三 夜明けの朝食(賢者視点)



 目覚めると、まだ夜明け前であった。


 月明かりに照らされた寝台の上で身を起こし、椅子の上の畳まれたマントとローブ、枕元の水差し、勇者が調合したと思われる小さな水薬の器を見て──賢者は昨夜の失態を思って頭を抱えた。


 とはいえ、悔やんだところでどうしようもない。水と酔い覚ましを飲み、金輪際蒸留酒は飲むまいと決意してから深々とため息をついていると、何かにぎゅっと脚を掴まれて飛び上がった。反射的に毛布を捲ればふわっと甘い花の香りがして、見れば、寒そうに丸くなった魔法使いが右脚にしがみついているではないか。


「なぜ……このようなところに」

 そう呟いたが、深く眠っているらしいエルフは反応を示さなかった。賢者の膝のあたりを抱きかかえ、腿に頭を乗せて寝息を立てている。驚いた名残か鼓動が落ち着かず、気を静めるために余計な魔力を消費した。


 叩き出してしまおうかと思ったが、仲間と寄り添って眠ることが当たり前であるエルフに説教をしたところで、人間の文化の押しつけにしかならない。かといって丁重に距離を置いてくれと願ってもこの妖精は涙を浮かべて落ち込むのだから、諦めて放っておく方が面倒が少ないのだ。以前はそれでも他者を拒む気持ちが強く、親密に触れ合うことを避けていたのだが──あの春の夜の歌を聴いてから、なぜだか賢者は、擦り寄ってくるこの妖精を押し退けられなくなってしまったのだった。


 この北の地では、まだ秋とはいえ早朝はかなり冷え込む。冷気に触れた魔法使いが身動ぎすると、寝台に広がった淡い色の金髪が月の光でしっとりと光った。泉の水に触れているような手触りのそれを散々撫で回した記憶が蘇り、それを見て気まずそうにしていた勇者の顔を思い出し、再びため息が零れる。


 毛布を元に戻して、己の脚を抱き枕にしている妖精を中に埋めた。すると暖かくなったからかぎゅっと縮こまらせていた体を少し伸ばして、言葉になっていない満足そうな声が漏れる。巨大な猫でも飼っているような心地になって毛布の上から頭のあたりを軽く撫でると、半分眠っている甘えた発音のエルフ語で「なあに……ルーフルー」と言うのが布越しに聞こえてきた。


「なんでもない。そこで寝ていなさい、暖炉に火を入れてくる」

 魔法使いが頭まで上掛けに潜っているのは、部屋が冷えているからだろう。脚を引き抜くと少しぐずったが、無視して寝台を降りるとローブを羽織り、暖炉に薪をくべ、魔術で着火する。火種と同時に適度な風が送り込まれて、瞬く間に赤々とした炎が燃え上がった。


 古い言葉で火の国ウルと呼ばれるこの土地を訪れる人間は、織物などを取引している商人を除けば、大半が鍛冶屋で武器を注文する騎士や冒険者だ。武器の製作には時間がかかる。長期滞在することを見越してか、部屋には小さな調理台や鍋の類がいくつか備えてあった。まあ、この設備だけでは暖炉の火を使って煮炊きする程度の作業しかできないが、幸いなことに調理台の天板には、魔法陣の定着が良い石英の板が使われている。魔術を併用すればかなり凝った調理も可能だろう。日が昇ったら、不本意ながら約束してしまったタルトの材料を買いに出ようと肩を落として、寝台に戻ろうかどうしようかと考えながら暖炉に背を向ける。


 と、毛布の塊から顔だけ出して座っている魔法使いと目が合った。氷色の瞳が月明かりを映して神秘的に光っている。彼が火を熾している間に目を覚ましていたらしく、花の妖精はまだ眠そうな声で「おはよう……」と呟くと、冷ややかな美貌にそぐわない気の抜けた情けない顔でふにゃりと微笑む。


「まだ暗いから、もう少しひっついているといいよ……」

「……いや、もう十分睡眠はとった」


 それから人間用に作られたソファ、という名の、ドワーフには大きいが人間の大人が座るにはいささか狭苦しいソファで日の出までの時間を過ごし、勇者が起き出す頃を見計らって手持ちの食材で簡単にスープを作った。それを魔法使いが味見と称してなぜかしっかり一食分平らげ、細かく調味料の量を調整して魔法のように素晴らしい味に変えてゆく。賢者はその技術を盗もうと彼の加えた調味料の種類と量を書き留めていたが、しかし手元を覗き込んだ妖精が慌てたように「だめだよ!」と言った。


