第111話 地獄への入り口

(1)


 独房の中で美しい歌声が響き渡る。

 鉄格子越しに夜空の月を、星を、眺める青緑の瞳は珍しく柔和で、軽やかに歌を紡ぐ唇は弧を描く。

 舞台女優さながら、窓へ向かって手を伸ばし、歌声は益々高くなっていく。


 ドンドン!


 廊下から扉を強く叩く音。歌を聴きつけた看守が止めにきた。

 誰が止めてやるもんですか。挑発するようにハイディは更に声を張り上げる。

 さすがに他の独房からも怒気を含んだ叫びがした。こんなに綺麗な歌声が生で聴けるのに、無粋な連中ね。歌いながら蔑みを込め、分厚い扉の向こう側を睨む。


 ドンドン!


「うるさい。何なのよ」


 余りのうざったさに歌うのをやめる。程なくして扉の鍵が外され、看守長が扉を開く。

 もう何度目とも知れない懲罰房へ連れて行く気かしら。やりたければやればいい。

 しかし、看守長が脇に抱える物に目を止めるとハイディはにやりと笑う。


「ハイディマリー様。計画が始まっ」

「そのようね」


 皆まで言わせず、看守長の腕からお気に入りの真っ黒なドレスと黒いトゥシューズをひったくる。

 本当はシャワーを浴び、髪も綺麗に巻きたいがこの際我慢してやっていい。

 視線を交わした看守長の双眸は真っ赤に光っている。

 この男はハイディが吸血鬼と化して間もない頃から掛けておいた保険。万が一にでも吸血鬼専用刑務所に収監された場合に役立ってもらうため。


 己はそんなヘマをしでかす間抜けではないけれど、念には念を。

 残念ながら、または非常に信じられないことに、実際にヘマをしでかしてしまったが──、過ぎたことは、まあいい。


「愉しい一夜になりそうだわ」


 ミアとスタンの下僕化に失敗、黒犬共に大した痛手を負わせられなかった。

 だから今度は時間を、己の死刑執行間際ぎりぎりまでかけて追いつめることに決めた。


 老いぼれヴェルナーを使い、烏合と呼ばれる組織の三下共をこちら吸血鬼側へ引き入れ、不穏な計画を立てさせる。

 アードラが尻尾を掴んだ場合、そうでない場合、どちらでも対処できるようにひっそりとハイディの脳内で案をいくつか立てて。


 あの口の悪い狂犬はやはり計画を嗅ぎ付けた。まんまと投げた餌に食らいついてくれた!


 近い内、何らかの形で黒犬共の方から接触を図ってくる──、予想は的中。しかも相手はあのミアである。


 一人でのこのこ交渉しに来るなど、相変わらず頭の悪い小娘だ。

 たしかに求めに応じ、交渉の場にはヴェルナー唯一人のみに出向かせた。

 あの底抜けの馬鹿な小娘は自分が人質にされる危険は承知の上かもしれない。が、逆に仲間を人質に取られるなんて考えてもいないに決まっている。


 しかし、念は入れるに越したことはない。

 認めるも癪だが、狂犬共は並の吸血鬼じゃ太刀打ちできない。数で押したとしても返り討ちくらいわけがないので、連中と縁深いスラムとコーリャン人街の同時襲撃を決めた。残るは──


「塀の鉄条網の電流は止めました」


 看守長の言葉に続き、かすかに不穏な羽ばたきが遥か彼方から近づく気配を感じ取る。

 ハイディの頬が緩みかけ、一瞬にして強張った。


「……招かれざる客もやって来たのね。面白いじゃない」


 蝙蝠羽根の羽音に旋回するプロペラの音が重なり、刑務所まで迫りつつあった。








(2)


 眼下にて吸血鬼の刑務所と刑務所の四方を囲む、城壁のごとくそびえる堅牢で高い壁が見え始めていた。

 窓を開け、刑務所の正確な位置を確認しようとして──、刑務所の位置より先に真夜中の闇よりも黒い無数の影を機体後方に発見した。すぐ隣で共に窓から顔を出したスタンの舌打ちが、見間違いではない何よりの証拠だ。


 スラムとコーリャン人街の人々の救護活動の為、カシャ達と一緒にイェルクも先に降ろしておいてよかった。いざとなれば下手な烏合精鋭外メンバーより動けるとはいえ、彼はあくまで非戦闘員。貴重な医療従事者にして武器開発者。もしもの事態は絶対に避けたい。


 ヴェルナーの発言から予想するに、スラムとコーリャン人街を襲撃した吸血鬼程度ならカシャ達三人で殲滅可能だろう。だからこそノーマンはイェルクを三人と行動させると決めた。また、ヴェルナーの他、スタンとロザーナを空挺に残したのは一番危険性の高い吸血鬼たちを相手取る力があると見込んでの事。


 身に着けた己の武器類を確認。窓から離れ、乗降扉へ。

 寸分の迷いもないロザーナの様子にスタンの方が戸惑いを見せ──、かけたのもほんの一瞬。

 彼も即座に迷いを振り捨て、ロザーナに続き乗降扉の前へ並ぶ。


 スタンと互いに目線を交わし合い、無言で落下傘の不備欠陥がないか、念入りに確認し合う。

 その間にも空挺に黒い影たちがどんどん迫っていた。

 ヴェルナーが一抹の不安を赤い瞳に滲ませ、ロザーナとスタンを見やる。

『落下傘で刑務所の敷地内に降り立つより先に、吸血鬼達が二人に襲いかかる方がずっと早い』

 口に出さずとも、老いても尚気品を失っていない顔にそう書かれていた。


「爺さん。あんたの心配なら杞憂に終わる」

「しかし」


 ヴェルナーの反論を遮るかのようにスタンは乗降扉を開け放す。

 強い夜風が機内に吹き込む。ヴェルナーがよろめくのを横目にスタンはゴーグルを嵌め、夜空へ飛び出した。


 漆黒の空に真っ白で巨大な傘が見る見るうちに拡がっていく。

 スタンが飛び出したのと同じ方角へ、ロザーナもゴーグルを額から目元へ下ろし、飛び降りた。

 拡がった傘の向こうで黒い影が分散し、一部が自分とスタンへ向かってくる。しかし、ロザーナもスタンも武器を手に取ろうとしなかった。


 連続する銃撃音、止まらぬ断末魔が闇夜にこだまする。

 自分たちに向かってくる筈の敵は一向に襲いかかってこない──、遥か頭上になりゆく上空で、吸血鬼達相手にノーマンが空撃を開始したのだ。


 撃墜王と呼ばれていた空軍士官だった(ロザーナは詳しい話を知らないが)時代の腕はまだ確からしい。敵がスタンとロザーナの方へ落下しないよう、上手くコントロールしながら撃ちまくっている。

 お陰で風の流れに乗って順調に刑務所の敷地へ下降中だ。


「見えてきたぞ!着陸の準備を!!」

「了解っ!!」


 風に負けじと怒鳴り声に近い大声で応じる。

 鉄条網が張り巡らされた高い塀が、着陸地点の運動場が間近に迫っていた。

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