第75話 甘さはいらない

 吸血鬼城潜入から約一〇日。

 現時点で吸血鬼側の目立った動きは見られない。また、スタンも未だ戻ってこない。その間、住処では様々な変化が生じていた──








 ほぼ黒に近い、深緑の針葉樹の森を駆け回る。

 下生えの草を、背の高い繁みを駆け抜け、針葉樹の巨木群へと跳躍する。


 太い枝に着地した傍から、ミアの耳元を短剣ダガーがかすめていく。切っ先は耳朶を傷つけるには至らなかったが、顎まで伸ばした前髪の幾筋かがぱらり、宙に流れ落ちる。

 髪が切れるくらい些末ごと。いちいち気にするほどじゃない。それより短剣が投げられた方向を見定めなきゃ。ペイント銃を構え、息を殺して耳をよく澄ます。

 続けざまに短剣が二本、投擲される。今度は大幅に外れ、二本とも枝の何倍も太い幹の端に突き刺さった。


 枝から飛び降り、着地と同時に地を駆ける。ミアのあとを追うように投擲も続く。

 駆けながら照準を定める。両手で構えているせいで足が微妙に遅くなる。片手撃ちできない非力さを情けなく思うけれど、無理をすると大抵失敗に繋がってしまう。


「わ!」


 顔面に向かってきた切っ先をのけぞって躱す。訓練用に刃を潰していても、まともに当たれば相応の怪我を負う。ミア相手に顔を狙うとは相当真剣に訓練に臨んでいる。だったら、こちらとて容赦はしない。短剣が飛んできた方向へ二発、発砲する。

 悲鳴じみた鳴き声あげ、鳥たちが空へと飛び立っていく。ルーイの短い悲鳴もかすかに響いた。


 声が聴こえてしまえば、居場所なんて一発で特定できる。

 が、間断なく、正確に投げ放たれる短剣を避けながらだと思うように近づけない。三発目以降の発砲の隙も掴めない。ぎりぎりで躱していても、ごくたまに切っ先がかすめ、肌に薄く血が滲む。かすかな痛みを与えていく。


 ペイント銃を使うのはやめよう。袴キュロットのベルトに下げたホルスターに戻す。代わりに電流棒を引き抜く。

 訓練とはいえ、ルーイをなるべく傷つけたくない思いはミアの甘さだ。ルーイはその甘さを捨て、ミアを傷つけるのも辞さない覚悟でいる。甘さはかなぐり捨てないと。

 両腕は自由、照準に気を取られなくていい分、駆ける速度はぐんと上がる。短剣の動きも格段に見切りやすくなった。

 ミアの動きが速く良くなったからか、短剣の軌道がほんのわずかに乱れ始めた。つい先ほどまで、どちらかというとミアが追われる方だった。しかし、今はミアが追う方になりつつある。


 密生する巨大針葉樹の中を音速で駆ける。

 ミアの身体の二倍以上太い幹にぶつからないよう、障害物然と突き出た根っこや岩に近い大きさの石に足を取られないよう。一瞬の隙で形勢逆転に持ち込まれてしまうのだから。

 意識しつつも軽々と樹を避け、根っこや石を踏み越える。前を駆けるルーイはそれらを避けるので精いっぱいだ。投擲する余裕もなく、ミアとの開きがどんどん縮まっていく。


「うぎゃーっ!?え、ちょ、わぁあああ!!」


 樹の根につま先を引っ掛け、転倒したルーイに向かって一気に飛びかかる。

 慌てて投げつけた短剣は見当違いな方向へ飛んでいき、頭を庇う腕目がけて電流棒を振り下ろす。

 断末魔と言っていい悲鳴が森中に鳴り渡った。もしかしたら城の方まで届いたかもしれない。

 さすがに気の毒なので、電流スイッチは二、三秒押し続けただけですぐ指を離した。


「ちょっと、かわいそうなことしたかな」


 息を弾ませ、意識を失ったルーイの傍らに座り込む。緊張がほどけたためか、肌のごく浅い傷が今頃痛みだした。うん、まぁ、お互いさま、かな。

 吸血鬼城潜入以降、ふたりで毎日戦闘訓練を続けているのだが、日増しに容赦なくなってきている。でも、これくらいじゃないと肝心なときに使い物にならない。精神面でも肉体面でも。

 世情を慮ってミアは未だ復帰を許されてないし、ルーイは実戦に出るにはまだまだ半人前。だから、せめて訓練は怠らない。時にはロザーナやアードラ、兄妹にも付き合ってもらっている。


