第57話 空っぽな君

(1)


 形勢逆転。勝機を掴み取った。

 確信めいたものを感じた瞬間だった。


 その確信は、宛がわれた短剣バゼラルドに首筋を食い込ませていくハイディによって消し飛んでいく。


 多少の傷ならまだしも致命傷を負わせる訳にはいかない。

 しかし、下手に剣を引こうとすれば更に深い傷を負わせる、最悪死なせてしまう可能性が高くなる。でき得る限りは避けたい。迷い、焦り、逡巡がミアとロザーナの脳裏を駆け巡る。

 それは数秒程度だったか確実な隙と化した。


「しまった!」

「ロザーナ!!」


 確実な隙という名の油断を、ハイディは決して見逃さない。

 青白い首筋に幾筋かの細い朱を流し、ほんのわずかに緩んだ拘束から逃れると自らの髪を掴む腕へ、文字通り牙を剥く。

 下唇まで伸びた二本の牙がロザーナの左の手首に突き立てられる。


「させないっ!」

「ぎゃっ!!」


 がら空きになったハイディの背中へ電流を流し黒棒を叩き込む。ミアの動きに併せてロザーナも右手の短剣の柄を叩き込む。

 ロザーナの腕からハイディの牙があっさりと外れ、力の抜けた華奢な身体は崩れ落ちていく。


「ロザーナ!……だ、だいじょう、ぶ……??」


 床に伏したハイディに注意を払いつつ、おそるおそるロザーナの腕を取る。柔肌に残された二つの歯形に血の気が引いていく。


「んー、まだ吸血されてなかったっぽいしぃ、たぶんだいじょーぶじゃなぁい??」


 ミアの心配をよそにロザーナはあっけらかんと言ってのける。


「気になったら、イェルクさんにお願いして検査してもらえばいいしー」

「……だったらいいけど、あっ?!」


 二人の間で床に横たわっていた筈のハイディが、立ち上がってふらふらと歩き始めていた。

 ふらふらと言っても風を思わせる速さだが、どこへ向かっているのかは二人にはお見通しだ。


「この壁に何があるの??」

「?!」


 僅差でハイディが辿り着く前に、ミアは例の隠し扉がある場所へ駆け寄り、壁をドン!と拳で叩く。

 青緑ターコイズブルーの双眸を見開き、なんで、と声を出さずに呟く色を失った唇に、自分でも驚くほど淡々とした語調で告げる。


「さっきからずっと、この壁気にしてたよね??」

「なっ……!」

「あたし達が気づいてないって本気で思ってたのぉ??」


 前にはミア、後ろにはロザーナ。体力が尽き始めたハイディは肩や胸を大きく上下させて睨むことしかできない。ふらつきが治まっていないのは、失血による眩暈も起きているからかもしれない。

 彼女がいかに吸血鬼としての能力が高くとも、無力な者を一方的に狩るのと、心体共に戦闘慣れした者を相手取るのとでは訳が違ってくる。

 かと言って油断は禁物だ。油断しかけたがために、ロザーナの身に危険が降りかかった。同じ轍は踏んでなるものか。

 ほら、そう思った傍から壁に何やら指文字を――、短剣の柄が容赦なく振り下ろされた。


「次、同じことしたら斬り落とすからねぇ」

「…………」


 いつもと変わらぬロザーナの笑顔が、変わらぬ笑顔だからこそ、怖い。怖すぎる……。

 よく見れば、ハイディのもう片方の腕はすでにぎりぎりと締め上げられている。

 さすがのハイディも怯えた顔でロザーナを凝視しているが、怯えの中に怒りが滲み出ているのが彼女らしいというか……。だからこそ圧倒的不利、絶体絶命の状況下で一矢報いる好機を与えてはならない。


 間髪入れず、黒棒をハイディの鳩尾に浅く突き入れる。

 耳元で歌いながら電気を流し込めば一発で気絶させられるだろう。

 すぐにそうすべきだと頭では理解している、しているけれど――


「ハイディ、ひとつだけ答えて」

「ミア?!」

「あなたはいったい、何がしたいの??」







(2)


