第31話 守る意味

(1)


 最初の剣戟を止められても左程驚きはしなかった。むしろ予想がついていた。

 マリウスの短剣ダガーに弾き返される反動を利用し、ミアの動きの見よう見まねで彼の頭上で高く宙返り。

 脳天に踵を落とし――、落とそうとしたが、ロザーナの踵が彼の頭頂部に達するより早く、マリウスは彼女の足首を掴む。


 しまった、と思った時には時遅し。仰向けの状態でマリウスの肩に担がれてしまった。


「嬉しいなぁ。君の方から僕の腕に飛び込んできてくれるなんて」

冗談ジョーダンっ!」


 腹筋の力のみで上体をひねり起こす。短剣の柄を二つ同時に頭頂部へ力いっぱい叩き込む。

 呻き声を上げ、マリウスが膝をついた隙に自ら砂浜へ転がり落ちる。

 漆黒の髪に白い砂粒が絡む。鼻の中や咥内はじゃりじゃり、喉はイガイガして不快だ。

 マリウスとの距離を取った上で起き上がり様、軽く咳き込んで唾を吐く。

 頭頂部を抑え立て膝をつきながら、マリウスは苦虫を噛み潰した顔でその様子を見つめていた。


「女の子が唾を吐くだなんて……、随分と品がなくなったね」

「口の中に砂がいっぱい入ってしまったんだもの。不可抗力よ」

「違う。昔のロザリンドならそんな下品な真似しなかった!賞金稼ぎなんて野蛮な仕事してるせいだ!」

「言葉を返すようだけど、吸血鬼化して人を平気で殺す貴方こそ野蛮だと思う。昔の貴方ならそんな酷い真似しなかったのに……!」


 強く砂地を踏み込む。一定の距離を開けた上でマリウスを囲むように駆ける。

 ぐるぐる駆け回るロザーナの一挙手一投足を見逃すまいと、マリウスも動きに目を凝らす。


 今回は、今回の標的だけは、命を奪うことも辞さない覚悟でいる。

 彼を狂わせたのが自分だと言うなら尚更。自分が引導を渡さなければ。


 吸血鬼は生命力が強いと聞く。(例えに出して申し訳ないが)ミアだって怪我の回復力は人間より少し早い気もする。銃では不安だ。剣で喉なり心臓なり、額なりを貫くかしないと。

 この手で確実に仕留めた感触を得るくらいでないと。


 間合いを詰めるのは簡単だろう。あちらは詰められてもいいとすら思っているかも。

 今だって、こちらの動きに最大限注意を向けている割に、反撃する気配が微塵も感じられない。


 マリウスはロザーナが飛び込んでくるのを待ち構えてる。

 こちらが仕掛けてこない限り、彼は動くつもりが一切ない。


 下手に接近すれば、さっきと同じ轍を踏む。

 もう少し距離を取り、様子見を兼ねてもう少しだけ駆け回ってみる??

 それとも剣ではなく、やはり銃を使う??かんしゃく玉を投げつけ、僅かな隙を突いて――、否、逆に剣から銃に持ち変える隙を突かれてしまうかもしれない。

 身体能力が以前より向上している分、飛びかかられでもしたら一貫の終わり。ミアからもかんしゃく玉を食らっている分、二度も同じ手を食らうとも思えない。


 剣を捨て、逃げる振りをしながら照明弾を撃つ??

 前方遠くの防波堤にはスタン、後方の岩礁にはミアが待機している。

 二人、もしくはどちらか一方が駆けつけてくれるなら……、とまで考えたが、頭を振る。


 らしくない。たかが一度の失敗で怖気づくなんて。

 臆病風に吹かれた状態でとどめを刺そうなど考えが甘すぎる。

 刺し違えてでも、必ずや仕留める。


 正面からまともにはいかない。力では到底敵わないもの。背後からも失敗に終わった。

 ならば今度は弱点を狙う。彼は右利きで昔から左脇の守りが僅かに甘い癖がある。鍛錬中、彼の父親から何度も指摘されてもなかなか直せずにいた。

 今彼が手にしているのは短剣ダガー一本のみ。同じ短剣でもロザーナのバゼラレルドの方が刀身は長い。懐に滑り込み、脇腹を貫くことができれば――


 助走をつけ、砂地を思いきり踏み込む。

 駆けながら右手の剣は鞘に収め、左手の剣を両手で握り込む。

 ハッと見開かれた群青の双眸と目が合った時には、左脇の間合いへ飛び込んでいた。

 振りかざされた短剣ダガーの切っ先を潜り抜け、左の脇腹へ剣先が届く――、と思った刹那、マリウスの姿が視界から消える。


「遅いよ」


 耳元で甘い囁き声。腕に手刀を落とされ、剣は砂にうずもれた。

 残る片方を鞘から引き抜こうにも、背後からきつく抱きすくめられ身動きが取れない。

 せめて肘鉄くらいは、と思えど、の恐怖が身体だけでなく心までもを縛りつける。


 どうして、彼に対してだけ、あたしはこんなに弱くなってしまうの??


