第114話 神様などいないことを知っている①
(1)
聖壇にイモが吹っ飛ばされた弾みで、台座の両端の蝋燭が二本とも倒れ、床の上で折れる。
火が消されていてよかった。つい怒りも手伝って手が出てしまったが、己の浅慮に反省心が湧いてくる。
蝋燭と同じく床に落ちた経典をアードラが拾い上げた。どことなく嫌そうに表紙に目を向け、手の中で小さなボールを転がすように両手で弄ぶ。
聖職者が見たら怒り出しそうなぞんざいな扱いにカシャはイモへの怒りを忘れ、つい周囲を見回してしまった。幸いにも当教会の神父はこちらの不穏を気にかけてはいるものの、避難者への不安対応を優先しているのでそれどころではなさそうだ。
気を取り直し、聖壇ごと床に投げ出されたイモを睨み下ろす。
真正面から殴り飛ばした顔は陥没し、曲がった低い団子鼻から盛大に鼻血を垂れ流している。
ぶふー、ぶふー、と汚らしい音の呼吸に嫌悪感は募るばかり。なんて醜い輩だ。
カシャは決して人の価値を美醜で測る人間ではない。
だが、この男の醜悪さだけはできることなら今すぐこの世から始末してやりたい程に耐え難い。
こんな男のせいで妹は、一生消えることのない傷を身体にも心にも負わされたのだから。
「……ぶひょ、ぶふ」
「うわ……、殴られて辛うじて人間だった脳味噌が豚にでもなった??あぁ、こんな言い方したら豚に失礼だね。豚は意外と顔可愛いし繊細で賢いらしいし」
アードラが経典を弄ぶのを止め、整った顔を不快に歪め……、てるようで、どこか愉しんでいるようにも見受けられる。
「いいから黙って捕縛しろ」
「はいはい」
捕縛用の手錠を投げてよこしかけ、果たしてイモの太った腕にはまるか心配になり、代わりに縄をアードラへ投げてよこす。アードラは経典をぽいっとラシャに放り投げ、「あんたね!もうちょっと丁寧に扱いなさいよ!罰当たり!!」と怒鳴られながら縄を宙で受け取った。
「聖壇、弁償しなよ。壊したのはカシャ一人なんだし」
「わかってる」
金勘定にうるさい奴だ。
憮然とするカシャの横でアードラは、よっと声を上げイモをうつ伏せに転がし。片足で思いきり背中を踏みつけると、素早く後ろ手に太い腕を縛り上げた。
「はい終了ー」
最後に一発、脇腹へ強烈な蹴りを一発かます。
スタンも足癖酷いがアードラも相当だな……、と、呆れが込み上げる。
「ぶふ、ぶぶぶふふふ」
「あれ??まだ意識残ってたの??」
「ぶふふ、……ってな、ぶぶぶ」
「あのさ、豚語じゃなくて人の言葉喋ってくれない??」
「アードラ」
鼻血と殴られた痕と怒りとで茹蛸みたいになったイモが、必死に顔を上げ、三人を睨み上げてくる。
「ぶぶ、ぶほ……うふく、は、ぶぼってない、よ。おまえら、きょうだいへの」
「……なに??」
ニタァアア、と化け物じみた醜くも恐ろしい笑みを血だらけの顔一杯に広げ、イモはコーリャン語で言った。
「おまえ、ら……ぶひょうぶぶっ!が、くるまえ……、ばくだん仕込んだ。じげんしきのヤツだよお。ぶぶ、たぶん、残りよんじゅうごぶんぐらい、かなぁー??」
「「何だって!!」」
思わずラシャと共に、もう何年も使っていないコーリャン語で叫ぶ。
「お前!どこに仕掛けた!!言え!」
「ぶぶぶ、言うわけないよねぇー、殺されたって言うもんかぁー」
「あんたねぇ!!アタシら以外の関係ない人たちも巻き込むなんて!!しかもアンタの世話してくれた人だって少なからずいるのに!!完全にイカレてる!!」
「世話してくれたって所詮他人だよお??家族じゃないから別にどうでもいいんだけど。それよりさっさと爆弾探すか中の連中外に出したら??やっと落ち着いたところなのにまた避難しなきゃいけないなんてかわいそうー」
大きく震えていたラシャの全身が硬直したかと思うと、物凄い速さで
「やめろ!」
「離して!」
「こいつの頭かち割ったところで何の意味もない」
「……っつ!」
「あのさ、僕、カナリッジ語と共通語しかわかんないんだよね。どっちかで喋って欲しいんだけど」
いつの間にか足元に座り込み、呑気なようで褪めたアードラの声に、熱くなり過ぎた頭が急速に冷えていく。
「ラシャはともかく、カシャが取り乱すってことは結構ヤバい状況??」
「あぁ……、この男がこの教会に爆弾仕込んだ」
「ふーん、そういうこと」
立ち上がったアードラは再びイモに歩み寄ると、額に拳銃を突きつけた。
「アードラ!こいつは殺されても爆弾の場所は言わないって……」
「だろうねぇ」
「あと四十五分……、今の時間じゃ四十分もないって!」
「じゃあ探すしかないね」
探すって……、と言葉を詰まらせたラシャを背に、アードラはイモを見下ろし、微笑んだ。
「爆弾の在処なんて別に言わなくてもいいよ。あと、どうせあんた頭悪そうだから複雑な爆弾なんて作れなさそうだし」
「あ、あたまわっ……!」
「爆弾の導火線は何本??一本、二本??ひょっとして保険で何本も作った??言わなきゃ今すぐ撃つ。僕は後ろの二人と違って人を殺すことに何の抵抗もないから」
