四章 Bring me to Life

第24話 遡ること四年前

(1)


 屋敷で暮らし始め、満月の夜を迎えたのは何度目か。


 彼女ハイディマリーの趣味嗜好が反映されたままの部屋――、例えば、窓枠、紫檀製のベッドや机、鏡台などは金の彫細工が施されているとか、カーテン、寝具、絨毯が目にも鮮やかな赤で統一されているとか、頭が痛くなりそうな強い薔薇の香が常に焚かれているとか。


 どれもロザリンド自身の趣向にまるで合わない。

 合わないけれど――、ここではロザリンドとしての意思は求められていない。

 として生きなければならないから。


『ロザリンドは長年の不遇に耐え切れなくなった母親共々、無理心中で死んだ』


 この街に住む者なら失笑ものの見えすいた嘘。

 けれど、街ぐるみで守らなければならない嘘。


 母は確かに死んだ。

 ロザリンドが無理矢理屋敷に迎え入れられた直後、自ら命を絶った。

 貞操を、尊厳を、自由を奪われ、搾取され続けた人生の、唯一の希望まで奪われた絶望で。


 そして今、形は違えど、ロザリンドまで同じ轍を踏まされそうになっている。




 ねぇ、あたしの気分はとっても最悪。かつてない程に最悪なの。

 ねぇ、自由を奪われ、じわじわと飼い殺されていく気持ち、わかる??


 ママは何度もあたしを連れてこの街から逃げ出した。

 だけど、どんなに遠くの街へ逃げても、逃げても連れ戻された。


 決して愛なんかじゃない。

 地位ある男が女に逃げられただなんて体裁が悪いから。それだけの話。

 たったそれだけのためにママは自分を捨てなきゃいけなかった。

 あたしもそうやって、ママみたいに生きる――、生きなきゃダメなの??



 上質なシルクの寝間着も清潔で柔らかな寝具も、快適な筈なのに寝苦しくて堪らない。

 どんなに粗末で狭くても、母と一緒に使っていたベッドで眠りたい。


 目尻に滲む涙を拭い、大きく寝返りを打つ。

 少しでも寝ないと明日の予定に響いてしまう。


 ハイディマリーが好む服、髪型、装飾品で身を飾り。

 ハイディマリーの口調、立ち居振る舞いを真似て。


 そうして、ロザリンドの――、あたしは見る影もなく消えていく。

 いつか、あたし自身もロザリンドだったことを忘れてしまうのかしら。




「こわい」


 身体中の血が下がっていく感覚に背筋がゾッとする。

 冬でもないのに手足の先が異様に冷える。


 睡魔よ、早くあたしを夢の世界へ誘って……!


 固く目を瞑った時、カーテンの向こう側でかすかな物音がした。


 一度だけなら気にも留めなかった。

 二度目、三度目と窓がコンコンと鳴り、四度目、五度目でさすがに気になってくる。

 六度目で夜風や家鳴りのせいじゃないと確信。七度目でベッドから起き上がる。

 おそるおそるカーテンを開ける間に、八度、九度目の音が鳴る。


 カーテンを開けた音と一〇度目の物音が重なり合う。

 次いで、窓を叩いていた人物とロザリンドの視線も重なり合った。


「マリウス、さん……??」

「ロザリンド……、やっと、会えた……」


 月光に輝く白金の髪、群青サファイアの双眸のかんばせも、鍛え上げられた肉体も彫刻のようで誰もが見惚れてしまうだろう。

 だが、美青年ことマリウスの熱い視線を受けながらも、ロザーナは見惚れるどころか戸惑ってさえいる。


「ね、どうやって屋敷に侵入したの??ここの人達に見つかったら、あなたの身が危ないじゃない……。ううん、あなただけじゃないわ。自警団長も団長の奥さんも、他の皆もただじゃすまな……」

「安心して、ロザリンド。この屋敷への侵入は、その皆が協力してくれたんだよ」

「なんで、どういうことなの……」


 努めて平静を装いながらも、困惑が全く隠し切れない。

 周囲を気にして声を潜めるロザリンドに、青年は聞き分けの悪い子供を諭すように告げる。


「ロザリンド、僕と一緒にこの街を出よう」

「この街、から……??」

「僕が君を自由にしてあげる」

「……自由……」

「そう、君が何にも縛られずに生きるお手伝いをしてあげる」

「でも、あたしが逃げたら……、皆が」

「君は一切気にしなくていいんだよ。父がきっと上手くやってくれる」

「自警団長達にはあたし……、随分良くしてもらったのに……、あの人達にだけは迷惑かけたくないわ……」

「死んだ目してる君が言っても説得力に欠けるよ??君、今、自分がどんな顔してるのかわかってるのか??」


 マリウスは上着の内ポケットから折り畳み式手鏡を出すと、ロザリンドに手渡した。

 言われるがまま開いた鏡に映る自分の顔に、思わず鏡を落としそうになった。


 そこには命を絶つ直前の母がいた。厳密には、自分がその頃の母と同じ表情、顔色をしている。


 自分が自分でなくなる恐怖が良心、罪悪感を凌駕していく。


 彼がロザリンドの手を取ったのか、自らマリウスの手を取ったのかは覚えていない。

 どちらにせよ、自由という言葉の魅力に抗えず、逃げたことだけは確かな事実だった。












(2)


 その日のスタンは、普段にも増して激しい苛立ちに駆られていた。


 人で賑わう市場の大通りで怒号と悲鳴が飛び交う中、押し合いへし合い、あちこちぶつかりながら、必死で逃げ回る標的の後を追う。こけつまろびつ、標的の情けない足取りにも拘わらず距離がなかなか縮まらない。


 俺としたことが、なんと情けない――!