「やっと捕まえた。これでもう、君のために命を落とす女性はいなくなるから大丈夫だよ??少し痛いかもしれないけど、すぐに君も僕と同じになれるよ」

「何で??ねぇ、何でなのぉ……??楽しい思い出もたくさんあったのに、何で、全部台無しにしちゃうのぉ……。何で、関係ない人達まで巻き込むのぉ……」

「君がいつまでもつまらない意地を張るからいけないんだ。いくら君が普通の女性より強かったとしても、所詮は女性。力じゃ男には敵わない。現に今も僕の腕から逃れられないじゃないか。いいかい??女性は男に守られて生きることこそが自然の理なんだ。逆らう方が間違ってるっていい加減気付こうよ??女性が誰にも何にも縛られず、自由に生きようなんて馬鹿げた考え、いい加減捨てようよ??ねぇ、ロザリンド」



 拙いなりに築き上げてきた自信とか尊厳とか、この人はちっとも見ようとしない。

 見ないどころか、ことごとく打ち砕こうとしてくる。

 打ち砕いて、打ち砕いて。バラバラに砕かれたあたしを、お気に入りの箱の中へ仕舞い込もうとする。ほんとう、冗談じゃない。


 なんて、肚の中では込み上げる怒りが煮え滾っているのに、実際逃れられない自分にも非常に腹立たしい。


「離してよっ、クソッタレ!」


 普段なら決して言わない悪態が思わず口をついて出てくる。

 マリウスの秀麗な顔が露骨に歪む。


「……なんて、汚い言葉を使うんだっ!もういいっ」


 マリウスの目が真っ赤に染まっていく。

 鋭く伸びた牙を、今にもロザーナの白い首筋へ突き立てる直前――、ぴたりと動きを止めた。






(2)


 この仕事をロザーナに任せるのは正直、かなり不安だった。

 三年前のハイディマリー捕縛失敗から察するに、己と深い関りを持つ者との対峙で気負い過ぎるからだ。なのに、ノーマンはこの仕事はロザーナ以上の適任者はいない、と言い放った。


「どこが適任なんだ……!」


 剣戟が一度しか聞こえてこなかったし、銃声もない。波の音に紛れ、かすかに砂を蹴る音ばかりが聞こえてくる。つまり攻撃しあぐねている。

 ただ、攻撃しあぐねているだけならいいが――、待機するスタンは気が気でない。

 万が一、掴まって吸血されでもしたら。最悪の事態ばかりが脳裏に浮かぶ度、打ち消していく。



 彼女は俺みたいなのが汚していい娘じゃない。

 気軽に触れることすら許されてはいけないんだ。







 三年半前のあの日――、ロザーナと廊下で別れ、自室に籠っても吸血衝動が治まらなかったスタンは真夜中過ぎ、一人で城の裏庭へ訪れていた。

 庭と言っても一切の手入れもせず雑草が伸び放題、何百年も前の花壇跡と古い井戸があるだけ。ここに訪れるのは発作が止まない時のスタンただひとり。

 ここなら誰も来ない分、落ち着くまで、何なら一晩中でもいられる。とにかく人間との接触はおろか、気配を感じるだけでも辛いから。


 散々噛みついたせいで、両腕は噛み痕だらけかつ血だらけ。

 やはり、ノーマンやイェルクの助言通り、もう少し血を口にした方がいいのかもしれない。否、いいに決まっている。いいに決まっていると頭では分かっている。どうしても抵抗を感じるのは、採取した血を受け取る度、自分が化け物だと認識させられるのがこたえるのだ。我儘なのも程がある。それで苦しんでるのだから自業自得。

 だから、こうして――


 井戸端に座り込もうとして、ある筈のない気配を感じて振り返る。

 真っ暗闇の中、殺気を込めて睨みつければ彼女の肩に力が入る。


『……お前、何しにきた』

『何って、髪を洗いに……??明日は非番だしぃ、染め粉で浴室汚すといけないからいつもここで洗って』

『そんなことまでは訊いてないっ。悪いが今夜は諦めてくれ』

『スタンさん、やっぱりどこか調子悪い??イェルクさんのところへ……』

『放っといてくれと言ってるだろう?!じゃないと……』


 若くて健康的で美しい娘。

 怒鳴りつけても怯むどころか、駆け寄ってくるなんて。

 今、この場には自分と彼女の二人しかいない。

 駄目だ、こっちに来るな。頼む、俺から逃げてくれ。頼む、頼むから!



