第40話 異変

(1)


 ――時同じ頃、吸血鬼城・大広間にて――



 扉から最奥のマントルピースまで続く、常設の長テーブルは撤去され。全ての照度類は消灯、壁掛け燭台の炎がゆらめき、室内を、この場に集う者達の青白い肌を仄赤く照らしだす。

 彼らが固唾を飲んで見守る先はマントルピースの前に立つハイディと――、椅子に座るマリウスの姿だ。ちなみに椅子といってもただの椅子じゃない。座面及び背面が太い針山と化した鉄の拷問椅子だ。

 革の拘束具で手足の動きを封じられ、痛みと屈辱で身を捩り続ける筋骨逞しい背中が、下肢が真っ赤に濡れそぼる。椅子の脚を伝って生々しい赤が滴り落ちていく。その赤は、似たような赤色の絨毯に吸収されていく。

 悶え、咆哮し、暴れ続けるマリウスの顔はかつての爽やかな美貌は見る影もない。見事な金髪は腰のない白髪に、群青の瞳は黒ずんだ青へ。


 人相が変わる程の痛みを与えながら、ハイディは平然と彼を鞭打つ。

 いつも好んで纏うフリルのシャツワンピースや寒色系のドレスじゃない。死神を彷彿させる闇色のフリルドレスだ。拷問の場に併せて誂えたのだろう。


 息を張りつめて見守る一族達の緊張と恐怖などまるで感じていないかのように――、否、事実感じていない。感じていたとしても彼女にとってはどうでもいい些末事。

 鞭が蛇のようにしなり、空を切る。バシンと肉を打つ音に次いでマリウスの悲鳴に支配された広間、一族達は必死に祈る。


『ハイディマリーのご機嫌が一分でも早く収まりますように!』


 するとどうだろう。彼らの願いが届いたのかどうかは謎だけれど。

 突然、ハイディはマリウスの鞭打ちを止めたのだ。その代わり、持ち手で彼の顎をくいと引き上げる。スタンに割られた顎はまだ治癒しておらず、苦悶の表情に冷笑を投げかける。


「何??唯一の取柄の顔だけは傷つけずにいたのに。不細工な表情されたら意味ないじゃない、だっさ。ねぇ、つまらないわ。誰か、を持ってきて」


 戦々恐々と身を寄せ合う一族達を振り返る。扉の方向へ細い顎をしゃくれば、数人が慌てて退室していく。バタン!という音とおざなりに閉められた扉に片頬がぴくり引き攣った。

 ハイディの不機嫌の芽を摘むべく、輪の中からまたひとり、抜け出して速やかに、静かに扉を閉めに行く。


 わざわざ口にせずとも些細な表情の機微を読み取り、自分の思うままに行動する。

 なんてよくできた操り人形たち。たまには褒めてやってもいいかしら。


「それに引き換え……」


 満足げに微笑したのもほんの一瞬。再びマリウスに向き直るなり、さっきよりも鞭を強く打ち振るう。心なしか悲鳴も大きくなったような。


「ちょっと!はまだなの?!遅い!!」

「申し訳ございません!ただいまお持ちします!!」


 怒り心頭で叫んだのと、扉を開け放し、足をもつれさせながら室内に駆け込んできた者の叫びが重なった。


「早くしなさいよ、愚図」

「申し訳ありません……」

「もういい。下がって」


 あと数歩で隣に並びかけ――、並ぶ前にハイディ自身がその者に近づき、持ってきた果物ナイフをひったくった。礼を言うでもなく、鞭を押しつけ用が済んだと引き下がらせる。

ナイフで左の人差し指を切りつければ、かすかな血の匂いにマリウスが顔を上げる。


「選ばせてあげる。私の血を舐めて下僕になるか、あそこの鉄の処女アイアン・メイデンの中で朽ちるか」


 マントルピースの隣、数々の拷問具を果物ナイフで指し示す。

 悲鳴があちこちから上がるのが煩わしい。別にあんた達を拷問にかける訳じゃないのに。

 それに、ハイディは本気でマリウスを拷問死させようなどと思っていない。二言目にはロザリンド、ロザリンドといちいち煩いし、顔だけの脳筋男かつ性格異常者なのはいただけないが、その顔一点に利用価値がある。少し老けてしまったが、見ようによっては美中年に見えなくもないし。


