第2話 うしろの正面だあれ

(1)


「ミアねぇぇえええーん!!!!!」


 背中越しに悲痛な呼び声が、というか、ほとんど絶叫に近い。

 吃驚しすぎて口から心臓が飛び出そうになり、悲鳴の代わりにひゅっと息を吸い込む。

 激しい動悸を鎮めるべく、胸を擦りながらどぎまぎと振り返る。


「たす、たす、たすけてぇぇええ……!」


 袖を引っ張った人物――、ミアより背丈が小さく、ぶかっとした執事服を着た赤毛の少年を見るなり、ぎょっとして一、二歩後ずさる。

 少年は痙攣に近い震え方で縋りついてくる。種族特有の青白い肌を更に青くさせ、口から泡を噴き出しかねない様子がかなり心配だ。

 ただ、ぐりんと白目を向いてるのが、正直ちょっと、いや、かなり気持ち悪い……。


「ルーイくん、ルーイくん!ちょっと落ちつこっか」


 ルーイ少年の頬を包み込むように軽く叩くが、高速でカタカタ歯を鳴らすばかり。

 だめだ、新種の呪いの人形と化している。正気に戻すには、身体のどの部位から出血しているか探り当てるしかない。


 片手で身体を支え、ささっと全身を見回す。ミアの袖をがっちり掴む右手に傷は、ない。顔にも首にもない。

 うーんと考え込む横で、ルーイが狂ったように上下に振り回す左腕をそっと掴む。動きが止まった隙に掌全体を素早く確認してみる。少年の人差し指の先端、爪と肉の間に薄く血が滲んでいた。

 掌で覆い隠すべく指先をきゅっと握り、血が滲む箇所を隠す。赤い筋が見えなくなると、榛色の黒目が元に戻った。痙攣もぴたっと止まる。


「あ、やった、血が見えない!」

「おかえり」


 よかった。いつもの愛嬌溢れる少年の顔に戻った。


「あ、うん……、って、ミア姉、なんでここに?!」

「んー、実はこっそり抜けてきた。ルーイくんこそ、なんで指を怪我したの??」


 一度ひとたび血を見たら最後、恐怖で発狂するルーイに、血液入りワイングラスはとてもじゃないが運ばせられない。(その前に失神して使い物にならない)

 なので、城内外の掃除が割り当てられていた筈だが。


「城内の空気をね、入れかえようとしたんだ」

「うん」

「それでさ、格子窓を開けたらさ、枠で指をすっちゃって……」

「そっかぁ」

「ミア姉がいてくれてホントよかった!でもさ、抜け出してだいじょうぶなの??」

「ハイディにはバレたっぽいし、たぶん、あとでおじい様から叱られるかも」

「えー!ダメじゃん、ダメじゃん!!早く戻った方がいいんじゃない?!」

「今さら戻っても、ねぇ??」


 曖昧に笑ってみせれば、ルーイは不満げにきゅっと眉を寄せる。幼いなりにミアを心配してくれてるのだろう。だって、彼はミアの専属執事(見習い)であり弟みたいな存在であり、血が苦手な同士だから。

 最も、ミアとルーイとでは血を苦手とする理由は異なるけれど。


「さっ、これでもう血は見えないよ」

 帯ベルトと着物の間に挟んでいたハンカチを歯で細かく裂き、ルーイの指先に巻いてやる。

「へへ、ありがと、ミア姉!これから部屋戻るんだろ??お礼に、厨房からクランベリージュース持ってくるね!!」

「えっ、べつにいいよっ」

「すぐ持ってくるから!部屋で待ってろって」

「ええぇっ、本当にいいってばぁ!」


 張り切って厨房へ駆けていく後ろ姿に、「気をつかわなくてもいいのになぁ……」とひとりぼやく。

 ミアの今は亡き両親にせいで、血が苦手なのに吸血鬼として生きるしかなくなってしまったのに。


 不治の病で余命いくばくもなかったからとはいえ――、ルーイ自身はあまり気にしていないが、ミアの罪悪感は大きい。

 いつまでも血に慣れないゆえに、親族達のにされかけていたのを(吸血鬼にしたはいいが、一族に馴染めない者はそうやって処分される)、自らの専属執事にして欲しいとヴェルナーに頼み込んだのだ。

 今では罪悪感だけでなく弟みたいにかわいく思うし、ミアの意向で使用人ながらくだけた言葉遣いを特別に許している。ルーイは肉親以上に気の置けない唯一の存在だから。


 遠ざかっていくルーイの背中が廊下から消え去るまで見送ると、ミアはようやく自室へと再び足を向ける。

 未だ残る空挺の音を気にしながら。その音は自室に入っても続いていた。むしろ、廊下にいた時よりも音が近くて大きい、気がする。


 壁紙、絨毯、寝具……、部屋の内装、置かれた家具調度品がほぼ赤で統一された室内。奥にある両開きの大窓の白さがやけに際立って見える。その窓に近づき開放すれば、赤いカーテンが風で大きく揺れる。

