第77話 本音

 ピンセットにつままれた脱脂綿が肩の創傷に触れる。

 力を入れたり擦ったりはせず、ぽんぽん、と撫でるような触れ方。でも、傷口に消毒が染みるのは変わりない。肩だけでなく両腕も数か所、掠り傷だが怪我を負っている。

 小さな傷ほど意外とあとから響いてくる。動いているときは左程気にならなかったのに。

 イェルクが傷を消毒する間、ミアはずっと眉をしかめ、奥歯を嚙みしめていた。


「ミア、終わりだ。今回は消毒と軟膏だけで十分だろう」

「ありがとうございますっ」


 ピンセットと脱脂綿を膿盆へ置くため、イェルクは横を向く。その隙にはだけていた襦袢類、着物の襟を整える。

 後処理をする物音だけが医務室に響くなか、ふっと小さく笑みを漏らす。すると、イェルクは手を止め、小声で「どうした??」とミアに問う。


「ううん、たいしたことじゃないんだけどね」

「うん??」

「イェルクさんが小さな声で話すの、なんか慣れなくて」

「そうか??」


 ふふ、と再び小さく笑うと、ミアは少し離れた右手側へ視線を向ける。カーテンで仕切られたそこはベッドが並び、そのうちの一床にルーイが眠っていた。イェルクが声を(相当に)落としていたのは彼を起こさないためだ。

 態度と所作はいつも通り。声量が極端に違うのが妙に可笑しみを誘われる。

 かと言って、あまり笑っても失礼だ。気を抜くと緩みそうな頬に力を入れていると、なぜかイェルクも頬を緩めていた。


「えっと、なにか??」

「あぁ、いや、」


 緩んだ頬、下がった眉尻は微笑んでいるようで躊躇いが隠されてもいる。

 イェルクは無言で微笑んでいたが、やがて、うん、とつぶやき、言葉を発した。


「少しずつ笑えるようになってきて良かった」


 言われた意味が分からず、曖昧に笑ってごまかそうとして──、逆にぎこちなくなった。


「しまった。余計なこと言っただろうか」

「いえ、そんな」

「どうも俺は年若いお嬢さんの扱いが下手でな。エリカへの対応も正直四苦八苦してる。気を悪くしたならすまん」

「え、ぜんぜんっ、全然ですって!よくわかんないけど、私のこと気にかけてくれてるってわかるし!」


 慌てて顔の前で両手を振れば、イェルクはしぃーっと唇に人差し指を当ててみせた。

 そうだ、ルーイを起こしちゃいけないんだった。ごめんなさい、と小声で謝り、「私、そんなに思いつめてたように見えてたの??」と続ける。


「見えてた、というか、実際思いつめてたんじゃないのか??」

「う、否定はしません……」

「まぁ、思いつめているのはミアだけじゃない。ルーイもだが。起きたら、彼とも一度話そうかとは思う」

「何を??」


 イェルクの表情が改まり、座っている椅子ごとミアに向き直った。

 視界を阻む前髪を指先で払えば、ひとつしかない群青の瞳が露になる。その深い青は真剣味を帯びていた。


「気に病んでいるのはスタンの件だけじゃないだろう??君自身の血に宿る力について、思うことがあるのでは??」

「…………」


 見透かされている。

 徐に目を逸らしたので、イェルクが今どんな反応したかはわからない。気配から察するに怒りも呆れもしていないが、わざわざ確認する気にもなれない。


 純血の吸血鬼は何代かに一人、東の国の血を色濃く引く『先祖返り』と呼ばれる者が生まれてくる。

 突然変異のようなもので、その証拠に死んだ両親もヴェルナーも髪の色素は薄く、顔の彫りも深い。対するミアは漆黒の髪、彫りが浅く、薄ぼんやりした印象の顔立ちだ。体格だって平均身長よりずっと下回るし、(鍛えているので適度に筋肉はつきつつ)板のように薄っぺらい。