「ルーイくーん、おーい。だいじょうぶー??おーい、ルーイくーん」


 肩を軽く揺さぶると、うーん、と小さく呻くも目を覚ます気配はない。

 水筒持ってくればよかった。キュロットの裾でも破り、水で濡らして顔を冷やすくらいできたのに。


「医務室まで運ぼうかな……」


 一度は飛び立った鳥たちの影が森に戻ってくる。今日はもう訓練はお開きだ。

 ルーイならミアでも背負って運べるし、ミア自身も休憩したくなってきた。早朝から始めて、太陽の位置から見るに今はたぶん午後二時頃。おなかも空いたし汗も流したい。

 なのに、次の行動に早く移りたいときほど、なかなか息が落ち着かない。ルーイを運ぶ以上、体力の取り戻し方が中途半端だと途中で力尽きそうだし、焦れる気持ちを抑えて呼吸を整える。


 うん、たぶん、もうだいじょうぶ。


 更に時間をかけて、ゆっくりと立ち上がる。ルーイはすぅすぅと寝息さえ立てている。

 なるべく起こさないように抱えて、背負って……、と、訓練のときとは違う緊張を感じながら、ルーイに手を伸ばす。


「だれ??」


 草木を踏み分ける足音がふたつ、遠くから聴こえてくる。

 足音の大きさ、歩調の速さ、リズム……、誰のものなのか予想はつくが緊張は解けない。


「随分激しくやり合ったみたいだな!」


 再び鳥たちが森から羽ばたいていく。

 中腰で見上げた先には、何本も短剣を手に携えたイェルクが立っていた。


「あの、どうしてここに??」


 無造作にハーフアップにした暗い金髪ダークブロンドが日に透け、目に眩しい。

 まばたきしたり、目を眇めながら尋ねる。


「ルーイの悲鳴が城まで聞こえてきてな!気になって様子を見に来た」

「ルーイ、だいじょうぶ……??」


 イェルクの背後からそっと顔を覗かせたのはエリカだった。

 彼女にはイェルクが担当する医務関係の仕事を手伝う役を与えられ、彼と行動共にしている。万が一、エリカが吸血鬼の本性を現した場合も対処できるだろうという、住処全員によるイェルクへの信頼の元で。

 そのエリカはといえば、地面に仰向けに転がるルーイを見るなり、あわわ……と顔を青ざめさせ、イェルクとミアを交互に見比べる。細く、透明に近い白い手にはやはり短剣が数本握られていた。


「もしかして、ルーイくんの短剣をふたりが拾ってくれたの??」

「うん??森に行くついでに回収しようかと」

「あ、でもでも、全部は拾いきれてないの……、ごめんなさい、ミアさ」

「エリカ、ミア様はやめよっか??ここでの私はただのミアだもん」

「あ、」

「責めてるわけじゃないからっ、ね、ね??」

「は、はい、つい癖で……」

「うん、わかるよわかるっ。癖ってかんたんに抜けないもんね!」


 言葉を発する度におどおどとミアの顔色を窺うエリカに、昔の自分が重なる。否、一応は自分の意思(そうするより他がなかったのだが)で今生きる道を選んだが、エリカは強引に選ばされた。一緒にしてはいけない。

 実質世話係にあたるイェルクに対しても、立派な体格で声が大きく、隻眼、機械義肢の身体ゆえに『怖い怖い!』と話しかけるどころか近づくこともできず、ルーイとふたりががりで散々宥めたものだ。今は少し慣れてくれて心底ホッとしている。


「日進月歩だが、ルーイも成長してきたな」


 イェルクは手にしていた短剣すべてをミアに渡し、ルーイを軽々と背負うとしみじみとつぶやく。


「投擲の腕は確実に上がってます。いい意味で躊躇がなくなってきたし」

「仲間であっても攻撃の手を決して緩めない。特にミアに対して本気でぶつかれるようになってきたのはいい兆候だ」

「でも……、ミアさ、ミアが、女の子が傷だらけになるのは……」


 エリカが複雑な顔で、今日の特訓でできた肩や腕の傷をちらちらと眺めてくる。


「うーん、怪我しないよう動いたりするのも訓練のひとつだし。逆に怪我してるようじゃ私はまだまだかも」

「ははっ!ミアも言うようになってきたな!」

「だってホントのことじゃないですかっ」

「冗談だ!ルーイを医務室に運ぶから、君もあとで来なさい。かすり傷であっても手当はしないと」

「そ、そうですよっ、女の子のからだに傷あとが残ったらいけないわっ」


 うーん、痕が残るのはあんまり気にしてないけどなぁ、と苦笑しつつ。

 エリカの気持ちを無下にするのも悪いので、ミアはあえて何も言わなかった。


 今日も一人で仕事する相棒ロザーナを想うと、こんな掠り傷など痛くもなんともない。

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