第109話 窮鼠を救う②
※場面は転換しますが、前回と引き続きモブ視点です。
(1)
漆黒に支配された空に黒煙と炎が立ち上る。
炎は壊れかけのテントへ次々燃え移り、赤錆でぼろぼろの骨組みは禍々しい赫へ変わっていく。
そこら中で常に漂う様々な悪臭は煙と煤の臭いで掻き消され、その臭いを吸い込まないよう老婆は垢に塗れた袖口で口元を覆った。
老婆がここスラムで暮らしだしてからは相当長い。人生の半分近くと言っていい。
だからこの手の焼き討ちに遭うのも今回が初めてじゃないし、過去にも幾度か経験済みだ。
闇と黒煙だらけの空をそっと眺めてみる。煙と同化しそうな程真っ黒な影がいくつも機敏に飛び回っていた。
ここで何十年と生きてきたが、吸血鬼が集団で襲撃しに来たのは初めてである。
誰の命令かなど簡単に予想がつく。大方、吸血一族の長、厳密には元長だった男だろう。
かの一族は二十歳に満たない元人間の娘に乗っ取られ、元長も絶対服従状態だと、吸血鬼城からスラムへ逃げ込んだ若い吸血鬼から話を聞かされた。更には双頭の
かの賞金稼ぎ組織の中には、かつてこのスラムで暮らしたコーリャン人兄妹がいる。
その縁あってか、組織全体で手厚い支援──、定期的な食糧生活用品などの物資配給、医療手当、吸血鬼の住人には血液パックの配給など、また希望者には職業支援などスラムから抜け出すための自立支援も行っている。
その代わり、自分たちは彼らが求める情報を逐一教える。持ちつ持たれつの関係というやつだ。
『お前たちの中に我々の同胞が多く存在すると聞く。賞金稼ぎ共の始末に協力すれば、これ以上攻撃するつもりはない』
襲撃した当初、吸血鬼達は取引を申し出たけれど、自分たちの答えは決まっていた。
すぐ近くのゴミ溜めの中へ、倒れ込んだ男へ吸血鬼が覆い被さった。
自分の周りを囲む女達が悲鳴を上げたが、首筋を噛まれるのを寸でで躱し、男は力一杯吸血鬼を押し返した。
這う這うの体で逃げ出した背中に再び飛びかかろうとする、もう一つの黒く痩せた背中を、別の男が鉄パイプで殴りつける。起き上がる隙も与えず、何人かが寄ってたかって鉄パイプを振り上げた。
「逃がさないよ!」
空から、地上から続々と吸血鬼達が迫りくる。
頭上の吸血鬼には石を使った投擲で、地上の吸血鬼には鉄パイプや棍棒なんかの即席武器で男たちは女子供を守るべく応戦する。そこに人間、吸血鬼の違いはない。ただ同じスラムで暮らす者という共通点があるのみ。
「婆ちゃん!早く早く!!」
女たちがこぞって自分に手を差し出し、数人分の手が老婆の枯れ枝の腕を強く引っ張ってくる。
そんなにきつく引っ張られたら痛い。などと訴える悠長さは今の自分たちには一切ない。
そうこうする間にも吸血鬼の数はどんどん増えていく。
自分があと二十年、否、せめて十五年若ければ、男たちと一緒になって応戦できたのに。
純血の吸血鬼とはいえ、年を取れば人間と大して変わらない。何なら人間の若者の方が余程使い物になる。
昔はいくらでも背中の蝙蝠羽根を出現させられたのに。今じゃ飛び方どころか羽根の出し方さえ忘れてしまった。闇の黒と炎の赤に染まった空を飛び回る吸血鬼たちだって、何十年後には自分と大して変わらなくなるのに。
馬鹿みたいだ。
緊迫した状況にも拘わらず、唐突に可笑しみが込み上げた。
気づくと笑んでいた自分を囲む女たちが、気でも触れたかと言いたげに外套の中を覗き込む。
「何でもないよ。それより足を止めちゃあいけないよ……」
「止めようが止めまいが
不快を催す声音による高笑いと共に、吸血鬼達がこちらへ向かって舞い降りてくる。
女や子供たちと咄嗟に辺りを見回すも、守ってくれていた男たちの姿が見当たらない。
「無力な人間や力のない吸血鬼が束になったところで私たちに勝てるとでも??今頃死ぬまで吸血されてるかもね」
何人かの女たちが崩れ落ち、子供たちは堰を切ったように泣き喚き始める。
炎の回りが更に激しくなる。泣きながら咳き込む者達への危機感も相まって、焦りばかりが募っていく。
こうなったら、自分が彼らと対峙するしかない。どう考えても力は到底及ばないが、命を懸けて囮になれば他の女子供は逃がせるかもしれない。
「……皆、私を置いて逃げ」
『私を置いて逃げな』
皆まで言い切る前に乾いた空に銃声が数発響き、吸血鬼たちが墜ちていく。
続いて老婆の目に飛び込んだのは、異変に気付き飛びかかってくる地上の吸血鬼の顔面に刺付鉄球がめり込む瞬間だった。
