外伝 サイケデリック・クリムゾン
アードラとラシャの男女凸凹コンビを主軸にしたエピソードです。
第141話 薄闇明ける頃
夜の残滓の薄闇と朝の後光が混ざり合う、夏の早い夜明け前。
歓楽街裏通りに並ぶ、売春宿を兼ねたアパート群の一部屋から去っていく客がひとり。その背中を半開きの扉から顔だけ覗かせ、部屋の主……、相手を務めた女が黒いスリップ一枚のしどけない姿で見送っていた。
やがて、客の姿が見えなくなると、女はベッドとわずかな家具のみ置いてあるだけの狭い部屋の奥へと引っ込んでいく。
情事の後を示す乱れたシーツを直しもせず、ようやく一息ついたと女は煙草に火をつけ、煙を吐き出す。それを何度か繰り返し、煙草をベッドサイドの灰皿に押しつけた時、扉を叩く音がした。
こんな明け方近くに新たな客が来ることなどない。
何人かの同業の女が『一緒に朝食を食べよう』と誘いに来たり、仕事の元締めが集金に来るとしても、さすがに時間が早すぎる。不審者の線が高い。
カナリッジという国自体、お世辞にも治安が良いとは言えない。
増してや、掃き溜めのようなこの場所で、女ひとりが暮らすのはちょっとした隙が命取り。扉の鍵は二重三重にかけた上、チェーンをかけるのは常識中の常識。
再び扉を叩く音がしたが、息を潜め、部屋の前から立ち去るまで無視を決め込むのが一番良い。
「あの……、さっきの客だけど。忘れ物してしまって」
引き続き警戒しつつ、女は「……ん?」と耳をそばだてる。
つい十五分程前までいた客と声が似ている気は、する。
でも、あいつ、忘れ物なんてしてたっけ。
衣服を始め、色々な物が床に散らばった薄暗い室内をざっと見回し、ベッド周りも適当にごそごそと探ってみる。
「あぁ、これ?」
外に聞こえない程度の小声で、枕の下から転がり出てきたイヤーカフスを拾い上げる。何の模様もなく、つるりとした無地のそれは見るからに銀メッキで、玩具のように安っぽい。こんなものをわざわざ取りに来るなんて。もしくは、このイヤーカフスは口実で目的は別にあるのかもしれない。
「ねぇ、もしかして、イヤーカフスのこと?」
警戒心は解かず、扉越しに客に問う。
玩具みたいな安っぽい、と、心中でのみ付け加えて。
「そう!そうそう!やっぱりあったんだ!!」
「うん、あったけどさ。これのためにわざわざ戻ってきたわけ?」
「そうだよ!僕にとっては大事な物だから……」
『大事な物』と言った時の語調がやけに切なく、寂し気で。
女は不覚にも普段は覚えない憐れみを客に抱いてしまった。
女は最後の砦でチェーンだけは外さなかったが、鍵はすべて外し、扉を開ける。
「ほら、あんたの大事なモン」
「ありがとう!」
わずかな隙間から、おそるおそる手だけを少し出し、イヤーカフスを手渡す。男は良く言えば人のよさそうな、悪く言えば卑屈な笑みを浮かべ、手を伸ばす。
小柄で痩せ気味、少し後退しつつある栗毛の貧相な男だ。不細工ではないけれど、影が薄そうな風情から女と縁がないのが見て取れる。
「そんな大事なモンなら忘れるんじゃないよ……」
扉越しにイヤーカフスを手渡した直後、その手をきつく掴まれた。
悲鳴を上げようとして──、できなかった。
悲鳴を上げるより先に、信じられない速さでもう片方の腕が扉の隙間へ押し入り、女の口を塞いだからだ。
空いている方の手で口を塞ぐ手を払うか、腕を掴む手を払うか。
恐慌状態に陥ると、人はどちらの選択も放棄してしまうことがある。今の女はまさにその状態だった。
客が掴んだままの女の手首に唇を寄せると、上唇から鋭い牙が伸びていく。
益々恐慌に陥る女を嘲笑うように、ちらりと見やってきた男の栗色だった筈の目は禍々しい深紅へ変貌していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます