六章 Paint It Black

第58話 彼女の変化①

(1)


 ハイディ、マリウス、メルセデス夫人、その他彼女達の下僕――、のべ二十名近くの吸血鬼が双頭の黒犬シュバルツハウンド達の手で捕縛された。更には夫人の供述により夫メルセデス准将も逮捕され、彼女達が裏で行っていた人身売買が遂に明るみとなった。


 しかし、この件がきっかけでカナリッジ国民の吸血鬼への不信、風当たりは一層強いものへと変化していったのだった。









 メルセデス邸の夜会から約二か月後。




 白み始めた空が、霧に包まれた黒い森に淡い光を降り注いでいく。

 カナリッジの気温は一日を通して変動が激しい。昼間と朝晩の気温差が20℃近く変わるなんてザラ。平地と違い、特に山頂に近い場所では顕著である。

 しかし、住処の城門前に集まった者達は冬並みの寒さに拘わらず、皆一様に汗をかいていた。その内の一人、ロザーナも額にうっすら浮かぶ汗を拭っている。


 数か月に一度、定例で行われる組織全体での合同訓練。今回はいつもと違い、開始時間が早朝から昼にかけてではなく夜間から夜明け直前、烏合のみならず組織に属さない一般の賞金稼ぎも集めての大規模訓練だった。

 人数が増える分、逃げ回る側の精鋭達の負担が大きくなる――でもなく、いつもと変わらず、誰一人掠り傷負うこともなく、精鋭外や一般の者達をねじ伏せていった。いつもと違うと言えば、カメムシペイント弾の餌食になる者が通常より多いせいで、香害ならぬ臭害の憂き目に遭うくらいか。


 城門前に立つノーマンがにこやかに解散の旨を宣言する。

 やっと終わった!早くシャワーを浴びたい。


「あいつら、どいつもこいつも化け物かよ。何で夜間の森であんなに動き回れるんだよ。おかしいだろ」

「おかしいに決まってるだろ。なんせ吸血鬼を戦闘員に使ってるんだからまともじゃない。ひょっとしたら正体隠してるだけで全員そうかもよ。あのひょろい狙撃手も戦闘員の長とかいうチビも夜目が利きすぎだし、デカブツも体格に反して動き速すぎるし、女のチビもあんな細い腕して力強いし……、人間じゃねぇよ、絶対。化け物集団だ!」


 城門を潜ろうとした足が、止まる。

 声が聴こえた方向はだいたい把握した。そもそも酷い臭気が漂ってくるし、精鋭外とはいえ組織内の人間ならみっともない負け惜しみなんて誰も言わない。

 カメムシ臭なんて嗅ぎたくないけど、無言の抗議を兼ねて振り返る。


「……あんないい女なら賞金稼ぎじゃなくて見た目使った仕事すりゃいいのに」


 ロザーナに見惚れたのも束の間、ぼそり、誰かがつぶやいた言葉が沈黙を破った。


「キレイな顔に傷でもついたらもったいねぇ」

「でも色仕掛け使えそうだよな」


 下卑た視線と言葉に表情が硬くなっていく。

 こんなの言われ慣れている。適当に笑って背中向けて、城へ戻ればいいだけ。

 なのに、今日に限って、それができずにいる。


 イヤだな。なんで笑えないのかな。

 自分のことはまだしも、みんなを化け物呼ばわりされたのが、悔しい。


「え」


 突然、黒いモッズコートを頭から肩へ、雑に被せられた。

 色は自分のと同じ黒だが、微妙に大きさや意匠が違う。ということは――


 フードの影からそっと覗けば、スタンが殺気を込めて賞金稼ぎ達を睨んでいた。


「どうせペイント弾に撃たれた奴ら全員、訓練の後始末が課せられるんだ。汗も汚れも流せず、カメムシの匂いを撒き散らして、イェルクと伯爵アールの監視付きで。日が暮れるまでに終われるといいな」


 スタンは底意地悪く笑ったのち、ロザーナへ優しげな視線を送る。


「ひと息ついたら麓へ降りて食べにいこうか」

「……そう言えば、すっかりお腹ぺこぺこだわ」

「やっぱり」

「やっぱりって何よぉ!最後に食べたの、昨日の夕方だしぃ??」


 わかったわかった、と軽くいなされ、頬を膨らませる。

 些細な会話は、霧に包まれた明け方の山中においてささやかな温かさをもたらした。







(2)



 汗を流して着替えを終えた二人は麓へ降りていく。

 山中よりは薄いが、麓の街も朝霧に包まれ、運河にかかる桟橋の両端に朝市の屋台がひしめいている。


 数多くの屋台の内、二人はベーグルの屋台の前に立った。

 肉厚のハムソーセージ、カルトッフェルじゃがいもサラダ、レタスを挟んだ特大サイズのベーグルがスタン、苺、ブルーベリー、蜂蜜漬けの林檎、菫の砂糖漬けに溢れんばかりの生クリームを挟んだ、これまた特大サイズのベーグルがロザーナに手渡される。