 しかし、いざ窓を開けてみれば、空挺の音と気配は消えていた。窓に続くバルコニーまで目を凝らそうと、身を乗り出す。


「えっ」


 突如、視界の中心に人影が飛び込む。影は尋常でない速さで向かってくる。

 速さでよく見えないなりにちらりと捉えたのは、両手で構えた剣。


 咄嗟の事態――、窓枠に手をついたまま硬直する間に、影はミア目掛けて飛びかかってきた。










(2)


 ほんの僅かな時間(おそらくは30秒にも満たない)、ミアは失神していた。


 だが、仰向けに倒れた身体にのしかかる重み、人の匂い。顔や首筋に触れる髪、喉元に宛がわれた硬く冷たい感触によって徐々に意識が戻っていく。

 まだ完全には定まっていない視界、覚醒しきれていない頭なりに、自分が置かれた状況を少しずつ、少しずつ理解し始める。


 馬乗りになっているのは、若い女性、というより、同年代の少女、か。


 ゴーグルを嵌めているのではっきりと顔は分からないが、つんと整った鼻や唇の形からして、綺麗とか美人とかの部類、少なくとも十人並み以上、かも。垂れ落ちるサラサラの長い髪も――、って、黒髪??

 目にした髪色からひょっとしたら同族かとも思ったが、微かに染め粉の香りがするので、たぶん、違う。わざわざ地毛を黒染めするとは、なんて奇特な人だろう。


 カナリッジでは黒髪=吸血鬼の印象が強く、地域によっては畏怖や差別の対象と見做されると聞く。黒髪のままだと狩りがし辛いと、わざわざ明るく染める同族もいる。

 喉元にバゼラルド短剣をつきつけられているのに、侵入者の外見を気にするなど、どうでもいいことばかりが気になってしまう。ある種の現実逃避なのか。


 まさか、吸血鬼を狩りにきた、とか――??


 でも、人間に命狙われるような狩り方なんかしてない。

 そもそも、ミアは一度も狩りの経験がない。


「あらぁ??」


 ミアの恐怖と混乱が深まる一方、侵入者の少女は場違いなまでにおっとりした声を上げた。

 そして、ミアの首に押し当てたバゼラルドはそのままに、もう片方を握った状態で、手の甲でゴーグルをぐいと押上げる。少し乱れた厚めの前髪の下、曝け出された素顔に息を飲む。


「やだ、間違えちゃったみたい……。やっぱりゴーグルなんてするものじゃないわ、見づらいったら」

「あ、あの」

を間違えるなんて、あたしってばダメねぇ」

「あのぅ、貴女は、いったい……」


 ミアがますます混乱を極める理由――、少女の顔はハイディと酷似していた。

 弓なりの細い眉、ややきつめの猫目を縁取る長く濃い睫毛。すっきりと通った小さな鼻、薄い唇。

 なまじ整った顔立ちはともすれば冷淡な印象を受ける。現に、激しい気性も含めてハイディがそんな感じだ。


 ところが、顔立ちこそ瓜二つだが、この少女のはにかんだ顔はハイディと比べ物にならない程柔らかい。髪や虹彩の色、体格など細かな違いを差し引いても。ついでに言うと、さりげなくあたる胸も柔らかい。ミアは女の子だからそこまで気にならないけど、男の子だったらドキドキしてしまうかも。


「あの」

「本当にごめんね!」

「えっと……」

「ごめんね、ごめんねぇ」


 しきりに謝ってくるし、気の毒に思えてくるくらい凄く申し訳なさそうだけど、バゼラルドは下げてくれないんだ。自分への殺意がないだけ安心(していいかは、まだ微妙)するけど、解放するつもりは全然ないよね??


 助けを呼ぼうにも首の皮が切れるか切れないか、絶妙な位置で刃を押し当てられてるし、身動き一つ取れない。そういえば、昔本で読んだ気がするけど、この短剣って、確か、刺突用だったような。でも、これ、両刃っぽいし??


 などと、やはり現実逃避の一環で、またもどうでもいい些末事を考え始めたところで、少女はやっと謝罪以外の言葉を口にした。


「あのね、いくつか訊いてもいいかなぁ??このお城にハイディマリーっていう娘がいるよね??彼女が今、このお城のどこにいるのかを教えてほしいの」


 ハイディと同じ顔が、ハイディと同じ声で、ハイディを探している。


 少女は宛がっていたバゼラルドを首元から離す――、が、次の瞬間には床に、ミアの左耳の真横に突き刺さっていた。更には空いた右手で口を塞がれる。

 動きが速すぎて、抵抗どころか目で追う事すら無理。全身にドバッと冷たい汗が大量に噴きだす。


「手荒な真似してごめんね。あたしの質問には首を縦か横、どっちかに振って答えてくれればいいから。それさえしてくれれば、解放してあげる。約束するわ」


 少女の表情も声も弱々しいが、言ってることと実際の行動が矛盾しすぎている。決して絆されてはならない。

 しかし、哀しいかな。ミアには抵抗できるだけの力も気概もまるで持ち合わせていなかった。

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