第55話 子供部屋の女王様
かつて羨望と畏怖の対象だったハイディと対峙していると、心臓の鼓動は暴れているかのようにうるさい。昔は目を合わすことさえ怖かった。でも、今は銃口を向けている。
蔑まれるのなら、まだ、いい。それよりも怖いのは――
ハイディはミアを一瞥すると、一言だけ言い放った。
「はいはい」
無関心な口調。顔色ひとつ変えず、長い髪をかきあげる。再びミアを一瞥した瞳は、ミアを見てるようで見ていない。崩れかかった部屋の一部を目に留めるような、人物ではなく無機物を見る目。
罵倒や嘲笑すらされない。むしろ端から相手になどされていない。
ミアのささやかな自尊心はひどく抉られ、身体は萎縮させられる。
グリップを握る両手が震えそうだ。照準がほんのわずかながらぶれていく。
引けそうな腰に力を入れ押し戻す。後退しかけた足をその場に押し留める。
しっかりしなきゃ。早く撃たなきゃ。
グリップを更に固く握り、トリガーに指をかけてもハイディの褪めた目つきは変わらない。
殺傷能力のない銃とはいえ、ペイント(+強烈なカメムシ臭)に塗れるなど耐え難い筈、なのに。
「撃てば??」
一段と冷え切った声。投げやりな短い一言。
挑発する気も失せる、というか、興味すらないと思われているのが、ありありと伝わってくる。
ハイディはミアの存在など歯牙にもかけない。
言いたいことの10分の一も言えない程気弱だった昔も。
賞金稼ぎとして少しずつ心身共に強くなりつつある今でも。
ミアが変わろうが変わるまいが、ハイディにとってのミアはどこまでいっても路傍の石なのだ。
「邪魔」
その路傍の石を軽く蹴とばすかのように、ハイディが一歩踏み出す。
つられて思わず、一歩、後退してしまう。何をやっているのか!
過去に屈強で凶悪な犯罪者達を、単独犯のみならず複数犯を何度も相手取ってきたのだ。
吸血鬼とはいえ、彼らと比べてハイディは非力な少女。なのに、呪いのように己が勝手に植え付た彼女への畏れが、払拭、できない。
ミアの弱気の虫を悟ったのだろう。
眼前に迫る、凍てついた美貌に嗜虐的な笑みが浮かぶ。柘榴色から青緑に戻った双眸に初めて感情が――、愉悦と侮蔑の色が宿る。
銃口を向けている方が怯え、向けられている方が愉しむ。
瞳の色が戻ったように、ハイディが拡げていた蝙蝠羽根も上唇から覗く牙も元通り。対するミアは蝙蝠羽根を拡げ、構えた銃を下ろさずにいるのに。
吸血鬼の特性を出さずとも、ミア程度なら出し抜ける自信を察した瞬間、頭にカッと血が昇り、気づけばトリガーを引いていた。
無意識ではあったが、ペイント弾はちょうどハイディの顔面に命中するだろう。ハイディの顔が不快と焦りに歪んだ、気がする。
弾を避けるのは不可能。再び本性を現し、力を発揮しようにも羽根を出現させる間もなく直撃する――、かに思われた。
直撃寸前、ハイディの顔が弾道から逸れ、消失した。
否、消失したのではない。弾道の真下にあったのだ。
柔軟の開脚よろしく床にぺたりとくっつく、180度に開いた両脚。
脚と共に両腕も真横に伸ばしながら、ハイディはミアを嗤う。
弾は後方の壁へぶち当たり、偽の血飛沫が真白の壁に描かれる。流れてくるカメムシの臭いが目に染みるが、一瞬でも目を離してはならない。
「背中に飛沫がかかったじゃない」
ハイディの目が対等な者を見る目に変わってきた。
開脚していた青白い脚を閉じると、立ち上がり様睨み上げてくる。凄みのある目つきに鳥肌が立ちそうだ。
いけない、臆するな。臆したら負けになる。
無防備にも程がある姿はまたとない好機。今すぐ動け!
