三 森の主
誰かにツンツンと肩をつつかれた気がして目を開けた。ぼうっとしたまま視線をうろうろさせると、いつの間にかリュートを抱えて隣に座っていた吟遊詩人が、なんだか楽しそうな顔で勇者を見下ろしている。どうした、と訊こうとしたが、口を開く前にしいっと唇に人差し指を押し当てて合図されたので、黙ったままそっと起き上がった。
少年が楽器の陰になるようにこっそりと泉の向こうを指差す。見ると、神官が肩に止まったふわふわの雛鳥に頰へ擦り寄られて幸福の極みのような顔をしていた。楽しそうだなと思いながらそれをぼんやり眺めていたが、しかしそうすると「そっちじゃない、賢者の方」と耳元で囁かれる。
相変わらず神域は真夜中のような暗さと静けさに包まれていたが、勇者が寝ていた間に魔法使いがばら撒いたのか空中に小さな星がいくつも浮かんで、泉の周りをぼんやりと照らし出していた。
ぐるりと見渡すと神官の少し向こう、木の根元に寄りかかって座っている賢者──の膝の上に、彼のローブと同じ色をした淡い灰色のミミズクがちょこんと乗っていた。そして……なんと信じ難いことに、気難しい学者の男がその鳥の頭をそうっと指先で撫でているではないか。思わず口をぽかんと開けてその光景を凝視したが、吟遊詩人に肘で小突かれて慌てて無表情を取り繕った。じっと耳をすますと、賢者が低い声で小さく語りかけるのが聞こえてくる。
「そなたには……なぜ、耳があるのだ」
長い指がミミズクの耳を軽くつまむと、もこもこした鳥が眠たそうに目を閉じて返事をするようにホーと鳴いた。
「何か
耳のついたフクロウがまたホーと鳴く。
「わかるように教えなさい」
少し離れた場所から、全身灰色のふわふわに
「自分もああして撫でられたいとか思ってるよね、絶対」
吟遊詩人がひそひそと言った。
「だろうな。お前、後で撫でてやれよ」
「僕が? 今日の当番は勇者でしょ」
「あー、そうか」
淀瘴にかかった魔法使いが「人は遠くて寂しい」と咽び泣いて以来、剣の仲間達の間には「妖精当番」というものができていた。森の生き物が時に群れでくっつき合って眠るように、本来のエルフは人間よりもずっと同族と親密に寄り添い合って生きるものらしい。「当番」はそんな彼のために木陰で肩に寄りかからせ、髪を梳いてやり、夜は眠るまで側で頭を撫でてやるという仕事であった。
かなり好き勝手に生きているように見える魔法使いだが、蓋を開けてみれば妖精は妖精なりに随分と努力して人間の仲間達に気を使っているようだった 。つまり当初はくたりと耳を寝かせながら悲しげに仲間の抱擁を遠慮しようとしていたのだが、あっさり無視した神官が強引に撫で回し抱き寄せて寝かしつけた次の日はなんだか表情が明るく食欲も倍増していて──あのエルフが「お腹が空いた」と言うのを勇者はその日初めて聞いた──そんな魔法使いを一度見てしまった仲間達はもう「あんまりベタベタするのはちょっと」などと人間の価値観を優先させることもできず、ひたすら甘やかす努力を始めたのだった。あの賢者ですら、まあ寄り添って眠るようなことはしないまでも、週に一度は好きなだけ近くに座らせて星の話を聞かせてやっているのである。
「まあ、妖精さんは近くにいても全然圧迫感がないから嫌じゃないけどさあ……それに、女の子かもしれないと思ったらちょっとドキドキしない?」
少年が悪戯っぽく笑って首を傾げるのに、勇者は「うーん」と唸って腕を組んだ。
「いや……女だったとしても妖精の女だぞ? あそこまでパッと見で人間じゃない奴にどうこうは思わないな。向こうも同じだろ」
正確に言えば世の中には異種族を愛する人間もいるらしいと聞くが、勇者にとっては遠い世界の話だ。そう言うと吟遊詩人がハッとしたように顔を赤くしながら縮こまって「あ、そうなんだ……もしかして僕、変態っぽい?」と恥ずかしそうにしたので勇者は少し慌てた。
「いや、別に……俺はそうってだけで、お前はお前だろ。なんだ、魔法使いのこと好きなのか?」
もしそうならば応援してやろうと思いながらそっと尋ねたが、しかし少年はあっさり否定した。
「いや、そういうんじゃないよ。僕、付き合うなら自分より背の低い子がいいもん」
そんなやついるか? と思ったが黙っておく。
「……なんかさ。勇者っていかにも
表面はにこにこしているが、マントの陰で指先を握り込んで後悔している様子だ。ここはもう少し軽く話に乗ってやるべきだったと内心冷や汗をかきながら、勇者は慌てて幾度も首を振った。
「いや、全然。村じゃお前の十倍くらい明け透けなやつばっかだったし、その、話す方は上手くないが、聞き手側なら俺は気にしない……賢者だったら嫌がるかもしれんが、どっちかというと不健全なのはあいつの方だからな。お前はもうちょっと普通にしてろよ、あんまり気を張って行儀良くしてても疲れるぞ」
「うん、ありがと……でも気をつける」
「そっか」
年頃の友人がすっかり萎縮してしまったので悪いことをしたなと思っていたが、その時木々の向こうから何やら大きな気配がしたので、勇者はこれ幸いと少し警戒したふりをして立ち上がった。
「大型の獣だな……気配は静かだが、かなり強い」
とりあえず声を低くして呟いてみたが、妖精の周りに山ほど集まっている鳥達が全く逃げようとしないので、それほど危惧はしていなかった。目隠しをしていない吟遊詩人に目を向けると、この夜の神域の中では透視ができないのだと不安そうに首を振る。
「大丈夫だ、多分危険なものじゃない。だがまあ、一応俺の後ろにいてくれ」
泉の周りに散らばる仲間達にも呼びかけながら、馬達を誘導して気配と反対側に皆を集めた。
闇の向こうから現れたのは、見上げるほど大きい一頭の純白の狼だった。それから家族らしい灰色で普通の大きさの狼に、わらわらと飛び跳ねて目を輝かせる子狼が親子合わせて十頭くらい。彼らは一言も吠えずに静かに神域へ踏み入り、先頭の白狼が泉を回り込んで仲間の前に立ち塞がっている勇者を間近で見下ろした。魔力が減った時の賢者の目によく似た淡い灰色の大きな瞳が、聡明な色を宿して勇者の空色を覗き込み、そして鼻を近づけてそっと──いや、結構しっかりと匂いを確かめた。
「お、おい……そんなとこ嗅ぐな」
「犬の仲間だから……しかたがないね」
顔を赤くしながらマントの中に鼻を突っ込んだ狼の頭をそっと押していると、魔法使いが落ち着いた様子で深く頷いた。肩に鳥を山盛り乗せたまま歩み寄ってきた妖精は狼を見て、勇者を見て、また狼を見て……とじっくり両者の違いを探すように双方を観察している。
「勇者は、夏の空色……その子は、冬の雨雲色……見たことがないけれど……雪雲色かもしれない」
「いや、もっと他に違うとこあるだろ」
本気かよ、と思いながら不可思議なエルフを凝視すると、魔法使いはハッと何かに気づいたように「そうだね」と頷いた。
「勇者は……毛並みが硬い。雲の子は、ふわふわ」
「おい」
──ふむ、匂いは悪くない
その時、突然幽霊達と話す時のように頭の中に直接声が響いたので、勇者はくだらないやりとりから顔を上げてきょろきょろと辺りを見回した。
「あ、え、お前か?」
マントの中からようやく鼻を出した狼の頭を撫でて尋ねれば、白狼は彼が実際に声を出して唸ったらこんな感じなのだろうという低い轟くような声で「いかにも。そなたの手は火の気配が宿って温かい、耳の後ろをかきなさい」と尊大な目をして言った。
