に取ってフードを深く下ろし、首元に下げていた布で口元を覆った。切り替えがかっこいいなと思いながら勇者がそれを見ていると、後ろからヒュッと恐怖で息を呑む音が聞こえてきて振り返る。


 顔色を悪くして審問官達を見つめていた賢者が、我に返ったように視線を逸らして深呼吸するところだった。原因に思い至った勇者が慌ててフラノ達の方に向き直ると、既にフラノはフードを取って布を押し下げ、他の審問官達にも顔を見せるように指示を出している。それを見て賢者が首を振った。

「少々……驚いただけだ。そのままで問題ない」


 その言葉にガレが「そうか?」とフードを被り直そうとするが、フラノが手を出して制止した。

「……審問の際の正式な装束ではあるが、善良な人間に苦痛を与えてまで装わねばならぬものではない」

「私は──」

「これは同情による妥協ではない。我らの信仰である」

 賢者の言葉を遮ってフラノがはっきり言った。それに賢者が「感謝する」と答えると、ライが「気にするな、仲間だろう」とにこっとする。


「しかしその様子ならば、ここで待っていた方が良くはないか? 物理的には守ってやれるが、内面まではどうしようもないぞ」

 ガレが難しい顔で腕を組む。神官が「どうします?」と尋ねたが、しかし賢者は「私も剣伴だ」と頑なに首を振った。勇者はその意志を受けて力強く頷くが、皆はまだ心配そうだ。


「ルーフルー」

 その時、魔法使いの小さな声が会話を遮った。皆が口を閉じて彼に注目すると、淡い金髪をいつもと違って華やかに編んだエルフが愛する天文学者に歩み寄り、肩に手を掛けると背伸びをしてその頬に唇を押しつけた。

「ルーフルー、すき」


 賢者は特に驚いた顔も照れた顔もしなかったが、伏せた瞳がすうっと黒から濃い灰色になった。それを見た花の妖精がふにゃっと嬉しそうに表情を和らげる。

「大丈夫だよ……僕の繊月。僕がずっとそばにいるから。辛い時はずっと手を繋いでいてあげるし、もう二度と、白眼しろめの民に君を害させたりしない。その身の内を、恐怖の入る隙がないほど僕の愛で満たしておいで」


「……そうか」

 一言それだけ返した声が彼らしからぬ細い声だったからだろうか、皆がなんとなく目を逸らして、そしてフラノがひとつうんと頷くと、軽く足で地面を蹴って大きな転移の魔法陣を描いた。その紋様の内側に入りながら、見慣れた柄とは少し違うところを見つけて慌ててフラノの肩を叩く。

「おい、ここ間違ってるぞ」

「……そうだろうか」

 いつもなら星模様がいくつか散りばめられているところに、花が描かれている。その部分を指差したが、フラノは先ほど眺めていた魔法陣の紙を取り出して見比べると「いや、これでいい」と頷いた。


「でも──」

「シダル、それで良い」

 賢者までそう言ったので、勇者は半信半疑に「……そうか?」と首を捻る。


「視認できぬ遠方へ転移する場合、混線を防ぐために紋様を多少変更するのだ。完全に対になった陣同士が繋がるよう術が組まれている」

「へえ……魔法使いが描いたやつ、よく繋がったな」

「同時に発現している転移陣が他になかったのだろう」


 とばっちりでけなされた魔法使いがくたりと耳を下げたところで、フラノが「魔力を」と呟いた。ハッとしたエルフが魔法陣に触れて魔力を補填すると、呪文が唱えられた。


「ル・エルム=ヴェルトル=スクラダール」


 魔法陣が赤から銀に、そして緑に塗り替わる。ぐっと地面に押しつけられるような力がかかって、そういえば勇者自身が転移するのは魔法使いのやらかしたとんでもないあれ以来だと初めて気づいた。どこも痛くないし、苦しくない。


「サリル=イド」


 向こうの方が少し早く待機状態に入っていたらしく、すぐに発動の呪文が続けられた。目の前が緑の光で一杯になって眩しさで目を閉じる。ワイバーンのガズゥに乗って急降下した時のように内臓が持ち上げられる感触がして、再び地面に押しつけられるような圧が来ると、瞼の向こうで少しずつ光が収まり始めるのがわかった。どうやら着いたらしい。周囲に敵意のない人の気配を感じる。およそ二十人。


「わっ!」

 一足先に目を開けたらしい神官が驚く声が聞こえた。見ると周囲をぐるりと生成色の装束を着た騎士達に囲まれていて、ローリアがくつくつと笑っている。

「想像よりも近かったろう? 皆を驚かせようと思ったが……汝だけであったか、ロサラスよ」


 確かに、魔法陣ギリギリのところに人がたくさん立っていて、圧迫感はある。転移酔いした神官が「やめてくださいよ……」と言いながら蹲ると、ローリアがひょいと光の帯を踏み越えて神官の頭に手をかざした。

「水の愛し子に浄化の祝福を。スクラゼナ=イルトルヴェール」

 淡い黄色の光がパッと散って、神官がふうと楽になったように息をついた。創造神以外の祝福を持たないが特別多くの魔力を授かっているという光の神官の術が珍しくて、じっとその光を見る。世の中にいる魔力持ちはこの色が一番多いらしいのだが、仲間は皆鮮やかな色がついているので勇者にとっては見慣れない色だった。


「いやいや……『普通はこの色なんだよな』みたいな顔してるけど、普通の人はこんな綺麗な陽光色じゃなくて、もっとぼんやり濁った感じの魔力なんだよ。ローリアさんのは特別綺麗だから」

 勇者の顔を見た吟遊詩人がそう言うと、ローリアが布で隠された顔を上げてふっと笑った。

「おや、アオグの妖精にそう言われるのは嬉しいな……ところで、賢者殿は問題ないか?」


「えっ」

 慌てて振り返ったが、賢者は少々顔色が悪いものの、あの悪夢のような遺跡を前にしてもしっかり前を向いて立っていた。むしろ、人間に囲まれて警戒しているエルフをマントに入れて守ってやっている。


「大丈夫そうだけど」

 勇者が監察者に向き直って言うと、彼女は「そうか、ならば良い。かの御仁は表情が一切顔に出ぬことで有名だからな」と笑った。そういえば賢者も魔法使いも他から見れば全くの無表情にしか見えないのだったと思い出し、それを見分けられる自分をちょっと自慢に思う。


「俺は見分けられるからな、といった顔だな。仲が良くて結構」

「うっ……」


 にやりと笑っている声でローリアが言い、言い当てられてしまった勇者が口ごもった。周囲の騎士達も少し緊張が解けて微笑むような雰囲気になってきたが、その時ぴりりと緊張感を走らせた吟遊詩人が顔を上げて空の向こうに目をやったので、皆が口をつぐんで彼と上空を交互に確かめる。


「どうした」

 勇者が問うと、特等に優れた目を持つフェアリは妖精らしくない鋭い視線で空を睨んで言った。


「真っ黒な……多分魔竜が一頭こちらに向かってる。上にひとり人間が乗ってて、魔力の色は淀んでてわからないけど、円環杖を持ってるよ」





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