「……秘伝の調理法だったか?」

 そんなはずはないだろうと思いながらも一応尋ねると、魔法使いは重々しく首を振った。ゆったりとした動作なのに髪がさらさらと揺れる。


「僕がスープの味を変えたのは、美味しくなかったからではないよ。賢者の味は僕だけのものだから、勇者達には分けてあげないの」


 そう言って、普段は温厚なエルフが我儘な猫のような顔で少しツンと顎を上げたのを見ると、賢者は胸の奥が締めつけられるように鈍く痛むのを感じた。無意識に息を詰めていたのに気づいて、ゆっくりと肩の力を抜いて呼吸を整える。


 しかし賢者は、最近度々訪れるこの痛みの要因について一切考えないことに決めていた。この人里で育った美しく善良なエルフが、同族の異性に出会って本当の恋を知り、賢者に抱いているそれが寂しさから来るのぼせ上がりだと気づくまでは──そう、少なくとも故郷の森へ連れて行くまでは、自分だけでも冷静でいる必要があった。


 しばらくすると、物音に気づいたらしい勇者が気遣わしげに小さな音で部屋の戸を叩いた。中に招いてやると、意外そうに目を瞬かせて「あれ、元気そうだな?」と言う。少し悪戯心が疼いて「ああ、そなたには無用な気遣いを強いたな……案ずるな、全て忘れさせてやろう」と低い声で言うと、勇者はぴょんと飛び上がって「いや、なんでもない! 俺、ええと、何も覚えてないから!」と言った。相変わらず素直が過ぎて間抜けな従兄弟だ。


 確かに自分は仲間にさえも隙を見せられないような部分があるが、口に出してしまったことに対してまあ仕方ないと諦めがつくくらいには、もう仲間達に気を許しているのだと──しかしそう口に出せない程度には、まだ気恥ずかしかった。


「朝食できてるなら、俺、みんなを起こしてくる!」

 少々の自嘲を込めて苦笑すると、それを見た勇者が何やら慌てた顔になって部屋を飛び出していった。向かいの神官の部屋にバタンと飛び込んだらしく「わぁ! どうしました勇者!」と驚く声が聞こえてきた。隙間だらけの建物なので、壁を挟んでいても音が良く通るのだ。


「針葉樹は元気だね……」

 まだ完全には眠気から脱していない魔法使いが呟いた。ぼんやりした顔で歩み寄ってくると長い髪の毛の先を賢者の手首に結びつけようとするので、腕を引いて避ける。


「賢者……動かないで」

「馬鹿なことはやめなさい」

「僕は、馬鹿ではないよ」


 しつこい妖精を押し退けようとするが、それを阻止しようとした魔法使いが腕に触れる度になぜか力が抜けてしまう。もどかしく思いながらもなんとか回避していると、部屋の窓を通り抜けて胡桃くるみほどの大きさの小さなミミズクが飛んできた。翼が灰色で、尾と耳が赤い。ハイロの伝令鳥だ。常ならば賢者ではなく勇者宛なのだが、喧嘩でもしたのだろうか、と思いながら小鳥と視線を合わせる。


──レフルス、聖剣鍛冶である可能性のあるドワーフを発見しました。意見を伺いたいので、今からそちらに行ってもよろしいですか


「……ああ」

 返事をすると、伝令鳥は一声ホーと鳴いてふわりと消えた。とはいえ今の賢者の返事がハイロへ届いたわけではないので、追って了承の返事を出す必要がある。しかし彼が魔法陣を立ち上げる前に、魔法使いがシュシュを呼び出した。


「……魔法使い」

「勿論いいよ。おいで、ファーロ」


 止める間も無くエルフが囁いて、大鷲オオワシ程の大きさがある銀のミミズクが飛び立った。一応密偵の彼女を気遣って小型の伝令鳥を出そうと思っていたが、最高に目立つ鳥が行ってしまった。まあ仕方がないと肩を竦めて、仲間達を連れて戻ってきた勇者に彼女の来訪を予告しておく。


「えっ……ハイロが、今から」

「おやまあ、ならば朝食は彼女が来るまで待ちましょうか。一緒にいただきましょう。ところで、私達はいつの間にこんな傾いた宿屋に泊まっていたのですか?」

「ああ、やっぱり覚えてないのか……」


 首を傾げる神官に勇者が呆れていると、その時控えめな音で扉が叩かれた。宿屋の周辺か屋根の上にでもいたのか、随分と早い。昨夜のことがまだ堪えているのか借りてきた猫のように大人しい吟遊詩人が戸を開けてやると、部屋の中に勇者の姿を確認したハイロが驚いたように身を強張らせた。やはり喧嘩でもしたのだろうか。