「婆さんたち平気か??」
朴訥とした低い声、190近くある巨体が老婆たちに颯爽と駆け寄ってきた。
その間も鳴りやまない銃声に耳を塞ぎつつ、身を寄せ合った女子供たちと何度も頷いてみせる。
「男たちなら大丈夫。死んでなければ吸血もされてない。あれはただのハッタリ」
一斉に安堵の溜息が漏れ、夜気を大きく揺らす。銃声はまだ鳴りやまない。
「で、でも、まだ、空には……、ひっ!」
女の一人が真っ暗な空を指差した直後、顔面血塗れの吸血鬼達が近くに堕ちた。
「あれも大丈夫。死んだ訳じゃない」
「で、でも、かお、顔が……!かすかに血の臭いだって本物……」
「あれは撃たれた奴の血じゃない。奴らの洗脳を解くための」
『カシャ。そこまでにしときなよ。公にするにはまだ早い』
「…………」
カシャが言いかけた言葉をグッと飲み込む姿に不安を感じないでもない。
多分彼が身に着けている発信機とかいうモノで仲間に口止めされたのだろう。だったら深く追求しない方がいい。自分以外の不安そうにする女子供に『今は追及しない方がいい。それより信じよう』と目線で訴えかける。
「この場にいる者全員聞いて欲しい!スラム近辺の教会を開放させた、そこへ逃げてくれ。烏合に警備させているし、アードラが連れて行く。少なくともここよりはずっと安全だろう」
「……あんたはどうするつもりだい」
「俺は……」
『気になってるならさっさと行ったら??ここはもうすぐカタつくだろうし』
「……わかった。でも、もう少しだけスラム留まる。火消しをしなければ」
『了解。
「放っておけ」
自分たちが先程吐きだしたものより更に深い嘆息に、夜気の揺れも大きくなる。
「火を消しながら男たちも集めてくる」
「私達も手伝うよ」
「いや、それは」
「私達は持ちつ持たれつ、だろう??」
これっぽっちも気にしちゃいないのに、カシャはひどく申し訳なさそうに頭を下げた。
身体は随分大きく育っても中身はスラムで暮らしていた頃とちっとも変わらない。
そのことが妙に微笑ましくて場違いに笑ってしまったけど、自分以外も笑っていたので、まぁ、勘弁してほしい。
(2)
家の外は阿鼻叫喚の地獄絵図と化している。
レイリンは母と二人きり、自宅兼両親が営む駄菓子屋の地下室に身を隠し、息を潜めていた。
父イヴァンは突然の吸血鬼達の襲撃からコーリャン人街を守るため飛び出したきり、ちっとも帰ってこない。自分と母は薄暗い地下室で身を震わせ、抱き合って事態を収まるのを、父が帰るのを待つしかない。
怖くて怖くて堪らない。つい数時間前まではいつものように、平凡で平和な日常を送っていたのに。
店先も家の窓という窓の鍵をくまなく閉めた。でもそう厚くない扉は鍵をかけていても、数人がかりで本気の力を出せば蹴破られるかもしれない。窓だって叩き割ろうと思えばいくらでも割れる。だからもっと防犯に備えた方がいいと父に何度も訴えたのに。
その父だって──、ううん、考えてはいけない。
こんな時、混血に拘わらず吸血鬼の特性がまったく現れていない自分の無力が恨めしい。
せめて力に目覚めていれば、母を連れて安全な場所へ逃げ出すことくらいはできた筈。黒髪に柘榴色の瞳、青白い肌と見た目だけは純血みたいなのに、見掛け倒しもいいところだ。
「な、なに……」
「どうしたの」
「シッ……」
頭の上、店の古い床板がギシッ、ギシッと一定の間隔を置いて軋む。
誰かが駄菓子屋に侵入したんだ。レイリンは母と顔を見合わせ、より固く抱き合う。
とにかく息を殺して気配を消そう。
床板の一部が取り外せるなんて、そう簡単に気づいたりしない、と信じたい。
カタカタ鳴りそうな歯を必死に食い縛る。早く、早く出て行って!
「…………ひ」
レイリンの願いは虚しく、足音の主は取り外せる床板の上を何度も何度も踏みしめては歩き回る。
確認か挑発か、その両方か。
もう一度見つめ合った母の顔は自分以上に真っ青な顔をしていた。薄暗い中でも分かる程に。
お父さん、お父さん!早く帰ってきて……!
私じゃお母さん守れる自信なんてないよ……。
「お父さん……、」
父と、もうひとり、ある人物に声なき声で呼びかけた時だった。
※老婆は前章で身を隠していたスタンの居場所をラシャ達に教えた婆ちゃん、レイリンは同じく前章の閑話休題で登場した林檎飴屋台のお姉さんです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます