第59話 彼女の変化②

(1)


 遡ること、約二か月前。

 メルセデス邸でのハイディ捕縛直後のことだった。





「もう、もうっ、絶対絶ぇっ対にぃ血吸っちゃダメなんだからぁー!!」

「う、うん……」

「ぜったい、ぜったいよぉ!!」

「うん……」

「って、ミア??」

「だ、だいじょう、ぶ……」


 呼吸がうまくできない。

 息を吸い込もうとしても、ヒュッと空気が抜けるように浅くしか吸えない。息を吐くのも同様に。

 肺が潰れたかのように痛くて痛くて、気づくとその場に倒れていた。

 顔を含めて全身がひどく熱いし痛痒い。ぼやけた視界に映った腕には赤い発疹が浮かんでいる。

 ロザーナの声が徐々に遠くなっていく。

 今にも飛びそうな意識を支えているのは強い吐き気。それにも耐え切れなくなり、遂には倒れまま激しい嘔吐に見舞われる。


 あ、私、このまま死んじゃうのかな。


 自分の身に何が起きたのか、まるで理解が追いつかない。

 理解以前に余りの苦痛に思考する余地すら生まれない。


 もう二度と目が開けられないのでは、怖くてしかたなかった。

 でも、再び目を覚ますことができた。


 目を覚ました場所は医務室ではなく住処の一室のベッドの上。

 しかし、今もまだ、ミアはトイレと風呂以外この部屋から出ることを許されていなかった。


 イェルク曰く、突然ミアを襲った症状はアレルギー反応だという。

 症状が落ち着いた頃、『自分は結局何のアレルギーなのか』と説明を求めると――


『検査した上での俺の推測だが、今回吸血した血が君の身体に合わず、一種のショック症状が起きたといったところか』

『今までジュースに血を混ぜて飲んでても平気だったのに??』

『君が口にしていたのは人間の男の血、一度につき試験管一本分に満たない量しか飲まない。だが、今回吸血したのは若い女の吸血鬼だった。しかも間違いなく試験管一本分以上の血を摂取している。女の血だからか、吸血鬼の血だからか。もしくは試験管一本分以上の血を飲んだからか……、いずれにせよ、体調もまだ本調子じゃない。療養含めての謹慎だと思ってくれればいいのでは??』


 と言う訳で、体調は今やすっかり元通りなのだが――、元通りだからこそ、身体がなまってしょうがない。でも、訓練も許されていないので部屋で大人しく過ごすしかない。これも仕方ないことだ。

 しかし、一室から出られないだけでなく、なかなか他の仲間との面会が許されないのが地味にきつい。


 ミアと面会できるのはイェルクとルーイ、伯爵の三人に加え、面会時の監視役のスタンのみ。

 自業自得ながらちょっとだけ息が詰まるし、正直退屈だ。そしてまた、退屈な一日が今日も始まる。


 カーテンと窓を開け、空気を入れ替える。

 冷たい外気に身が震え、一分も経たない内に窓を閉めてしまう。麓の街とは違い、この白亜の城建つ山は朝の寒さが一段と身に染みる。

 気を取り直し、柔軟で身体をほぐそうと両手を天井に向かって伸ばす。伸ばした両手を身体の真横へゆっくり戻していく。

 柔軟をしていると腹時計がしきりに音を鳴らすが、誰かが食事を部屋に持ってきてくれるまでは何も食べられない。


「うう……、おなかへったぁ……」


 もう一度両手を天井に伸ばしかけ――、やめる。

 代わりにベッドの上へどすんと倒れ込んだ時、ノックの音がした。









(2)


 入室許可を求める声に、ベッドから慌てて飛び起きる。


「ど、どうぞっ」


 乱れた長い前髪を急いで直す間に扉が開く。

 中に入ってきたのはスタンだった。


「お、おはようございますっ」

「あぁ……、おはよう」


 冷たくも爽やかな朝の空気も吹き飛ぶ仏頂面が眼前に現れた。


 あれかな、昨日の夕方から今日の夜明けにかけての合同訓練で疲れて機嫌悪いのかな……。

 こういう時に限ってイェルクやルーイが傍にいない。

 昔より当たりの強さはマシになってきたけど、無言で凄まれるとこわい、こわい……。


 ただ怖いだけじゃない。

 メルセデス邸で倒れた時、吐瀉物まみれのミアをロザーナと共に住処へ連れ帰ったのもスタンだし、ハイディを吸血した件も未だに責められも叱られもしていない。だから、彼への怖れは普段よりずっと膨れ上がっていた。