「ぶつぶつと何言ってるの。別にマリウスがいなくたって、私が本性出さなくたって、あんたなんかいくらでも潰せる。だって未だに私を怖がっているじゃない」
「怖がってなんか、いないわ」
「嘘。嘘よ。ごまかしたって無駄。目を見れば一目瞭然。声だって震えてる。あんたの本質は臆病で無能な負け犬。人の本質なんてね、そう簡単に変わらないんだから」
また一歩後退しそうな足をその場に押し留める。
惑わされるな。この三年で経た変化を自分自身で否定するな。
例え、ハイディの言う通り、本当に何も変わってなかったとしても――
「…………ない」
「なに??聞こえない」
「…………はない」
「は??ごにょごにょした鬱陶しい物言い、相変わらずね」
「ハイディに……、私の価値を決めつけられる筋合いは……、ない。一切ない……、って言ったのっ!」
「……は??誰に向かって偉そうに言ってるの、ねぇ??」
ハイディの声色が一段と低くなり、眉間に深い皺が寄る。
眉間の皺の数が増えるごとに、再び瞳の色は紅く染まり、牙が伸びていく。
即座に銃を構えたが、少し遅かった。ほんの数秒の出遅れにより、飛びかかってきたハイディの手が銃を叩き落とした。
銃は床を回転しながら滑り、そして――、床に空いた穴の一つから階下へ落ちていく。
その間、わずか一〇秒弱だったが、一連の出来事がやけにゆっくりに感じられる。そんな悠長に構えている状況ではないのに。
「偉そうなこと言って、このザマは何なのかしらね」
ミアの上に馬乗りになりながら、ハイディは
先程よりもずっと凄絶な笑みなのに不思議ともう怖くない。
ミアの眼から畏れが消えたのを察したのだろう。ハイディは唇を徐に歪めると、いきなりミアの頬を平手打ちしてきた。凶器の如く長く鋭い爪が、柔らかな頬に幾筋かの傷を残す。
薄く滲んだ血を見てハイディは舌なめずりをする。
「そう言えば、若い娘で純血の吸血鬼の血は飲んだことないわね。若いだけで取り立てて美しくないのが残念だけど」
半ば冗談交じりの脅しとも本気ともつかない、不穏な発言。
しかし、ミアは動じないどころか、ある一点を見つめていた。自身に着目せず、明後日の方向を見ているように思ったのだろう。たちまちハイディの怒りに火がついた。
「あんた、私を無視する気??この状況で??馬鹿なの死ぬの??干からびるまで吸血されてもかまわないって訳ね??」
黄金の緩やかな巻毛が額に、頬に、唇に、首筋に、胸元に落ちてくる。怒りで赤みが増した瞳が迫る。勢いづいたハイディの牙が首筋に届く――、届くよりも速く、ハイディのみぞおちに膝を突き立てた。
ギャッ、と悲鳴が上がると共に、跳ね上がった身体から擦り抜ける。
素早く立ち上がれば、みぞおちを押さえながらハイディはギリギリと奥歯を噛みしめていた。
凶悪極まる目線の先にいるのは、ミアでは――、ない。
「お待たせぇー、遅くなっちゃってごめんね、ごめんねぇ」
ハイディのほっそりとした喉元に宛がわれるは、
もう片方も同様に短剣を握りつつ、同時に長い金髪を掴み上げている。
「あのオバさん、締め上げて拘束するのにちょっと手間取っちゃったぁ。あたしってば、ダメねぇ。イライラするのは良くないわねぇ。仕事に支障きたしちゃうものぉ」
ロザーナの口から『オバさん』『イライラする』等、棘を含む言葉が出てくるのは非常に珍しい。スタンにちょっかい出されたのに加え、ハイディを目の前にしているのも一因かもしれない。
メルセデス夫人とスタンがいた壁際へ視線をさりげなく寄こすも、拘束されて床に転がる夫人の姿しかない。
「スタンさんなら下へ降りて皆の援護に回ったわ。今この場で動けるのはあたしとミアだけ」
ロザーナの顔がハイディに近づく。
髪と虹彩の色が違う以外、瓜二つの顔が並ぶ。浮かべる表情は朗らかな笑顔と屈辱に耐える怒り顔と、全く違うけれど。
「怖がる必要なんてないのぉ。この子はね、いつまでたっても子供部屋で癇癪を起こす小さな女王様でしかないからぁ」
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