「お、おう……お前、名前は? この辺に住んでるのか?」
内心では「狼が喋った……」と思っていたが、それをそのまま口に出したら悪い気がしたので、とりあえず耳の後ろをごしごしとかいてやりながら平静を装って話しかける。
「妻や子らは我をガゥウルグと呼ぶ。人の子は『風の森の主ヴァルフィロス』と称しているようだ」
「んー、じゃあウルグ。すまんな、縄張りに勝手に入って」
そう答えながら、なんだか雰囲気や口調が賢者に似ていて話しやすいなあと思っていると、ウルグの方も彼を気にしていたようだった。
「なに、構わぬ。神の森に神の愛し子が立ち入るは、森の主であっても妨げられぬ慶事ゆえ」
ウルグの視線を受けた賢者は、膝に乗っていたミミズクを腕に抱えて歩み寄ってくると、それを魔法使いの頭にひょいと乗せて巨大な狼の瞳を覗き込んだ。
「感謝する、森の主ガゥウルグ」
「礼には及ばぬ。しかしそなた、唸りの発音がなかなか様になっておるな」
「神の祝福によるものだ。そこでそなたの子に群がられているルシナルに比べれば、私の才は与えられた幸運に過ぎぬ」
「ふん。神の恩寵を受けるも、それを深め己の力とするもまた才であろうに」
「……なんかお前ら、気が合いそうだな」
段々どっちがどっちかわからなくなってくるような会話に口を挟めば、一人と一匹が同時に「ふん」と鼻を鳴らした。それに吹き出しそうになって慌てて視線を逸らすと、子狼まみれになった吟遊詩人が困り顔で地面に転がっているのに声を上げて笑ってしまう。
「ねえ、くすぐったいってば! ちょっとそこのお母さん達、なんとかしてよ」
「人語を解するは我だけぞ、金の子犬よ。また、我が妻らが他の雄に従うことはない」
「えっ……子犬って僕のこと?」
「巻き毛の狼などおらぬ、犬でなくば何なのだ」
「人だよ!!」
「ふん、戯言を。そこな黒狼に尾を振って付き従っておきながら」
「え、それ俺か?」
叡智の祝福とやらなのか、気の神域を縄張りにしている狼は人間を超える高い知能を持ち合わせているように見えたが、どうやら勇者を狼だと思っている魔法使いと同じくらいには間抜けなようだ。
しかしそうして仲間と狼達の触れ合いを笑いながら眺めていると、ウルグが唐突にこんなことを言い出したので、勇者達はきょとんとなって首を傾げた。
「──しばらく外へ出るのはよしなさい」
「え?」
「どうしてです?」
神官が肩の上の雛鳥を撫でながら不思議そうに尋ねると、狼は優雅な仕草で草の上に座って尻尾をぱたりとさせた。
「武器を持った人間の小さな群れが、この地を取り囲むようにお主らを待ち伏せておる。火の気配が強い者もおった。赤茶毛の者は特に危険だ。金の毛並みの人間が制止しなければ、妻のひとりは狩られていたであろう」
ロドと、フラノか。
「いや……行くよ。あいつらはたぶん俺達が出るまで諦めないし、そうするとお前達家族が困るだろ?」
だよな? と仲間達に視線を向けると、皆がうんざりした様子で肩を落としながら「まあ、仕方ない」と頷いた。
「やめておけ」
白狼が唸るように言うが、しかしこのまま立て籠もっても兵糧攻めになるだけだ。戦うならば早い方が良い。
「大丈夫だ、俺もそこそこ強い。群れの仲間は守ってみせるさ」
ニヤッと歯を見せて金の炎をちらりと右手に纏わせれば、森の主は「これだから若狼は」と笑うような気配を見せた。なんだか父親のようなその表情には少し心があたたまったが、勇者は妖精だけでなく本物の狼にすら狼だと思われているこの状況に、少々複雑な気持ちになったのだった。
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