「……皆様、お早いのですね」

「昨日の夜が早かったようですから、たまたまですよ。朝食の準備があと少しですから、一緒にいただきましょうね」

「ええ……恵みに、感謝いたします」

「あなたはもう仲間なのですから、共に食卓を囲むのは当然のことです。その感謝は神にだけ捧げてくだされば結構ですよ」

「はい、ロサラス」

 ハイロは嬉しそうに小さく頷いて、そしてそっと、浮かれた様子で鼻歌を歌いながらスープを椀によそっている勇者の方を見た。


「……シダル」

 あまりにも小さな声だったので、少し距離があった勇者には届いていないようだった。


 ローブの胸元を両手で握って心細げに肩をすぼめたハイロは、何とも表現し難い複雑な表情を浮かべている。わずかに眉を寄せ、かすかに目元を赤らめ、食卓にスープを運んでいる勇者の挙動をじっと目で追う。視線に気づいたシダルが微笑みかけると、さっと目を逸らし、視線を足元に落としたまま忙しなく瞬いた。


「うわ、いつの間にこんなになってたの? ハイロちゃん」

 先程までの恥じらい具合を忘れた様子の吟遊詩人が、目を丸くして小声で賢者に問う。

「『こんなに』とは」

「え……そこから? もう勇者のこと大好きじゃん、あれ」

「そうなのか」


 よくわからないが、そうであれば喜ばしいことだと思った。賢者の目から見たハイロはいつもどこか寂しそうな顔をしていて、神官として神のためだけに生きる生活があまり合っていない気がしていたのだ。還俗して相思相愛でシダルと伴侶になるならば、互いに家族を欲している者同士幸福になれるのではないだろうか。幸運にも彼らは同族の男女で、年齢の釣り合いも丁度良い──そう考えるとほんの少しだけ心臓のあたりが刺すように痛んだので、音を立てないように深く呼吸して針のようなそれを逃した。


「我が愛する気の神エルフトよ、大地の神テールよ。我らはこの素晴らしい夜明けの恵みに感謝を捧げるとともに、その恵みに値するものとして生きることを誓います。全ての人々の目覚めに、優しいぬくもりがありますように。ユ・アテア=ティア・ハツェ」


 ロサラスに促され、ハイロが食前の祈りを司った。以前とは何もかもが違う彼女の祈りに勇者がこの上なく優しい顔で笑み、それを見たハイロが椀に伸ばしていた手を胸元に引き寄せ、困り顔で匙の先端をいじる。


「……して、聖剣鍛冶らしき人物を発見したとのことだが」

 助け舟を出してやると、ハイロはホッとした様子で居住まいを正して賢者に向き直った。


「ええ、あくまでも「らしき」ではありますが……銅と水晶の合金を作ろうと、つまりオレイカルムを生み出そうと研究を続けている鍛冶師がいると聞いたのです」

「オレイ、カルム?」

 知らない言葉は丁寧に確かめようとする勇者が案の定不思議そうにしたので、注釈を入れる。

「オリハルコンの古典語的な表現だ。神殿ではそのように呼ぶことが多い」

「へえ」

 知識欲が満たされて、蒼い瞳が鮮やかな空色にきらりとした。


「聞いたって、この街で?」

 吟遊詩人が尋ねると、ハイロが頷いた。

「ええ、風の噂ですが……私はその者の工房を探し、周囲の者に術を掛けて情報を集めました」

 いかにも報告といった口調で話す異端審問官は、そう言うとハッと気づいた様子で付け加えた。

「ご心配なく。きちんと記憶は残らないようにしてあります」

「いや……そんな密偵流の調べ方しなくても、堂々としてればいいんじゃない?」

 苦笑いする妖精を見て、審問官がきょとんと目を丸くした。

「……そうかもしれません」


「それはどちらでも良い。先を」

 促すと、はっきりした視線がこちらに向けられて、何もかもわかっている様子でこくんと頷きが帰ってくる。すぐに話が脇道に逸れて永遠に戻ってこない仲間達と違い、打てば響くような反応は流石に聡明だ。


「彼は幼い頃からオレイ、オリハルコンに強い興味を示し、工房を持ってからは何かに取り憑かれたようにかの金属の創造を研究し……聖剣を鍛えねばと譫言うわごとのように呟いているのを見た者もいます」

「それは、ええと、だいぶやばそうな人だね……」

 吟遊詩人が顔を引きつらせ、賢者もかなり嫌な気持ちになった。が、勇者は違ったらしい。


「よし、とりあえずそいつに会いに行ってみるか! 居場所も見つけてるのか?」

 彼が目をきらきらとさせて弾んだ声で言うと、隣に座っていた魔法使いが小さな小さな声でささやいた。

「……やだなあ」


 賢者はそれに深く頷き、間違いなく変人であろうドワーフに会いにゆく今日の予定を思って、深くため息をついた。





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