第26話 籠の中の鳥はいついつ出やる

(1)


『そんなつもりじゃなかったの……』

『じゃあ、どういうつもりだったんだ??』


 安宿の粗末なシングルベッドの上で、何度となく譫言のように繰り返す。

 身体にのしかかる男も、もう何度目かに問う。

 絶対に逃すまい、と、手首を抑えつける力が強くなる。痛いのは手首だけじゃない、縫い留めでもするかのように、ベッドに押しつけられた肩や腕も痛い。


 他の男性相手ならば、頭突きなり金的なりを食らわせて逃れられただろう。だが、彼はロザリンドがそうすることを予想してか、両脚も膝で強く抑えつけている。下手に動けば、両腕とも折れかねないので頭を動かすことすらままならない。


『あたしが自由に生きられるお手伝いをするって、言ってくれたじゃない……!』

『あぁ、確かに言ったよ??僕の妻になりさえすれば、あの家も君を諦めざるを得ない。ほら、君はもう自由じゃないか』

『ちがうの、そうじゃないの……、違うぅ……。あたしが求める自由は、あの家から解放されるだけじゃないわっ、全てを捨て、一人で新しく生き直すことなのっ……!』

『ちょっと待って。何を言い出すかと思いきや……、君は、僕を愛してくれてるから共に駆け落ちしてくれたんだろう??』

『かけ……おち……??どういうこと……??ちょっ、と、いたぁっ!』


 悲鳴をあげながら、手首の骨に罅が入ってないか心配になった。唇同士が触れそうな程近づいたマリウスの顔に表情はなく、目だけが血走っている。


『一目惚れだったんだ』

『な、なに……』

『七年前、幼くも可憐な君が悪童たちに苛められているのを助けて以来、ずっと愛してるんだ』


 七年前、初めて出会った時、彼は十二歳、ロザリンドはたったの七歳だ。


『悪童達を叩きのめしたのも君の関心を引きたかったからだし、自警団の訓練に誘ったのも君と過ごす時間欲しさだった。あぁ、そうそう、皆が君に優しかったのもね、自警団長の息子である僕のお気に入りだからさ。父さんもそうだ』

『…………』

『純粋に君を気にかけ、愛してあげられるのは僕だけだよ。そんな男、後にも先にも僕以外、絶対現れないから。君をお姫さまにしてあげられるのは僕以外誰もいないから』


 蕩けるような甘い笑み。なのに、ロザリンドの胸はときめくどころか、これまでに感じたことのない屈辱と恐怖に侵されていく。

 程よく膨らみのある唇が自身のモノに被さる。あ、気持ち悪い……。


 失望と嫌悪に満ちた一夜が過ぎ、呆然自失のまま昨夜と同じ状況に陥る二夜。

 諦めの境地に至りかけた三夜。我に返った瞬間、問いかけた言葉。


『あたし、まだ未成年よ??しない方が……』


 なぜ一夜目の時に言えなかった。後悔先に立たず。


『大丈夫さ。君は大人びて見えるし、年齢なんていくらでもごまかせる。例え子供ができたとしても、生まれる頃には君は十五歳になってるしね』


 子供、の二文字に全身が総毛立つ。

 あたし、このままじゃ、ママと同じになっちゃう。


 誰かに頼らずとも生きていきたい。ただそれだけなのに。

 籠の中の鳥なんて、もうたくさんだわ。












(2)


「さっさと金を集めろよ!早くしろぉ!!」


 天井の換気口から階下を覗き込もうとして、汚い怒鳴り声と悲鳴が飛び込んできた。

 思わず肩がビクッと縮むが、慎重な動きで再び階下のフロアを覗き見る。ちょうどいいことに、標的が換気口の下を通りすぎていく。人質らしき老人を拘束しながら。


 声や足音、銃器を扱う音から察するに、この銀行内に立て籠る標的は三名。


 逃走経路を確保し、待機している筈の彼らの他の仲間は今頃ロザーナが捕縛している。

 自分は彼女が駆けつけるか、警察が突入するまでの時間稼ぎをしなきゃならない。

 左肩の銃創がズキリ、痛む。ごまかすように右肩に彫った双頭の黒犬シュバルツハウンド――、精鋭と認められた印の刺青を撫で擦る。大丈夫、今の私ならできる。


 換気口の蓋を両の拳で渾身の力で叩きつける。蓋が床に落ちるよりずっと速くミアは換気口から顔を出す。ミア以外の全員が驚き、動きが止まった一瞬の隙に標的達へカメムシ弾を連射する。

 鼻が曲がりそうな強烈な異臭は未だに全然慣れない。何ならこっそり涙目にもなってるし、臭すぎて吐きそう。でも、そこは頑張って耐えるしかない。案の定、標的は全員カメムシ臭に噎せ込んだ。


 人質まで噎せる姿に、ごめんなさい、と心中で謝りながらフロアへ飛び降りる。

 盛大に咳き込みつつ、人質の老人を撃たんとする標的の顔面にハイキックをお見舞い。

 よろめいた人質を抱き止めると、床を僅かに浮いた状態で立て続けにカメムシ弾を浴びせる。


 三人の内二人はすっかり戦意喪失。一人は床に突っ伏して激しく嘔吐し始め。もう一人も顔面が真っ赤なペイントに染まっていてさえ、顔面蒼白なのが見て取れる。よく見れば、口から泡を吹き気絶しかけている。

 残る一人は鋼の精神力なのか、臭いに鈍感な質なのか、ミアに向かって喚き散らし、銃を向ける。

 老人を背に庇い(と言っても、ミアの方がずっと小柄なので庇いきれていないが)、ミアも銃口を構える。

 片手撃ちができれば、袴キュロットのポケットに仕込んだかんしゃく玉を投げ放てるが、ミアの射撃の腕と握力では両手撃ちが精一杯。


 老人が酷く震えているのが背中越しに伝わってくる。カウンターの奥で固まる行員達の怯えた空気も肌を刺す。今、この人達を守れるのは私だけ。

 一歩後退させていた利き足を元の位置へ、否、一歩前へ踏み出す。靴裏で擦った床がキュッと高く鳴り、フロアに響く。


「ごめんねぇ、遅くなっちゃったぁ」


 緊迫した場にそぐわない、舌足らずでおっとりした声。

 長い黒髪を少し乱したロザーナが、標的の背後に佇んでいた。


 いつの間に入ってきたの?!と目を丸くする間に、ゴキッと不穏な音と野太い絶叫。

 ひねりあげた腕を折りつつロザーナは標的を背負い投げ、床へ落とす。とどめに首固めまで決めている。


「よし!意識落とせたわ!!あ、店長さーん、警察に速攻で警察に連絡してくださぁーい!!今なら連続銀行強盗を現行犯逮捕できますよー??すぐ来てくださいって!」


 ロザーナは大きく手を振り、カウンターの中のどこかにいる店長へ呼びかける。

 ミアは未だ嘔吐し続ける標的の一人の首筋に手刀を入れて気絶させ、すでに意識を手放した二人も含めて後ろ手に縄を縛っていく。



 ハービストゥ経営者兼犯罪組織の頭だった男の捕縛から約二カ月。

 彼の逮捕によって組織は解体した――、はいいけれど。あの事件の後、幹部クラスは全員逮捕された。しかし、それ以下の者達の逮捕までは警察側の手が回らずにいるため、主にB~C級クラスの賞金首がこの二カ月で激増。

 C級辺りの賞金首を狩るのは本来烏合精鋭外達の仕事だが、手が足りない上に多くは堅気の仕事と掛け持ちしている。なので、自然と精鋭の中でも経験年数の浅い二人にこの手の仕事が回ってきやすかった。