 この期に及んで何を言い出すのかと思えば。

 緊迫した状況と不釣り合いにも程がある。


 詰問と呼ぶには呑気が過ぎるミアの問いに、ハイディは失笑しそうになった。

 ふいに込み上げた笑いを堪えようとして、唇が不自然に歪む。目敏く察したミアのつぶらな赤い双眸に険しさが増し、鳩尾の黒棒がぐっと深く突き入れられる。


「何をムキになっているのかしら??ふぐぅっ!」

「答えて」


 身体中を電流が走り抜け、危うく呼吸が止まりかける。


 なんなのよ。ミアの癖に。

 チビで地味で存在感薄くて、狩りもできない為体ていたらくの癖に。

 まともな自己主張なんてひとつも言えなくて、うじうじしてばかりの癖に。


 未だロザリンドが掴む左腕が痛くて堪らない。

 場合によっては折ることも辞さない力強さ、頑固さ。


 なんなのよ。ロザリンドの癖に。

 あんたはへこへこ笑って私に媚びるべきだった癖に。

 私に無体を働くなんて決して許されない存在の癖に。


 人間の頃の自分が好き放題振る舞えたのは、あの家の正統な嫡子という肩書を持つがため。

 周囲を取り巻く者達がことごとくひれ伏し、かしずくのもその肩書あってこそ。


 では、もし、その肩書がなければ??

 自分がただのハイディマリーだったら??


 誰もがハイディマリーという『個』ではなく、肩書しか見ていないことがとにかく面白くなかった。吸血鬼になれたのはむしろ幸運とすら思っている。(その点に限ってはミアの両親に感謝している)


 肩書がなくたって、私は自分だけの力で、思う存分人を意のままに扱える。動かせる。

 一人二人じゃつまらない。どうせなら大人数を。どうせならすべての吸血鬼を。

 どうせなら吸血鬼のみならず国中の人間を――


「それで、最終的にはどうしたかったわけー??」


 どうしたもこうしたもない。

 自分がどれだけの吸血鬼、ひいては人間を従わせることができるか、試してみたい。それだけよ。


 従わせた後のこと??

 そんなの私は知らない。

 下僕同士で勝手に決めればいいんじゃない??

 なんで私がそこまで考えなきゃいけないのよ。

 私に完全服従してるなら、私の気に障ることさえしなければ、あとは好きにしてればいいんじゃない??


「言えないってことは……、説明にも値しない、大した理由じゃない、って、判断させてもらう、よ??」

「……はぁ??なに、いっ、てるの、ば、かなの??しぬ、の……??」

「私は、ハイディが思ってるよりバカじゃない、と思う、たぶん」

「何言ってるのっ!ミアはバカじゃないわっ!!むしろおバカさんなのはハイディマリーよぉっ!」

「……は??いちばん、ばか、のくせ、に……」

「いちばんおバカなのは間違いなく貴女でしょお??うーん、おバカじゃなくて……、幼稚??」

「な?!ぐっ……!」


 憤然とロザリンドを振り返ろうしたが、再び鳩尾に電気を流し込まれる。

 加減はしてるだろうが、か細い身体への負担は常人よりも大きい。


「吸血鬼も人も物言わぬ玩具じゃないの。玩具箱に放り込んでハイ、おしまい!じゃないの」

「…………」

「ハイディマリーがしてることはねぇ、玩具箱をパンパンにするだけして放置して、また新しい玩具箱をパンパンにしていくのを繰り返してるだけ。そうやって無駄に増え続ける玩具箱を自分で片付けもしない。誰かが片付けたり始末しようものなら、ひっくり返って派手に駄々を捏ねる。ミア。この子はねぇ、自分でも何がしたいのか、よく分かってないのよぉ。よく分かってないから、いつも怒ってばかり。よく分かってないから、湧き上がる怒りを人のせいにして当たり散らす。そこに理由も意味も――、ないの」

「……お前なんかが知った口利かないでっっ!!」


 瞬時に目が真っ赤に染まり、涎を垂らしながら牙が伸びていく。

 勢いよく拡げた蝙蝠羽根でロザリンドを跳ね飛ばし、床に転倒した姿目掛けて飛びかかる。


 お前なんか。お前なんかお前なんか。

 お前なんかお前なんかお前なんか。お前なんか――!!