 だから。先祖返りとは外見上の違いなだけだと信じていたし、周囲からもそう教えられてきた。

 なのに、まさか先祖返りの血に強制支配の力が宿っているとは。


あのお嬢ちゃんハイディの強制支配を無効化できるってことでしょー??ひょっとしたら、ひょっとしたらさーあ、ミアの血を飲ませれば他の吸血鬼にかかった強制支配も無効化できるかもねぇ。強制支配の無効化だけじゃあない。国中の吸血鬼を統率することだって可能かも。そうすればさっ、吸血鬼が人間を害さなくなるし、吸血鬼殲滅計画も中止になる。ミアを利用する形なのは悪いなぁ、とは思うんだけどさっ』

『もちろん!それを良しとするかは、ミア、君自身が決めていいからねっ、ねっ??うちの子が抵抗を感じてるのに無理強いさせたくないんだよねぇ……、僕はねっ』

『ただ、もし──、もしも、だよ??ミアがちょっとでもになったら──』



「……ア、ミア??」


 イェルクの呼びかけがかなり近い位置から聞こえる。

 我に返ると、文字通り、目と鼻の先までイェルクの顔が近づいていた。


「うひゃあ?!」

「む、すまん。さすがに近すぎたか。この場にラシャがいたら、セクハラだと怒鳴られそうだ」

「だいじょうぶ、だいじょうぶですっ、そこは気にしてませんっ。ちょっとびっくりしただけ……」

「そうか、よかった」


 ホッとした顔でイェルクは身を引くと、机に片肘をついた。無機質な機械義肢の掌に頬を乗せ、はぁ、と溜息を吐きだす。


「例の、伯爵グラーフの発言はあまり真に受け過ぎないように。たしかに一理あるのは認める──、が、下手をすると、君が国の実験台にされかねない。伯爵グラーフはそうならないよう君を守る覚悟でいるとは思うけれど」

「うーん……、そうだけどそうじゃない、というか……」


 ミアの力を国がどう利用するか、不安がないわけじゃない。

 それよりも、もっと根本的な──、とは、黙っておく。しかし、イェルクは許してくれなかった。


「では、何をそんなにひとりで抱えてる??」

「な、なにも、抱え込んでなんかいませんっ」


 ぎょろりとした隻眼がきゅっと眇められる。怖い。でも言いたくない。

 鋭い眼差しから逃れるべく、うつむいてそっぽを向く。


「本当に??」

「本当ですっ」

「嘘だな。吸血鬼城から戻ってからの君は、まるで何かに追い立てられるかのように訓練に打ち込んでいる。熱心に打ち込む分にはかまわない。ただ、軽傷とはいえ毎回あちこち傷だらけになるまで打ち込み過ぎている。大怪我を負うのも時間の問題だろう」

「そ、そんなこと」

「胸のつかえを忘れたい気持ちもなくはないんじゃないのか??君の性格上、周りの状況に遠慮して黙ってるのでは??」

「…………」


 顔を伏せたまま、ぐうぅぅ、と呻く。

 これを言ったら、ノーマンの提案を真っ向から否定することになるけど。

 椅子の座面の細かい木目を眺め、縦筋の数を適当に数える。数え終わったら、観念して言おう。言うしかない。


「あの、これ、ふざけるなって怒られるかもしれない、けど……」

「うん??」


 一呼吸置いて、再び口を開く。


「なるべくなら強制支配の力は使いたくない。力で無理やり従わせるなんてハイディと同じになっちゃう」


 我ながら甘いにも程があるのは重々承知。顔を上げ、イェルクとまっすぐに相対する。

 強張った頬や口元に怖気づきそうだが、ここで目を逸らしてはならない。


「ミア」

「はいっ」

「君ならそう言うと思っていた」

「へ??」


 途端にイェルクの表情は柔らかくなり、ふふふ、と小さく笑われた。

 肯定か否定かまでは読み取れないが、少なくとも彼の柔らかな表情はミアに安堵をもたらした──、矢先だった。


 ラシャの悲鳴に似た叫びが廊下から響いてきた。

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