 標的達を拘束するミアの横で、かっちりとしたスリーピーススーツにオールバックの中年男性――、銀行の店長だろう――、と、女性行員数名がロザーナへと丁寧すぎる程丁寧に礼を述べている。だが、ミアには礼の一つどころか見向きもしない。


 態度は露骨だが、別段腹が立ったり傷ついたりとかはない。

 まぁ、寂しい気持ちがまったくないと言えば嘘になるけれど。

 しょうがないよね。普通の人間が吸血鬼を怖がっても。

 まぁ、それでも私は人間好きだけどねっ。


 気にしない、気にしない……、と自身に言い聞かせ、最後の一人を拘束、しようとして、手を止める。


「うわぁ……」


 ロザーナが締めた者なのだが、気絶しながらも恍惚とした顔がなんか、すごく……、気持ち悪い。

『ご褒美ありがとうございますっ!!!!』とばかりに締まりのない、なさすぎる、鼻の下が伸びきった寝顔。

 首を固められた時、ロザーナの胸に顔を埋められたから、かな……、かも……。

 とりあえず彼女には黙っておこう。自分の胸にだけ納めておこう、そうしよう。


 ひとりでうんうんと頷き、立ち上がろうとして、履き古したローファーの爪先が見えた。他には黒とグレーのチェックのスラックスに杖の先も見える。

 膝立ちの姿勢で見上げれば、少し強張った顔で老人が手を差し伸べていた。

 まさか老体の身でミアを引き起こそうとしているのか、と恐縮したが、皺だらけの乾いた掌をよくよく見返せば、薄紙に包んだ四角い形の飴??違う、たぶん、キャラメルが数個乗っている。


「お嬢ちゃん、さっきは助けてくれてありがとうなぁ……。もう少しだけ長生きできそうだよ。本当はこんな菓子じゃなくて、もっとちゃんとしたお礼をしたいけど……」

「いえっ、そんなっ!お、おかまいなくですっっ!!そのお気持ちだけで充分ですよっっ」


 黙ったままでいたら、財布でも出しそうな雰囲気だったので慌てて立ち上がる。

 キャラメルも受け取っていいものかどうか少し迷ったが、後に残る物じゃないし(事件の被害者から私的な謝礼を受けとるのは原則禁止されている)と遠慮がちに頂いておくことにした。


「ミーア!聞いてー」

「わぁ?!な、なに??」

「あのね、店長さんがね……」


 いきなり後ろからロザーナに抱きつかれ、前のめりに倒れかけるも踏み止まる。

 ふわっと漂う白檀の香りとすぐ耳元でのささやきにちょっぴりドキッとしてしまう。

 自分は女子だからいいけど、やっぱりロザーナは人との距離感が近すぎる気がする……。


「あたし達二人に謝礼金を支払ってくれるよう、本店のおえらいさんに掛け合ってくれそうよぉ」

「え、でも、私的な謝礼は」

「もちろん、伯爵の許可を得た上での条件だけどっ」

「そっか、それなら……」


 それなら大丈夫かも、と言いかけて、はたと口を噤む。




 まただ。また、あの視線を感じる。


 蜘蛛の糸みたいにすべてを絡めとり、決して逃すまいとする、粘ついた視線。


 店内にいる者か屋外に集まった野次馬の誰かなのかは分からない。

 正確に言うと、ロザーナが姿を現すと共に視線を感じ始めていた。

 その時はまだ無視できたが、たった今、ロザーナがミアに抱きついた途端、全身に悪寒が走る程視線が強くなった。


 実を言うと、ハービストゥの吸血鬼事件の直後からロザーナと行動中、薄気味悪い視線を度々感じ取っていた。

 気づいているのか、いないのか。もしくは、あえて無視しているのかは知らないが、ロザーナは全く気にしてなさそうだったから、なんとなく聞きづらいまま現在に至っている。


「ね、ロザーナ」

「ん、なぁに??」


 怜悧な美貌にそぐわない柔らかな笑顔に、二の句を次げなくなった。

 心なしか、例の視線も益々粘着性を帯びた気がした。

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