 奴はC級の連続強盗犯。精鋭の自分がわざわざ出向いて捕縛する相手ではない。

 そう、捕縛に失敗した烏合精鋭外達の尻拭いをさせられているだけ。なのに、この為体ときたら!


 ノーマンが四年前に拾ってきた口の減らない少年、二年前に拾ってきたコーリャン人兄妹の妹の方が見たなら小馬鹿にされるのが目に見える。想像するだに腹立たしい。


 などと勝手に自身で怒りに火をつけている間にも距離は離されていく。癪すぎる。

 昼日中の往来、雑魚相手には余り使いたくない手だがしかたない。


「悪いが少し肩を借りる」

「は??なんだ……って、うわぁ!」


 近くにいる者で一番上背のある中年男に一声かけたのち、彼の肩に瞬時に飛び乗る。

 男が驚いて仰け反った時には、スタンは男の肩から屋台の屋根に飛び移っていた。

 屋台からその真後ろ、石畳の歩道を挟んで連なる安アパート群へ。各ベランダの柵の上を飛び移って移動する。この方が動きを把握しやすければ追跡しやすい。スタンの姿が消えて安心したのか、標的の動きも遅くなる。


「はっ、馬鹿め。油断して」


 鉄錆が目立つ低い柵の上を身軽な動きで移動しながら、スタンは余裕めいた顔で唇の片側をつり上げた。

 幸運なことに、標的が進む方向はどんどん人が減りつつある。(単純に、お尋ね者と関わり合いになりたくない、危険を感じて遠巻きにしているだけかもしれないが)

 遂には標的に追いつくどころか、更に先まで進んだ辺りで止まる。ぽろぽろ剥がれ落ちる錆がブーツに付着するのが気になるので、さっさとケリをつけてしまおう。


 階下の標的に向けて、拳銃を引き抜く。

 手足へ二、三発撃ち込んで動きを止め――、まずい!


 標的の目の前を、女がひとり通り過ぎようとしていた。


 空気を読んでくれ、と、盛大に舌を鳴らす。

 素早く安全装置を解除、トリガーに指をかけ――


「……なに??」


 俄かに信じ難い出来事に間抜けな声が出る。


 人質にでもするつもりだったのだろう。飛びかかってきた標的に対し、女は背負い投げを決めたのだ。

 それだけじゃない。地に転がったままの彼へ肘固めまでお見舞いしている。


 なんだ、あの女。


 目が点になるとはこういうことか。

 体格に恵まれた男を(遠目では)華奢に見える女が締めている光景に、野次馬がどんどん集まっていく。

 ただ意識を落とすだけなら別に構わないが、誤って首を折られでもしたら困る。


 スタンはベランダの柵から屋台の屋根、歩道へ飛び降り(さっきと逆)、騒ぎの渦中へ向かう。

 右手の甲の刺青を見せつけて野次馬の中を進めば、波が引くように通り道ができる。


「その辺にしてくれないか。そいつに死なれて賞金が下がっちゃ困るんでね……」

「やぁん、ご、ごめんなさいぃっ。あのっ、まだ生きてるわっ」


 予想していたよりも舌ったらずな喋り方に益々脱力してしまう。

 その癖、立ち上がり方はやたら機敏だし、本当になんなんだ、こいつ。


「ごめんなさい、ごめんなさいぃっ。怖くってつい……、締めちゃいましたぁ……」

「怖いと思ったら普通は逃げるんじゃないのか……??」


 考えるのがだんだん面倒臭くなってきた。

 額に手を当て、伏せていた顔を上げれば菫の双眸と視線が交わった。

 血統の良い猫みたいな顔して、やることは気の荒い野良猫か。


「まぁ、なんにせよ、捕縛に協力してくれたんだ。相応の礼は……」

「え、遠慮しておきますっ……!あ、あたし、男の人に施されるの、イヤなんですぅっっ!だって、だって……、あとで見返りにいやらしいこと要求するんでしょぉ?!」


 今し方突きつけられた言葉を理解するのに、スタンは数秒を要した。

 正しく意味を理解した途端、人の三倍は高い気位がいたく傷つけられた気がした。


「なっ……、はあぁぁ?!俺をそんな目で見るな!そこらへんの軟派男と一緒にするんじゃない!!」

「だって、だってぇ……」

「だってじゃない!!いいか、女!確かにお前は客観的に見て男の気を引く容姿だろう!だからと言って、全ての男がお前を性的な目で見るだなんて自意識過剰も甚だしい!少なくとも、俺がお前をそういう目で見るなんてことは絶対有り得ない!!いいな!分かったか?!」

「……は、はぁい……」


 野次馬達の好奇に満ちた視線、笑いを噛み殺す空気は睨みを利かせて霧消させる。

 その後、駆けつけた警察官に標的の身柄を引き渡すと、律儀にもずっと待っていた女――、ロザリンドというらしい――、に、謝礼代わりに食事を奢って終わりの筈だった。


『あたしでも賞金稼ぎになれますかっ?!』


 彼女がこの一言を口にしなければ――

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