 店員に礼を述べた後、二人はベーグルを交換し合った。一瞬、えっとなりつつミルクティーのカップを手渡す店員へにこりと笑い返す。スタンも笑いを噛み殺している。


「どうしても間違えられちゃうわねぇ」

「くっ……、まぁな」

「ね、ミルクティーが冷めないうちに早く行こっ」


 ベーグルとミルクティーを手に、二人は橋を下りていく。

 朝陽が運河の水面をきらめかせ、橋や家々のレンガ瓦を輝かせる。少し冷たいが爽やかな空気の流れ。気持ちのいい光や風を感じながら二人で堤防を下り、人気の少ない河川敷に腰を下ろした。



「このハム、噛みごたえあっておいしいわぁ」


 運河を行き交う船を眺めつつ、ロザーナはひと口食べるごとにおいしい、おいしいと連呼していた。が、ふと、途中で食べるのをやめる。


「どうした??」

「んー、ここのクランベリーソースとチーズクリームのベーグル、ミアが好きだったなぁ、って思いだしちゃってぇ。一緒に食べに行けたらよかったのに、なぁんて……」

「…………」

「また、一緒に行ける時がくるかなぁ……。あ、ごめんねごめんねぇ!せっかくおいしいモノ食べてるのにしんみりちゃってっ」

「帰りにあいつの好きなベーグルを買って帰ってやるといい。どうせカップを返すついでだ」

「うん、ありがとぉ」


 少しはにかんでみせると、スタンは安心したように微笑した。



 現在、ミアは無期限の謹慎を言い渡されている。

 理由はハイディへの吸血の罰だが、他にも大きな理由がある。



「ねぇ、スタンさん。前に女の人の血をたくさん吸うと凶暴化する……って言ってたでしょぉ??その不安からミアを謹慎処分にするのは分かるの。でも、あれからしばらくしてもミアは特に変わりないじゃなぁい??検査結果も問題ないし体調も戻ってる。そろそろ謹慎解いても」

「いや、駄目だ」

「なんで??もしかして、凶暴化の他に何か気になることでもあるの??」


 スタンは質問に答えず、黙々とベーグルを食べ続けている。

 彼は時間に縛られない時はよく噛んで食べる質だ。にしても、少し時間がかかり過ぎている。

 おまけにようやく飲み込んだと思ったら、悠長にミルクティーを啜っている。


「ね、聞いてる??」

「…………」

「ねぇってば」

「…………」

「もぉーっ!」

「……膨らんだブレッドパンみたいな顔」


 スタンは唇を尖らせるロザーナから顔を反らすと、小さく吹きだし、くつくつと笑った。


「ちょっ……とぉ?!なにそれっ!!」

「悪い悪い。話を戻そう。若い女の血は特に美味い……らしい。その味を求めて若い女ばかりを乱獲するようになるから、だと思う」

「うん、それは……なんとなく理解できるの。でも、ミアは全然おいしいと思わなかった!ってものすごく苦い顔して訴えてたでしょお??だから違う理由があるような気がして」

「理由……、ねぇ……」


 神妙に呟いたきり、スタンは再び黙ってしまった。

 ここでロザーナは、もしかしたら彼に言いたくないことを言わせようとしているのか、と思い至った。


「ごめんね……、言いたくなかったら無理には」

「あくまで憶測でしかないが、若い女の血は味の良さだけじゃなくて、大量に摂取し続けることで凶暴化ともう一つ、何か特別な力を齎す……のかもしれない。何となしに想像はつくが……」


 そこから先の言葉をスタンはとうとう最後まで口にしなかった。かと言って、ロザーナも追及する気はなかった。これ以上言わせたら、おそらく彼を傷つけてしまう気がしたから。

 恋人であり仲間であるからと言って何でも話して欲しいとは思わない。話せることだけ話してくれるだけで充分。


 それに、この話の続きは自分じゃなくてミアが聞いた方がいいような気がしてきた。

 スタンが自主的に話す気になったら、の場合に限りだが。


「お前変わったな」


 両手でカップを持ちながら、スタンがぽつりと漏らす。その視線はロザーナではなく、残り少なくなってきた液面へ向けられている。


「落ち込んだとしても前は自分に関してのみだったのに。今は人のことで頭悩ませてる」

「え??……あ!ごめんねごめ」

「いや、いいんだ。それだけあいつが大事だからだろ??」


 スタンの目線が液面からロザーナへとゆっくり向けられ――、たかと思うと、ふい、と逸らされる。


「……少し妬けるがな」

「何言ってるのぉ?!スタンさんだって大事よぉ!」

「いや待て?!外では勘弁してくれ!!」


 慌てふためくスタンに構わず、がばりと抱きついてみせる。

 カップの液面が激しく揺れて零れそうになったが、知ったことじゃない。

 スタンだって口ではやめろ、という割に本気で引き剥がそうとはしないし。


『やめろ』『やめない!』の攻防というじゃれ合いを繰り返す間に、朝の光と空気は暖かさを帯びていった。

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