「迷ってるみたいね??ロザリンドと私を天秤にでもかけてるのかしら??でも残念。彼女、あの目つきと口の悪い、元某国貴族の小男に夢中みたい」

「嘘だ!違う!!あんな下衆をロザリンドが」


 また戯言が始まった。

 嘘も何も、誰の目から見ても明らかじゃないの。ロザリンド自身が自覚してるかどうかは別として。


 うんざりと右から左へと聞き流しながら、やっぱり殺してやろうかしらと悩み始める。

 でも、例の場所へ連れていくには見栄えがする方がいい。彼の容姿は男衆の中でも群を抜いている。


「つべこべ言わずにとにかく舐めなさいよ」


 悩むなんて自分らしくない。

 唾を飛ばして戯言、妄言を吐き散らす口の中へ赤く染まった人差し指を強引に突っ込む。軽く噛まれ、痛みと不快感に襲われる。

 すぐにでも指を引き抜き、平手打ちしてやりたい。でも、唯一の取柄顔の良さを損なう訳にもいかない。

 悪感情を押し殺し、マリウスの咥内で指先をぐりぐりと動かす。傷口は拡がりつつある分、舐めさせる血の量もごくごく少量、一滴に満たないながらも増える。舌で押し返されそうになる度、指先に力を加えて押し留める。


 目には見えない、余りに地味すぎる攻防。

 しかし、彩度の褪せた群青コバルトブルーの瞳から反発と拒絶が次第に薄れていく。

 ほら、だんだん私への崇拝と服従の意思に支配されていく。


 なぜ若い人間の女への吸血が禁忌とされているのか。

 表向きには余りの美味さに女ばかりを狩るのを防ぐため。人間と吸血鬼とで保ち続ける均衡を崩さないため。だが真実は違う。

 若い女の血を長い年月かけて大量摂取した吸血鬼の血には魔性が宿る。

 その魔性の血を同族に舐めさせることで彼らを完全服従化させられるという――


 これは代々吸血鬼の長たる者のみ、少し前であればあの老いぼれヴェルナー唯一人が知る秘密だった。

 一方的に懸想してきた同族の男に襲われ、抵抗中に腕を咬まれなければハイディも命果てる時まで知らずにいただろう。(その男は後日、激しい拷問の末に全身の血を搾り取ってやった)


 禁忌の真の理由を知り、尚且つ己に利用する力があるのなら最大限利用するのみ。

 幸い、あの老いぼれと元当主候補以外は並か無能の集まり。血を使って取り込むのは赤子の手を捻るより容易い。

 二人の監視を掻い潜り、少しずつ、着実に城内で下僕を増やし続け――、遂には一族の長の座を手に入れた。



 弛緩したマリウスの唇から指を引き抜く。血と唾液に塗れ、歯型の痕が残る指先に顔を顰める。

 即刻フィンガーボウルを用意するよう、一族の輪をきつく睨めば何人かが慌てて室外へ飛び出していく。何かある度、いちいち取りに行かせるより最初から用意した方が断然効率的だが、下僕共の忠誠心を試すためにあえてこうしているのだ。


「ハイディマリー様……」


 誰よりも陶酔しきった目で見つめてくるマリウスを満足げに一瞥する。

 つい数分前までロザリンドに異常な執着を見せていたとは思えぬ、この熱い眼差しときたら!


「マリウス。私の為に、私の為だけに存分に働いてくれる??ロザリンドのことも今すぐこの場で記憶から消せるかしら??」

「ええ、当然です。僕のこの目にはもう貴女以外誰も映らない。貴女だけのために生き、貴女のために死にゆくでしょう」

「そう。じゃあ早速だけど、拷問椅子に染みついた貴方の血を全部舐め取って」

「貴方の望みでしたら喜んで」

「言っておくけど、顔だけは絶対傷つけないで。いい??絶対よ??」


 強く念を押し、汚れていない方の手で拘束具を取り外す。

 マリウスが針山椅子の突起を慎重にひとつひとつ舐め始めた傍ら、ようやくフィンガーボウルを手にした下僕が帰ってきた。


 パァン!


「遅い!」


 フィンガーボウルで指を洗うなり、濡れたままの手で平手打ちを食らわせる。

 力一杯叩かれたにも拘わらず、ボウルを手にした老紳士は落とすどころか水滴すらも零さないのは忠誠心のなせる業か。きつく睨み据えるハイディの手を、眼鏡をかけた若年男性が丁寧極まる手つきで拭いている。


「まったく、いつになったら使い物になるのかしらね!男の年寄り程使えないって本当だわ!!」

「……大変申し訳ありませんでした」

「あんたからの謝罪はもう聞き飽きたのよ!」

「申し訳ございません」

「あんたも!いつまで私の手を拭いてるの!いやらしいわね!もういいから、ヴェルナーもドミニクも下がって頂戴!!」


 癇癪を起こし、喚き散らすハイディに、二人は狼狽えた様子で輪の中へすごすごと戻っていく。情けない後ろ姿にはかつての威厳の欠片も感じられなかった。

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