「あの、用件はなんでしょうか……」

「やる」

「へ??」


 強引に手渡された茶色い紙袋をそーっと開けてみる。

 甘い匂いがふわりと鼻腔を掠めていく。

 紙袋の中身が好物のベーグルだと分かると、勢いよくスタンを見上げた。


「今朝ロザーナとこの店のベーグルを食べたついでの土産だ」


 スタンは部屋の隅から丸椅子を二脚持ってきて、ミアの近くへ間隔を開けて並べた。


「食べるなら座って食べろ」

「あ、はい」


 先に座ったスタンに倣い、ミアも椅子に腰を下ろす。


「ゆっくり食べればいい。今日はこのあと特に予定もないし」


 表情は変わらず不機嫌そうだが声は柔らかい。もそもそとゆっくり味わって食べても特段苛ついてる様子もない。ロザーナと一緒に食事できたから機嫌良いのかも。

 久しぶりに食べたベーグルの程良い固さ、香ばしさ。クランベリーソースの酸味が濃厚なチーズクリームを爽やかな味に仕立て上げている。甘い物食べたのは何時振りかしら。


「あの、今日はどうしたんです??」


 最後の一欠けらを食べたあと、手を払いながらミアの方から話を切り出した。

 するとスタンの表情が改まった、やや堅いものへと変わっていく。


「お前に説明しておきたいことがある。なぜ、お前の謹慎処分が解かれないのか、の説明だ」



 ミアの背筋が瞬時に真っ直ぐ伸び、話が進むにつれ、スタン以上に表情が強張っていく。


 スタンの説明は半分以上は女性への吸血による凶暴化の懸念を始め、ミアも大方予想してはいた。しかし、更に踏み込んだ説明はまったく予想だにしていなかった内容だった。




「……俺が思うに、だ。若い女の血を大量吸血すると他の吸血鬼を強制支配できるのでは、と。例えば、あの糞男……、もといマリウスとかいう吸血鬼。病的にロザーナに偏執していた癖に、夜会の時はハイディマリーとかいう小娘の名ばかり語り、行動指針もあの小娘が軸になっていた。それから、夜会で用意されたワインから漂った血の匂い。警察の調べによると、突然凶暴化した者達は全員あのワインを飲んでいて、ワインに混ざっていた血はあの小娘の血だったと」

「あ……」


 全身の血が一気に下りていく。

 押し寄せる寒気に、我が身を庇うように両腕で抱きしめる。


「もしも、もしもの話だ。あの小娘が超音波なり何なり、何かしらの手を塀越し刑務所に使ってお前を操作しようと謀ったら……、言いたいことはわかるな??」

「……はい……」

「あれだけ吐いていたら、たぶん、あの小娘の血はほとんど胃から排出されているとは思う、が……。念には念を入れなきゃならない。伝え聞く裁判の状況からあの小娘には死刑が下るのは間違いない」

「つまり……、私は、ハイディの死刑が執行されるまで半永久的に謹慎、なんですね……」

「さすがにそこまでは閉じ込めない、とは思う。死刑執行は早くて数か月先、遅ければ数年かかってしまう。だが、最悪そうなるかもしれないと覚悟だけはしておいてくれ」

「……わかり、ました……」

「話は以上だ」


 立ち上がったスタンを見送る気力は、ない。

 項垂れたまま、スタンの爪先の動きを呆然と見つめるだけで精一杯だ。

 元の位置へ椅子を戻そうとしたスタンの動きが止まる。次いで、チッ、と大きな舌打ち。


「……余計な真似をしでかさなきゃいいが」


 誰に向けてかわからない、苦々しげなつぶやきがミアの耳を素通りしていった。

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