アードラは笑みを深くし、トリガーにかけた指を軽く引く。
イモは初めて恐怖を覚え、逆に彼の笑顔から目を離せなくなってしまった。
「早くしてよ。僕意外と短気でさ」
「い、いい、いいいいい、一本だおお」
「了解。じゃ死んで」
アードラの指が完全にトリガーを引いた……、かと思いきや、「バーン」と非常にやる気のない言い方で、あくまでトリガーを引く真似をしただけだった。
「あ、別の意味で死んだ」
アードラの足元でイモはすっかり意識を飛ばしていた。
「肝ちっちゃ。なに、ラシャ、こんな奴にヤラれたの。そりゃ男嫌いにもなるよね」
「なっ、ばっ……!ち、違うわよ!!ヤ、ヤ、ヤラれては、ないっっ!!!!やめてよ!!」
「その激しい誤解は今すぐ解け」
「はいはい了解」
「あんた本当にわかった?!」
「しつこいなぁ。わかったって。それより今優先すべきは」
「第一に避難者の安全確保。予定が順調に進んでいるならイェルクが近くの別の教会に待機している。避難者には申し訳ないが、新たにそっちへ緊急避難してもらう」
「爆弾は??ほっとけないよね。二人は避難誘導、一人は残って爆弾探しでいいんじゃない」
「なら爆弾探しは俺が」
俺がやる、と言いかけて、「僕がやる」と止められた。
「人や物を探すのは仕事の役割上、僕が一番慣れてる。それに今のあんたたちは正直冷静さを欠いてるし、頭を冷やす意味でも少しこの場から離れた方がいいんじゃない??」
んなっ?!と絶句するラシャを制し、たしかにそうかもしれない、と苦い気持ちは残りつつ納得する。
「爆弾探しはお前に任せた。俺とラシャで説明と避難誘導する」
「りょーかい」
「爆発時間までに間に合いそうになければ必ず逃げろ」
「当然。言われなくても」
あからさまに不服そうな顔のラシャの背中を押し、後方の壁際に集まってこちらを窺う避難者たちの元へ、カシャは歩き出した。
(2)
ヴェルナーが空挺から飛び立ち、ノーマンはとうとう機内で唯一人となった。
本来はこの後、イェルクが待機する教会付近へ着陸予定だった。
しかし、ノーマンは教会ではなく遠く離れた海の方角へ向けて飛んでいる。
その理由は──、旋回するプロペラの音、風に流れる飛行音などに混じって、頭上で何かが動き出す音が響いてくること。ノーマンだけが残ることをずっと待っていたかもしれない。
強風に晒されながら機体に張りついていた体力と執念は褒めてやってもいい。
全体的に男女問わず、華奢で線の細い者が目立つ吸血鬼にしてはなかなかにやる。
「でもねぇ、その執念が命取りなんだなぁー」
突然、目の前に大きな影が現れ、ノーマンの視界を奪う。
窓に吸血鬼が一匹、蝙蝠羽根と腕を広げて窓に張りついていた。
ノーマンは目にも止まらぬ速さで腰から拳銃を引き抜き、その眉間に向けて一発撃ち放つ。
「おっと!」
額から血を流し、墜ちていく吸血鬼と共に機体も降下しかけ──、すぐさま立て直す。窓のど真ん中に蜘蛛の巣状にひび割れ、硝子に盛大に空いた穴に「あーあ」とつぶやく。直後、新たに白い掌が窓に張りつき、中へ向かって飛び込んできた。
一瞬の遅れにより、機内への侵入を許してしまった。
有無を言わさず、ハンドルを握ったまま片手で撃つが素早すぎて自分の動きが追いつかない。
身動き取れないノーマンを嘲笑い、そう広くない操縦室内で二、三度跳ね回ると吸血鬼はノーマンへ向かっていく。
破壊された窓から強風が流れ込んでくる。
目を細め、闇に覆われた空と雲、眼下に拡がる夜に沈む街、そして──、黒い海が近づいていた。
目と鼻の先まで接近した吸血鬼へ片腕を伸ばし、横っ面に拳を叩き込む。
吸血鬼は横倒しに隣の席の方へ倒れ、動かなくなったが、それもいつまで持つか。
自らの腕に重なりそうな脚を跳ねのけていると、今度はぶらぶらと黒い足先がひび割れた窓の向こうで揺れていた。
ふぅぅ……、と息を大きく深く吸い込み、同じくらい大きく深く息を吐きだす。
倒れた吸血鬼の瞼がぴくぴく動き、今にも目を覚ましそうだ。
ぐん、と大きく機体を降下させる。
大きく傾いた機体から、黒い足先の持ち主は振り落とされたようで、人の形をした影が落下していく。その後を追うように、出せるだけのスピードを出してノーマンは降下し続ける。
「貴様、何のつもり……」
目覚めたはいいが、激しい振動と急降下で身を起こしているのさえ精一杯な吸血鬼に、「見てわかんないかなぁー」と振動で激しくぶれる声で言う。
「まさか……、う……」
ノーマンの意図に気づき、吸血鬼は再び襲いかかろうとしたが、急降下による急激な気圧変動で口元を抑えた。ノーマン自身も酷い吐き気に襲われていたが、ひそかに耐えていた。でもどうせ、あと少しで解放される。
「や、やめ……」
「やあぁあだねぇええっ!!」
んべ、と舌を出し、限界まで降下スピードを上げる。
闇に染まった海面はすぐそこまで迫っていた。
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