第25話 罪深い血
(1)
世の中には知らない方がいいことがあると学んだのは一〇歳の時だった。
その年齢で学ぶには早いか遅いのか、ちょうどよかったのかなど知らない。
好奇心は猫をも殺すということも同時に学んだ。これもまた早いのか遅いのかはわからない。
もっとも、実際に好奇心によって殺されたのは己ではなく実の母だけれど。殺した張本人は紛れもない自分だけれど。
『いいですか、スタンレイ。この家の名に決して恥じぬよう、立派な領主になるのです』
『
嘘つき。この嘘つき女……!
立ち入り禁止と言い聞かされてきた地下室。
部屋中に立ち込める血の匂いと死臭。
干し肉のように吊り下げられた若い女の死体の数々。
壁際に並ぶ
鋸に鋏、鞭、注射器が乱雑に置かれた広い作業台。部屋の隅にひっそりと用意された鉄の処女。
『何故入ってきたの?!』と血相を変え、共通語ではなくカナリッジ語で喚き散らす母の姿。
スタンレイと同じ薄青だった筈の瞳は柘榴色に変化し。
ほっそりとした指先に持つはワイングラス。中身はワインなんかじゃない、人の血だ。
ねぇ、僕に流れる血の半分は、あの嘘つきで、残酷で、おぞましい生き物だったの??
『スタンレイ、貴方だっていずれ分かってくる筈よ。一度血の味を、特に若い娘の血の味を覚えたら、飲まずにいられなくなる。だって、貴女はもうその味を知っているんですもの!』
鈍色の髪を振り乱し、尚も喚き散らす母から目を逸らしたいのに逸らせない。
『その味を知っている』の言葉に思い当たる節もあり――、あるものの、必死に否定しようと何度も頭を振る。
『就寝前、時々メイドに運ばせてくるラズベリージュース……』
『嫌だ!それ以上はもう聞きたくなんてないよ!!』
叫びながら、闇雲に振り回した手で作業台の物を次々と振り落とす。
カッツーン、カツーンと、古い石造りの地下室に硬い音が響く。
何度目かに作業台の上に手を滑らせた時、血がこびりついた鋏の刃先が触れる。
我に返った時にはもう手遅れだった。
鋏を握るスタンレイの両掌は母の血で真っ赤。
床に仰向けに倒れ、すでに事切れている母に跨り、何度も何度も胸に鋏を振り下ろす。
何にも代えがたい尊敬と愛情が失望と憎悪に塗りかえられていく。
信じきっていた世界が足元から崩れ去る音が、脳裏でずっと、ずっとこだましていた。
「ほら、スタン!お前の分だ!」
「声が大きい。もう少し静かに喋ってくれ」
「あぁ、すまんすまん!」
「だからっ……!もういい……」
日付けがもうすぐ変わろうとする真夜中。
イェルクの私室の前で、スタンは彼から一本の蓋つき試験管を受け取っていた。中身は標的から採取した血液。
「毎回しつこくて悪いが……、女の血じゃないな??」
「もちろんだ!」
「そうか、ならいい。ありがとう」
「スタン」
用は済んだ。一刻も早く立ち去りたいとイェルクに背を向けるなり、呼びかけられる。
「俺も毎回しつこく聞くが、本当にそれだけで足りるのか??ミアとルーイには一本を満タンで与えているが」
スタンに渡した試験管の血液は容量の五分の一程度。
「あいつらは成長期だが俺はとっくに止まってるから、この量で充分足りる。シェリー酒に混ぜて飲むのにちょうどいい」
「そうか、わかった。あぁ、それと」
「まだ何かあるのか」
「二人にはまだ黙っているつもりでいるのか??」
今度こそスタンははっきりと渋面を浮かべる。
「愚問だな。同族だからこそ警戒は解けないし、距離を置きたいんでね。別にあいつらが悪いとかじゃない、俺の中の問題なんだ。あぁ、それから、俺の正体は医療面の問題でお前にだけ
まだ何か言いたげなイェルクをあえて無視し、スタンは再び彼に背を向けた。
(2)
白磁のバスタブが鮮やかな朱に染まる。
白大理石の浴室に香るは石鹸ではなく強烈な鉄の臭い。常人であれば十中八九、不快を催す臭い。
だが、吸血鬼にとっては他の、ありとあらゆる種類の香料よりもずっと素晴らしく魅惑的な香り。
バスタブに身を沈めながら陶器よりも白い、白すぎる肌を何度となく血で洗い、磨き上げる。
洗う程に肌は白く、肌理細やかに。甘美な香りにほぅ、と、恍惚とした表情が浮かぶ。
若い女の血は最高だ。
美味さは何にも勝るし、美しさに磨きをかけることもできる。
なのに、若い女の血はごくたまに、少量のみの摂取しか許されない。湯水の代わりに肌を洗い、磨くなどもっての外なのに。なぜ自分だけがこのような贅沢が許されるのか――、許される状況を作り上げたまでだ。
今、吸血鬼城で自分に逆らえる者は誰一人いない。
城内だけじゃない。カナリッジ各地に散っていたかつての同胞達も逆らえない。
三年前、一族の長だった
だが、ハイディはただ闇雲に狩りをしていた訳ではない。
狩りをしながら各地の同胞達と接触を積極的に試み、己の正体を知らない者には気づかせてやったりしていた。
指先で掬い取った血をねっとりと舐め上げる。熟した果実に似た濃厚な甘さ。
一度口にしたら、なしではいられない罪深い味。でも、罪深いのは味だけじゃない。
バスタブから上がり、湯浴みならぬ血浴みの時間はこれでおしまい。
今夜はとっておきの客人を迎える予定があるから、少しだけ身支度に力を入れたかったのだ。
陽光の輝き放つ髪を巻き、真珠色のフリルシャツのワンピースを纏う。
傍から見たら、まるで恋人か想い人にでも会いに行くように見えるだろう。
残念ながら、ハイディにとって彼はそういった対象じゃない。愛とか恋とかの感情など理解不能すぎる。
だが、人様の色恋事情を詮索するのは嫌いじゃない。詮索した結果、破綻に導くのが楽しいのだ。
「今晩は、お待たせしたかしら??」
「いえ、ちっとも」
かつて昼餐会や一族の会議に使用された大広間。室内最奥のマントルピースを背に、長テーブルの最上座に腰かける。ハイディの席から一番遠い下座席に彼は座って待っていた。
「ねぇ、もう少し近い席にいらして??その方がお話しやすいもの」
男は少し迷う素振りを見せるも、遠慮がちに席を立つと奥から三番目左側に腰を下ろした。
あんなむさくるしい脳筋集団もとい自警団において、下手な上流の御曹司よりも気品が感じられる者がいたとは。
しかも、気品と爽やかな美貌に似合わず、腹の奥底には偏執的で歪んだ愛情を抱えている辺りがまた最高である。
彼は愛する女を手に入れるために吸血鬼になりたい、と、ハイディに請うた。
その女の血を吸い、吸血鬼化させてしまえば、観念して自分についてきてくれる筈だ、と。
なぜ、その、飛躍にも程がある答えに行き着いたのか余りにも謎過ぎるし、ロザリンドがこの男の元から逃げたくなるのも頷ける。
だからこそ何かしら面白そうなものが見れそうだし、もれなく吸血鬼にしてあげたけれど。
「ところで、マリウス。今夜はどのようなご用件でここへ??」
「はい、実は……、ロザリンドを見つけたんです」
「そう、そうなの。良かったわね」
どうしよう、変ににやにやしたくなってくる。
ハービストゥの経営者で犯罪組織の頭だった下僕が逮捕されて、しばらく行動制限を余儀なくさせられていたからには存分に楽しませてもらいたい。楽しませてくれるでしょう、ねぇ??
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