「干乾びるまで血を吸ってやるんだからっっっ!!!!」


 床を這いずり、短剣に伸ばそうとする腕を赤く長く鋭い爪で深く引き裂く。

 引きかけた腕を取り、腕を伝う赤い筋をべろり、舐めとる。

 若く美しい女の血はやはり美味い。殊にロザリンドの血は格別のように思う。

 ゆっくり堪能したいけれど、血を絞りきることが第一の目的。とりあえずは貧血で起き上がれないくらいにまで弱らせなければ――


 芳しいロザリンドの血の香りに酔いしれたい気持ちを抑え、腕に牙を突き立てようとした時だった。





「え??」


 気づいた時には、ハイディはロザリンドの隣で仰向けに転がっていた。

 瞬きの間の出来事だったが、徐々に置かれた状況を理解し始める。

 自分の首元から胸ら辺を、自分と似たような青白い細腕が抑え込んでいる。

 否、似てるようで違う。その腕は一見細くも筋肉質で、細かな傷痕が目立つ。


 つい数年前までカトラリーより重い物なんて持ったことない腕に、しかも一本だけで自分は押し倒され、抑え込まれている。


 なぜ、私は、こんな奴に組み敷かれている??上から見下ろされている??

 吸血鬼一族の長直系の血筋以外、何も持っていない奴に!


 たかが腕一本なのに、起き上がることも顔を上げることもできない。

 同じように息を荒げているのに、この差は何?!


 でも、また力を発揮さえすれば、こいつを跳ね返すくらい……


 ハイディの口元に邪悪な笑みが浮かび――


「ぎゃあっ……!」

「ミア?!」


 ハイディの邪悪な笑みは、首筋に噛みつかれたせいですぐに消えた。


「ミア!ダメよダメっ!!それだけは……!」


 あぁ、うるさい!

 あの目つきの悪い小男の時同様、泣き喚くんじゃないっ!!

 耳元で騒がれる分だけ喧しいったら……。


 くらくら強まっていく一方の頭痛、眩暈、吐き気。

 目を閉じて暗い筈の視界にちかちか白い星が散る。

 正直、吸血の痛みより貧血の気分の悪さの方がはるかに勝っている。

 だから、首筋の違和感が消えた時にはもう(想像するにロザリンドがミアを無理矢理引き剥がしたのだろう)、起き上がる体力気力は皆無だった。

 途絶えそうな意識の外側では、ロザリンドとミアが延々と言い合っている。


「ミア!なんで、なんで……、吸血したのぉ?!絶対しちゃダメっ!って言われてるじゃないっっ!!」

「だ、だって……、ハイディを殺さずに捕縛するために、ハイディの力を抑えたかったから……。私も、ロザーナも、もうボロボロだし……、貧血で動けなくするのが手っ取り早い、かなって……」

「だからって吸血しなくてもいいでしょお?!」

「うぅ……、ごめんなさい……。でも、若くてきれいな子の血だけど全然おいしいと思わな」

「そういう問題じゃないわよぉおおお!!!!バカア!!!!」



 私の血が不味い、ですって??

 誰もが『これまで口にした中で一番美味な血』だと称えた、この血を??

 随分と癪に障ることをのたまってくれるけど、まぁ、いいわ。


 この血を口にした以上、ミアを下僕化できる、かもしれない。

 ただし、動けない今は無理。しかるべき時が来たら――




 それまでは大人しく壁の中刑務所で過ごしてやってもいいだろう。

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