 気がつくと、スタンはロザーナを組み敷いていた。

 薄く降り注ぐ月灯りが強張った顔を、草の上に拡がる黒髪を、白い首筋を、彼女が持つ美しさを余すことなく照らしだしている。大きく上下する胸元から首筋の動きに目が行きそうになり、なけなしの理性で押し留める。

 声も出せないくらいの驚き、もしくは恐怖に駆られた表情から、自分の目は紅く染まっているだろう。上の歯がひどく疼くあたり、牙も伸びてきている。


『……だから言っただろうっ!』

『…………』


 これ以上は言葉が続かない。理性の制御が限界を迎えつつあった。

 頭の片隅でやめろと叫ぶ自分、我慢しなくてもいいと唆す自分とで気が触れそうだ。


 この細い首筋に牙を突き立てれば、もう苦しくなくなる。いや、駄目だ。何を考えてる。

 やめろやめろやめろやめなくていい続けろやめろやめろやめてくれいいから続けろやめろやめ――




『吸ってもいいのよ??』


 とても穏やかで静かで優しい声に、急速に理性が引き戻される。

 慌てて首筋から顔を離す。噛み痕はついてしまったが、辛うじて血は吸っていない。

 血を吸わなければ、噛んだだけなら吸血鬼化しない。心底安堵した後、恐る恐るロザーナの顔を覗き込む。下から見上げる菫の双眸も穏やかで静かで優しかった。

 息を切らしながら身を起こす。解放されたらすぐさま逃げると思いきや、ロザーナはまったく逃げようとしなかった。


『……ロザーナ、すまない。本当にすまない。謝っても謝りきれない。気が済むまで俺を殴れ。何なら殺してくれていい。殺すのは無理でも伯爵アールに報告してくれ。相応の制裁が必要だ』


 起き上がって座り込んだロザーナに向かって深々と地面に伏す。

 ぎりぎりで踏み止まったとはいえ、結局母と同じ過ちをしでかしているではないか!

 穴があったら入りたいどころか、いっそのこと生き埋めにでもして欲しい。


『うーん……、確かにちょっぴり怖かったけどぉ、殴らないし報告もしないわ』

『すまない、すまない、すまな……、なに??』

『だって、スタンさん、とっても辛そうだったもの。あたしね、今まで色んな人から酷いこと言われたりされたりしてきたけどぉ、その人達に共通するのはどこか愉しそうってとこだったのぉ。でもスタンさんは、あたしまで辛くなってきちゃうくらい、辛くて苦しそうな顔してた。そんなに苦しいならもう我慢しなくていいんじゃなぁいって、つい思っちゃったわ。でも、血を吸うこと自体がスタンさんには我慢ならないんでしょぉ??』


 白檀の香りが一際強く香った。決して不快ではなく心地良い……と閉じかけた目が大きく見開かれる。香りが強まったのは、ロザーナの胸に頭を抱えられたからだ。

 驚きとも困惑とも羞恥ともつかぬ、複雑極まる感情が一気に押し寄せてくる。頭が真っ白になるとはこういうことか。


『そう思える内はきっとだいじょうぶっ!スタンさんは人の心を失っていない証拠じゃなぁい??』


 化け物の本性を知っていながら、その化け物に襲われたというのに。

 それでもまだ『人』として見てくれるのか。接してくれるのか。


 きっと彼女はなにげなく、思ったことを口にしたまで。

 そのなにげない短い言葉ひとつでどれだけ救われただろう――








 だからと言って彼女が自分に救いを求めるとは限らない。

 彼女は余計な手出しなど必要としない。守られる立場に回るのを不本意と捉える。

 あくまで自分のお節介だ。


 助走などつけなくとも全速力で走ってきた分、跳躍しやすい。

 彼女を捕らえて離さない男の背中目掛け、強烈な飛び蹴りを食らわせる。

 攻撃威力は高くないが、銃や刺突短剣スティレットでは彼女まで傷つけ兼ねない。

 目論み通りロザーナは蹴りの衝撃で緩んだマリウスの腕から逃れ、スタンの傍に駆け寄ってきた。


「ロザーナ、先に謝っておく。すまない。後で俺を好きなだけ殴れ。もしくは殺してくれていい」


 ロザーナにだけ聞こえるようボソボソと口早に告げる。

 え、なんで?!と言いかけた唇へ噛みつくように、自分のを乱暴に重ねた。


「こういう訳だ。理解できたか、糞野郎。こいつが欲しけりゃ俺を殺してからにしろ」


 マリウスを嘲笑うスタンの目は薄青から血色へ変わりつつあった。

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