第82話 違和感の正体

(1)


 どのくらいの時間、スタンの背中を撫でていただろう。徐々にではあるが、うなだれていた頭の角度が上がりつつあった。

 しんみりし続けていてもどうしようもない。多少強引にでも他事で気を逸らさなければ。


「髪、伸びたね」


 顔全体を覆い隠す鈍色の前髪を、横髪を、手櫛でやさしく梳く。スタンは拒絶することなくロザーナのされるがままだ。

 元々、彼の前髪は顔の半分が隠れる長さだった。長髪、というほどでもないが、横髪も襟足も男性にしては長い。現在の前髪の長さは唇の近くまで達し、横髪、襟足も縛れる長さまで伸びている。


「あたし、髪切ったげるわねぇ!ほらぁ、ちょっとしたことだけどぉ、気分転換になるかもしれないしっ。あ、でも、スタンさんがイヤなら断ってくれて全然いいからねぇ??あたしが勝手にそうした方がいいかなぁーって思っただけだからぁ」


 スタンは、ゆっくり、顔を上げた。が、それ以上の反応は返ってこない。

 だったら別の話題に切り替えようか。


「髪切るのは今度にしよっかっ。じゃーあ、ちょっと散歩しに外出てみるぅ??少しでも体力取り戻した方がいいだろうしぃ。外出るのが厳しいならお城の中歩くだけでも運動になると思うのっ」


 二つ目の提案にもスタンは反応を示さない。

 明るい笑顔を保ちつつ、水に落とした黒いインクのように不安の陰が胸中に拡がっていく。陰が拡がるごとに、昔の苦い思い出が脳裏に蘇ってくる。


 亡き母は酷く落ち込みやすい人物だった。

 一度落ち込むと当分沈んだまま。ロザーナが何を言ってもやっても、なかなか笑ってくれなかった。ロザーナには常に笑っていなさい、と口癖のごとく言ってたのに。

 母の気鬱は完全に置かれた境遇のせいだと今なら思えるが、幼い頃は自分が至らないせいだと胸を痛めたことも数知れず。未だに誰かを慰め、励ますのは──、自分自身が誰かに慰められたり、励まされた経験がほとんどないから、人の痛み苦しみに適切に寄り添えているか、自信が──、ない。


「……散歩はやめておこっか。あたし、これティーセットのトレイ片付けてくるわねぇ」


 スタンへ向けた笑顔も声の調子も曇っていなかった、と思う。カシャや自分と込み入った話をして疲れたかもしれない。今日はもう、そっとしておくのが賢明な気がしてきた。

 内心で自分に言い聞かせ、立ち上がると、トレイを手にスタンの側から離れようとした──


 ロザーナの両手がトレイから離れ、ティーセットもろとも落下し、数秒後。割れた白磁器の残骸もろとも、トレイは絨毯の上にひっくり返っていた。

 だが、ティーセットが割れた音よりも衝撃よりも、ロザーナ自身の身に起きた出来事に衝撃を受けていた。


 トレイを持ち上げ、一歩踏み出そうとしたとき──、ロザーナの天地が一瞬ひっくり返った。そして、今の状況に至る。


 細かく瞬きを繰り返しつつ、視線の先に天井が見えること、背中に固いマットが当たっていること、薬と消毒の臭いがより近く感じられること、などから推測するに──


「……って、いったぁ……」

「……馬鹿な女だ。片腕でもお前程度の女、いくらでも抑え込めるんだよ」


 力づくで押し倒されたベッドの上、頭上できつく押さえつけられた両の手首。そこに期待するような甘さは、ない。

 澄んだ薄青から毒々しい柘榴色に変化した双眸は愛情の欠片もなく、獲物への欲望がぎらついていた。


「スタン、さん……??」

「ハイディマリー様と同じ顔だからって気安く名を呼ぶな。虫唾が走る」

「なっ……?!」

「わからないのか、馬鹿女。俺は吸血鬼城で一度死に、ハイディマリー様の血のお陰で生き返ったようなもんなんだよ。ここへ戻ってきたのだって……」



 ──内側からお前たちを潰すためだ──









(2)


 時、同じ頃。吸血鬼刑務所。


 鉄格子に囲まれた空を眺め、鼻歌を小さく口ずさむ。珍しく上機嫌な後ろ姿を、たまたま独房の前を通りがかった刑務官は二度見し、注意も忘れて気味悪げに立ち去っていく。

 振り返って確認した訳じゃない。気配で察しただけだが、ハイディは気分を害するでもなく爽やかな空模様へ向けて歌い続ける。


「おい、静かにしろ」


 厳しい声にぴたり、唇を閉ざす。声と同じく厳しい視線が扉の監視窓から突きつけられる。さっきと別の刑務官だ。

 普段なら睨み返した上で、倍にして言い返すけれど、今朝は気分がいい。おとなしく言うことに従ってやってもいい。いつになく素直な態度に拍子抜けたのか、刑務官は舌打ちしたのち立ち去っていった。


 そうやって偉ぶっていられるのも今のうち、かもしれないのにね。

 ひとり、肩を竦めながら自然と頬が緩んでくる。

 だって、能無しだとばかり思っていた連中がなかなかどうして、いい仕事してくれたんだもの。


「まぁ、いざというとき、私がを残しておいたからこそだけど」


 誰にも聞き取れない声でひとりごちる。

 活用するか否か。吸血鬼城に残る連中次第ではあったし、期待などほぼ0ゼロだったのに。


「まさか、ねぇ」


 あの、目つきの悪い狂犬スタンに、冷凍保存していた自分の血アレを与えていたとは!


 混血の吸血鬼でも強制支配はできる。ハービストゥの吸血鬼で実証済みだ。

 忌々しい組織の要だった男が、強制支配の力で仲間を裏切る──、狂犬たちは一体どんな顔をし、どんな気分に陥るのか。想像するだけでとてつもなく胸がすく!

 特にロザーナの絶望ははかりしれない。母親は自殺、幼馴染マリウスは闇に堕ち、最愛の恋人は自分と仲間の命を狙う──、拠り所となる人物ばかりをことごとく失っていくのだから!


「ふふふふ、可哀想。本当に可哀想だわ。可哀想すぎる」


 可哀想、の言葉と裏腹に、くすくすと忍び笑いが漏れてくる。一度漏れだしたら、もう止まらない。おっと、あんまり笑っていたら、きっとまた注意されてしまう。

 頭ではわかっているのに、ハイディの笑い声は止まることを知らなかった。








※※※

一連のスタンの言動行動に「一貫性なくない?」と感じたかもしれませんが、その違和感こそ今後の更なる展開に繋がっていきます。

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